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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 34号

2008-03-31 | 創刊~100号
       こならの森34号 1991.2.1発行

表紙 岩舟から見た三毳山の風景

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2p…看板娘
3-8p…町案内 
9p…結婚しました
10p…としこ/カラムコラム
11-20p…特集 塩坂峠
21p-22p…トピックス
23p…モータースポーツ
24p…美容と健康/街角
25p…コーヒー/本ベスト10
26p…本/絵本紹介
27-29p…情報
31-32p…協賛店名
33p…子育て編集日記

【本文抜粋記事】


町案内

こんなご時世だからこそ最も望まれるのが『平和』だと思う。
 寒い中外で取材を行なっていてもこんな事していていいのだろうか(別に血を流せ―とは言われないだろうけれども…)という自問がわく。そんなおりに見つけたのがこの道。正式にそう呼ばれているのかは定かではないが、この道の隅にひっそりとたたずんでいる碑には紛れもなく平和の文字が…
 相生町交差点から百メートルほど東に向かって右に入る路地が、今回紹介する道だ。最初はなだらかな登りとなっている。その先は丁字路で、これまた細い曲がりくねった路地が続く。その前に、その反対側にある路地を紹介しようと思う。取り立てたものなどない路地だが、大通りから少ししか離れていないというのにシーンと静まりかえって、物音しない路地だ。そればかりでなく、ちょっと開けた所には、オシドリ塚という碑がある。
 佐野市の史跡に指定されているという事だが、その詳しい説明はない。佐野史跡写真帳には、当時犬伏町に属していたらしく、浅沼と言う地名があった。現在その碑は相生町の所在となっている。
 さて本題の平和の碑だが50号線から金成院方面に入って二つ目の交差点を渡ると、左手に大きなガレージがありそのすぐ脇にある。高さは人の背丈ほど。何とも威圧感のある碑だ。今は冬、あたりにはその他に何もない。碑を後に坂を登って行くと途中の花屋さんの裏にレンギョの黄色い花を見つけた。満開だった。空の青とコントラストを成してとてもよい。
 ほどなく坂道も終る。ここは久保町と相生町を分ける分岐点となっているようだ。もちろん線が引いてあるわけではなくあくまで地図上での事。
 さて坂を過ぎれば下りだが、これが登りと違って短い。ここには夏ともなれば、朝顔の大垣根が出現し秋まで楽しませてくれるところだが今その垣根はない。
 坂をおりきって丁字路にぶつかり右へ行くと小さなカーブになっている。その近くに面白い作りの家を見つけた。ちょっと見ると平凡な家のようだが、左側をよく見ると教会のような、洋風建築がついている不思議な様式だ。文明開化の頃だったか、和風建築に表面だけ洋風建築を付けるのが流行ったがその名残だろうか。
 さらに少し行って左に曲がってみると、両毛線の踏切が見える。その先は東武線の高架線となっている。この高架線、よく見ると城を思わせるしっかりした石垣と情緒のある煉瓦でできている。また、水道管であろうか太い管がのっているのもおもしろい。以上のことなら別段書きとめるほどの道ではないと思い、ここが坂道である事に注目して眺望がよいところを探しにもどった。相生町と久保町を分ける地点まできてあたりを探してみた。左に入ってしばらく行くと、あたりが見渡せる素敵な公園が表われた。
 残念ながらみかも山は観音山に隠れて少ししか見えないが、遥かかなたの地平線は市内の家の上に見渡せる。公園と書いたがあるのは椅子とテーブルが二つ三つだけ。広さは、そんなに広くはないし、名前もついていないらしく看板もない。もちろん地図にも載っていない。人気のないところが最もよく、自分だけの秘密にしたい場所だ。
 帰りはまた来た道を戻り、市内の風景が沈み込みながら消えてゆくのをゆっくりと眺めながら坂道を下りてきた。



こならの森 33号

2008-03-30 | 創刊~100号
     33号 1991.1.1発行

表紙 夜景 市役所前のイルミネーション

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2p…看板娘
3-4p…町案内 【赤坂町】
5p…結婚しました
6p…おむすびポン
7p…トピックス
10p…カラムコラム
11-22p…特集 変わりゆく渡良瀬遊水池
23p…モータースポーツ
24p…アウトドアー
25p…コーヒー/本ベスト10
26p…美容と健康/街角の肖像
27-28p…情報
29p…本/絵本紹介
31-32p…協賛店名
33p…子育て編集日記


【本文抜粋記事】

■特集
変わりゆく渡良瀬遊水池

 「枯れ野にオギヨシの穂波が光り、茫々たる日本一の芦原は季節の深まりの中にある。八〇年もの間、誰も踏み入れていない小高い住居跡は在りし日の谷中村の人々の暮しを彷彿させる。沼ではチョウヒがカモの大群を追い水しぶきが上がる。この広い芦原には、まだ知られていないこといっぱいある…。」そんな、言葉に誘われてふたたび遊水池を歩ってみたくなった。

渡良瀬貯水池の働き
 洪水被害から守ってくれます。大雨が降ると川などの水があふれ家や田畑に水がつかり大変な被害を受けます。渡良瀬貯水池は渡良瀬貯水池にある三つの調整池と一緒に川の水を一時貯めて、下流へ流れていく水の量を少なくして洪水から私通を守ってくれます。毎日使う水を確保してくれます。
(新規都市用水の確保)

 毎日の生活にたくさんの水が使われています。小山市、野木町、茨城県、千葉県、東京都の人めために新たに216、000m3/日の水道水を送ります。川のきれいな流れを保ちます。
(流水の正常な機能の維持と増進)

 日照りが長く続くと川の水が少なくなり、川の水を利用している農作や川に住む魚などが影響を受けます。このようなことを防ぐため、貯水池に貯めてある水を流して、いつも川には水がなれているようにします。
   建設省関東地方建設局利根川上流工事事務所

渡良瀬遊水池散策
 二度目の遊水池散策。最初の時はただ広さと自然の雄大さに目を細めるばかりだった。今回はちょっと違っていた。もちろんちょっとばかりではないが……。(どのくらい変わったのかは、実際にいってみれば本当はよく分かるのだが…。)
 今回の最大の収穫は参加者の数だろう。当初は数十名というところだったが、マスコミ報道等でだんだん開発の内容が分かってきためだろうか、今回は二百名近い参加者となった。ことに地元藤岡町の参加者が多かったという。

 水土と緑を考える会からのメッセージ

 今ありふれた景色としてきた枯葦原、人口的な護岸や公園まがいの植え込みと比べると、なんと暖かく、なんと穏やかに見えることでしょう。この葦原が、鳥や小動物や昆虫を育んでいると知ると、さらにこの思いはたかまります。この葦原と、魚や可憐な植物を育てる湿地と、柳の林をこらから私達はますます大切にし、谷中村の歴史を真剣に学んでいかないければならないことを、強く感じました。次の観察会は、若葦が背をのばし、野草が小さな花を開き、チドリやシギが渡って来る五月頃を予定しています。またどうぞご参加ください。その間に湿地に関する学習会も開きます。知識が増えると観察会が一層楽しくなります。



こならの森 32号

2008-03-29 | 創刊~100号

       32号 90.12.1発行

表紙 三毳山定点アップ

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2p…看板娘
3p-4p…天神町/若松町
5p…結婚しました
6p…としこの童謡詩
6p…カラムコラム
7-14p…古墳
15p~20p…年末年始情報
21-22p…トピックス
23p…モーター
24p…アウトドアー
25p…コーヒータイム/本ベスト10
26p…美容と健康/街角の肖像
27-29情報
30p…本/絵本紹
31-32p…協賛店名
33p…子育て編集日記


【本文抜粋記事】

町案内

天神町/若松町

 佐野市の最もさのらしい所はどこだろうか、やはり中心街の若松町であろうか。駅前通りを紹介したい所だが駅南の改良中。そこで、天神町と若松町を分ける、殿町通りから県道までのJRと東武線の二つの踏み切りに挟まれた区間にスポットをあててみよう。
 今回は不思議な発見を紹介しょう。昔懐かしい看板がある。今は『三丁目の夕日』というアニメがTV放映されたりして、50年代ブームだがこの短い区間を通るだけで何とも懐かしさや楽しさを与えてくれる看板が多数出現してくれる。それはまるで1950年代のような、(あるいは私が生れた時そのままのような)錯覚に陥らせるのだ。車で通ってしまえば一分もかからない。でもそれではなにも見るものはない。
 JRの踏み切りには、創業百年何年というお寿司屋さんがあって、その前にはかつて写真のような建物が存在していた。だが惜しまれつつも壊された。しかし現在も昔そのままに水飴屋さんがあったりして安心させられたりする。これも知る人ぞ知るで、店内の一角には、マニアに取ってはよだれの出るようなものが所せましと並んでいたりして、どうしても売って欲しいと市外からやってくる人もいるとか。とにかく短い区間、歩ってもすぐ通りぬけてしまう。だがきっと新しい発見が待っている。なにもないと思っても一つでも見つかればあなたの明日からの生活を変えるに違いない。
 佐野市の最もさのらしい所はどこだろうか、やはり中心街の若松町であろうか。駅前通りを紹介したい所だが駅南の改良中。そこで、天神町と若松町を分ける、殿町通りから県道までのJRと東武線の二つの踏み切りに挾まれた区間にスポットをあててみよう。
 今回は不思議な発見を紹介しう。昔懐かしい看板がある。今は『三丁目の夕日』というアニメがTV放映されたりして、50年代ブームだがこの短い区間を通るだけで何とも懐かしさや楽しさを与えてくれる看板が多数出現してくれる。それはまるで1950年代のような、(あるいは私が生れた時そのままのような)錯覚に陥らせ
も見るものはない。
 JRの踏み切りには、創業百年何年というお寿司屋さんがあって、その前にはかつて写真のような建物が存在していた。だが惜しまれつつも壊された。しかし現在も昔そのままに水飴屋さんがあったりして安心させられたりする。これも知る人ぞ知るで、店内の一角には、マニアに取ってはよだれの出るようなものが所せましと並んでいたりして、どうしても売って欲しいと市外からやってくる人もいるとか。とにかく短い区間、歩ってもすぐ通りぬけてしまう。だがきっと新しい発見が待っている。なにもないと思っても一つでも見つかればあなたの明日からの生活を変えるに違いない。


こならの森 31号

2008-03-29 | 創刊~100号

       31号 1990.11.1発行

表紙「恵比寿講」夜景

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2p…看板娘
3p…としこの童謡詩
4p…結婚しました
5p~8p…町案内【大橋町】
9p-18p…MTB=秋山を行く
19p…トピックス
22p…カラムコラム
23p…モーター
24p…パラグライダー
25p…本/絵本紹
26p…コーヒータイム/ベスト10
27p…美容と健康/街角
33p…■子育て編集日記


【本文抜粋記事】

サイクリング&MTBツーリング

 普段走り慣れている道でも、自転車で走ってみるとまた違った趣があるもの。今回のサイクリング&マウンテンバイク(以下MTBと訳す)ツーリングは大通りをできるだけ避け歴史ある裏道を行く事にした。そのためか秋晴の中、十分に楽しめるものになったと思う。クレージーサイクリングクラブでは、春先にまたこうした企画を考えているそうだ。
コースを簡単に説明すると、東産業道路から秋山川サイクリングロードを抜け、唐沢橋近くの緑地、で小休止、そこからサイクリング派とMTB派に別れる。サイクリング派はそのまま、サイクリングロードをぬけ裏道を通って、葛生駅から仙波、五丈の滝というコース。MTB派は、一路唐沢山にある、農工大の演習林を使って、ヒルクライムレースを行ない。関東ふれあいの道を抜けて、京路戸峠から多田方面に下り葛生駅へ。後はサイクリング派と同じコース。
午前八時、吉沢輪業前に集合する。ウォームアップ、コースの説明と出発前の整備点検の後、いざ出発。参加者十三名余りが一斉に市内を駆けぬけた。足慣らしに秋山川のサイクリングロードを行く。天気も最高で、雲一つない。また寒くも、暑くもなくて風も心地よく絶好のサイクリング日和となった。目一杯ペダルをこいでも汗が吹きだすという事がないのだ。あっという間に、秋山川の緑地へ。小休止の後、コースの再確認と、諸説明。特にMTBは、道のあちこちに倒木が立ちはだかったり、丸太の階段が出現したり、数日前の雨で道がぬかるんでいたりで、初心者にはきついコースとなる。また、急な下りが何か所かあり、しかも道の右側が崖になっていて一歩間違うと転落の危険性もあったりで、十分な注意が必要だ。サイクリング派はのんびりとぺダリングを楽しんだようだが、 MTB派は、すぐに唐沢山を登ることになる。演習林のなだらかなアップダウンの道を流していくとヒルクライムのスタート地点にでた。ここで、先にゴール地点まで一人が向かい。一分毎に、一人づつスターとしていく方式を取る。ヒルクライムレースはMTBレースの中でもキツイ競技。ダウンヒルのような豪快さや、スリルもなく、ただひたすら登るという過酷なレース。距離にして二キロ余りだが、なかなかゴールは見えてこない。ちなみにトップの人のタイムは十一秒代だった。トライしたのは全員で八名。最後の選手が、ゴールに入って来る。みんなくたくたった。小休止の後、関東ふれあいの道に入り松並木を抜けてい く。今までの登りの疲れをいやす には絶好の道だ。しかし、少し行 くと、丸太道になっていて自転車に乗っていては登れなくなり、下りて歩く事になる。しかも登りだ。また、少々行くと、今度は下りの丸太道となる。また自転車下りて下るかと思いきや乗ったまま下っていく人も現われた。テクニックの差を痛感してしまう。やがて、急な下り道、右側が崖というやつだ。しかも、数日前に降った雨の影響でスリップしやすくなっている。途中でブレーキングしたら、どうなるか分からない。 一気にいってしまうのがいい、というアドバイスに、コワゴワ行ってみると難なくクリアー。ジェットコースターのごときスリルだった。何度かこうした急勾配が続き、やっと京路戸峠にたどり着く。これからは下りだ。サドルの位置を低くして、一気に下りへと思いきや、早速に倒木とでくあしおりて越えなければいけない羽目に。これでは気もそがれようというものだが仕方ない。ずーと下までなだらかに下って行けたらいう事はないと思いながらも、途中途中にある倒木にがっかりする。それでも他の人は、初めての道にもかかわらず、適格なブレーキングやハンドリングで下って行った。あたりまえだが登りに時間がかかるのとは対照的に下りというのはあっという間だ。下りが終り、やっと平坦な道に来たかと思うと雨の影響で道がぬかっている。滑って足をついたり、転んでしまったら泥 だらけという状況で、さすがのオフロードタイヤも負けそうな路面状態だ。やっとの思いで越え田沼町にある京路戸公園へ出てこれた。後は、平坦道。やれやれと思うが、予定コースとしてはまだ三分の一、先は長い。
 ここで全員が下山して来るのを待ち集まったところで、再スタート。しかし、出発してみると、のんびりどころが、最初からぺースが早い、やっと山道が終ったというのに、また歯を食いしばらなくなるとは…。工業団地を抜け、新しく出来た産業道路を通って、稲刈りの盛んな田園地帯の小道を川に沿って葛生駅方面へと向かう。
 この辺は、まだ稲刈り後の稲を天日干しにしている。のどかな風景だ。見とれる余裕はあまりないが…。そうこうするうちに、葛生駅へ。そして、町中を通って、葛生原人出土跡の脇を抜けて、田んぼ道に入って行く。山裾の田んぼに囲まれたところにあろうことか、公園がある。回りには人家がないのに一体誰が遊びに来るのだろう不思議な公園だ。
 やがて秋山川の脇に出る。葛生と田沼を結ぶ、古越路峠のある道を渡り、また秋山川沿いにゆっくり走る。もうここまで来ると、半分力尽きていて先頭集団について行けなくなっていた。常盤中のところから、また小道を行く。小集落を抜けて行く。いくつもの倉や歴史ある作りの家々が見える。この辺りはゆるやかな登りになっているのだろう、はっきりと感じられるほどではないが、ペダルが重い。
しかし、両側に広がる山の緑は、目に優しく疲れをいやしてくれる。先頭集団がペースを落としてくれた。残りは少ないはずだが、なかなかたどり着かない。やっとのことで、バーベキューをする秋山川の川原に到着。ちょうどお昼時だ。時間があれば五丈の滝に行く予定だったが時間的に無理があり断念。
 バーベキューの準備に取りかかろうとするところへ、ちょうどサイクリング派のメンバーが五丈の滝から戻ってきた。ワイワイガヤガヤ準備にとりかかる。どっと疲れも吹きだしてきたが、食欲だけはみなさん旺盛であっという間に肉も終り、焼きそば作りに取りかかる。食後には、MTBによる川渡り、ウィリー(片輪走行)といった模範走行を余興に楽しんだ。
そうこうしているうちに午後二時となっていた。早々かたずをして、戻ることにする。帰りは、今度こそのんびりとサイクリングを楽しみ傾きかける日差をバックに戻ってきたのだった。
秋山緑地までがとても、長く感じられた。小休止していると眠くなってくる。もう全身がだるく、硬直して動かない。
秋山川サイクリングロードを抜ける。もう日が傾いて、太陽が赤く見える。日暮はもうすぐだ。四時近くに、やっと出発地点に戻ってこれた。脱落者のためにキャリアと車を用意していたが、一人もなく、無事全員戻ってこれた。★



こならの森 30号

2008-03-29 | 創刊~100号

     30号 1990.10.1発行

表紙「広角で撮った野アザミ」三毳山にて

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2p…■看板娘
3p…としこの童謡詩
4p-14p…特集ボランティアってなに?
15-20p…巨大迷路出現
21p~22p…トピックス/からむコラム
23p…モーター
24p…パラグライダー
25p…本/絵本紹
26p…コーヒータイム/ベスト10
27p…美容と健康/街角
33p…■子育て編集日記


【本文抜粋記事】

特集
ボランティアってなに?

 十月一日からは、恒例になっている赤い羽共同募金が行なわれるが、日本人はどうもこういった活動というものに不慣れのようだ。そして、それ以外に福祉や社会奉仕といったものに直接ふれられる機会が余りないように思う。そのためだろうか、募金をしてしまうと、その問題が全て解決したかのような錯覚に陥ってしまう。その際たるものがODAであろう。「日本の福祉は遅れている」こういうあいさつから、みんなの会十周年記念式典は始まったそうだが、その問題はしっかり見つめる必要がある。

 アメリカでは、ノーマライゼーションという言葉が叫ばれ、やっと日本でもその言葉を聞くようになった。(直訳すると、ノーマルにする。平常化、平均化を計るということ)しかし、ボランティアという言葉もまだこれといった定着した訳がない?のと同じで、聞き慣れない言葉だ。障害者を社会から隔離することなく、普通にあつかう。そう言うアメリカでさえ、まだまだ障害者である事と、黒人であるという事は足し算でなく、掛け算となる差別を受けるということだ。日本でも、差別されている人間は同じ扱いをうける。もちろんこの事は安佐という狭い地域に限った問題ではない。日本全体がかかえている差別意識や偏見といった事が深く関連してくることだ。
 そこで、こならの森では、混乱するボランティアと福祉の状況を、それにたづさわる人々や障害者の生の声を伝える事で、明らかにしていきたい。


この座談会は、みんなの会創立10周年記念式典にさいして行なわれたものを、収録編集したものです。出席者は、みんなの会のメンバー他、式典に参加した人も加わっています。


★司会 今日の反省も込めて何かありましたら、お願い致します。
■金子 まず、みんなの会そのものを知らない人もいると思うので、とりあえず十年の歩みとこれから十年の展望などを語って欲しいんです。
■三田 それでは、なれそめを簡単に話しますと、栃木県では小山が最初にわたぼうしコンサートをやったんです。その直前くらいにぜひ佐野でもやりたいという事でトッコ(小曽根俊子)なんかと一緒に実行委員会を作って動きはじめました。そのうちに単発で、わたぼうしをやるだけで終らすのは良くない。『みんな同じ空の下に生きている』というテーマでこれからも活動して行ったらいい。そうして、みんなの会が発足したわけです。
■井腰 わたぼうしコンサートですと佐野は三年間隔で行なってきたました。第二回からは手話サークル「わたらせ」の方々のご協力で、歌唱に合わせて手話で内容を表現してくれました。第三回の頃になると、今度は若年化してきます。古株の人も参加していましたが、本当の意味で原動力というのは二百三十人にも及ぶ当日ボランティアの人たちと実行委員の高校生の人たちだと思っています。わたぼうしコンサートが見たり聞いたりするコンサートから参加するものに変わったという事で大きなことだったんです。しかしすでに出されていた命題ですがコンサートをするだけが、みんなの会の活動ではない。わたぼうしはもうやめようじゃないか。それよりも他に、ボランティア活動を佐野に根ざさせるよい方法があるのではないだろうか、という疑問が再燃しながらもそのまま行なってしまった第三回でした。それから二年半くらいして『ラブ・マイタウンコンサート』というのを行ないました。これは一番最初にわたぼうし大賞を取った時の作曲者である無田雄二さんを佐野に呼んで、小曽根さん詩による歌のコンサートを開いたんです。その時の実行委員長が谷真由美さんでした。また、コンサートばかりでなくすごく地味な行事だったんですが、車椅子で空き缶拾いをした事があるんです。疑問を投げかけると言う点では非常に大きな事だと思っています。
★司会 ここで、アンケートの中からいくつか紹介てもらいましょう。
■青木 映画を見た感想として多かったのは「命の尊さを感じた。」というもので、ほかには「出演者の人達がハンディを持っているにもかかわらず明るくて生き生きとしていた様子に感動した。」というものです。「つまらなかった」というのはないですね(笑)。
★司会 俊子さんなにかありますか。
■小曽根 このサークルをモデルにして、ハンディを持った人達と一緒に活動出来るサークルが成長して行かなければ、ウソだなーと思う。
★司会 ということは…
■小曽根 みんなの会に参加した時だけじゃなくて、ほかの場面でも活動していけるといいなと思う。これからもハンディを持つ若いメンバーが待機していますから…。例えば絵画や俳句や音楽や、手芸などといった活動の分野があればいいなと思うのです。
■金子 ではどうしたらいいと思う。
■小曽根 今までみたいに見たり聞いたり経験したりして発見していくしかないんだけれど、そういう考えを胸にもって歩んでいく事が発展につながる事だと思う。
■金子 その事なんだけれど、確かにトッコの言う事は分かるでもその方法というのがなかなか見つからないんだよ。確かに会に来る事が一つの活動になるけれど、ひとり一人の『成長』という事を考えると、何かが足りない。さっき誰かが言った、もっと遊んでいいと言うのは、みんなの会でなくてもいいと思うんだ。メンバーである小手森君とか、井腰君はこの会の他にも、人形劇という遊びをもっている。ほかのメンバーのひとり一人が自分の遊びを創造して、いろんな分野の人が集まった時にトッコや小林君をその活動の中に誘っていく。そういう事なのかな。
■小曽根 そういう事です。
■井腰 それは個性を磨く事にもつながると思うんです。例えば人形劇の事を言えば、正直手が使えないなら人形を扱うのは無理かも知れない。けれど、例えば台本が書ける、人形のデザインが出来る、というところで大丈夫だと思います。ただ、みんなの会とは別のサークルになるわけだから主体が共にやるということよりも、それ自体をやる事になる。ですから、今度はハンディを持っていること自体が存在価値ではなくなって来るんです。同じような事をみんなの会の中で出来ればけっこうすごい事だなと思う。ハンディを持っているからこそ、逆に光っているものがあるんじゃないかなと期待をするし、そういった点で個性を磨いていって欲しいなと思うんです。
 そんなような事かな、俊子さんが言っているのは…。
■金子 井腰君がいま言った『個性』という言葉を誤解しないで欲しい。彼はそういう意味で言ったんじゃないからね。吉村敬子の書いた絵本で『わたしいややねん』というのがあるんです。作者は肢体不自由児なのね。内容は、みんなが頑張れ頑張れって応援してくれるんだけれど、なかなかみんなの期待通りになれないんだって。最後に彼女は何を言うかというと「なぜ私だけが頑張らなければいけないの、わたしいややねん。私かて黄色いウンチするわ…」。
 これはちょっと難しい事なんだけれど、肢体が不自由であるというのはハンディを持っているという誤解だけであってそれをハンディだと思う時に、差別意識が生れるんだからね。
 何年か前に障害者と一緒に喫茶店に入ったんだけれど、その中に随分オウヘイな人かいたのね。それで『お前みたいな障害者がいるから、障害者が誤解されるんだ、馬鹿者出て行け』って文句いったんだ。みんなの会の障害者はそんな事ないけれど中には悪いのがいる。酒飲むと癖が悪いのもいれば、陽気になるやつもいる。それは普通なんだよ。ただ普通の範囲がただ広いだけの話。そういうふうに、理屈じゃなくって体験で会得していってほしい。
 昔、車椅子の警部を主人公にしたアメリカのテレビ番組があったのね。だけど、車椅子に乗っていたから事件が解決出来たとか、車椅子だったからよかったというテーマは一つもない。それを見た時アメリカのすごさを感じたね。日本でハンデキャパーが登場すればその事がドラマの中の筋書きとなり、一つのテーマになってしまう。それではだめなのね。だから、みんなの会も障害者がテーマにならないように一緒に遊んで欲しい。
★司会 吉沢さんは今日が最初の行事ではないんですか。
■吉沢 そうです。若い人達でこれだけ出来たので素晴らしいと思います。
■小竹 健康に生れて良かったなと痛切に感じた事と自分も一生懸命に生きなければいけないと思いました。
★司会 小手森さんはどうですか。
■小手森 京子今日の映画に出ていた砂丘登りがしたい、と思ってみていました。楽しそうだったので羨ましいと思いました。
■金子 みんなの会が発足してからずっと思っていたことは、みんなの会というのは、健常者と障害者が作ったグループなんですね。毎回みんなの会は何をやったらいいかという疑問が出て来るそうですが実は何をやってもいいんです。大切なのはグループの中に障害者がいて一緒にやるという事なんです。それだけがみんなの会の柱だと思う。
■川村 しかし、わたぼうしコンサートは障害者が参加するにはちょっと無理があるね。準備なんかの時にのばにされる事もある。見ていてそう思うね。集まりでも障害者は、小曽根さんか小林くんだけでしょう。どうして四人も五人もいないのかというと、迎えにいったり送っていったりする時間がないからなんだ。コンサートだコンサートだっていって騒いで、その日だけで後はおっぱなしたらその障害者たちは混乱するよ。
 デッカイところ(会場)でやると、健常者だけの集りになってしまう。忙しいからね。みんな仕事もっているから…。だから、みんなでこっちから行ってみるというのもいいと思う。
■金子 今の彼の指摘はものすごく鋭い。佐野市ボランティア連絡協議会の中で障害者と健常者が共にサークルを作っているのは、たぶん二つしかない。『手話サークルわたらせ』とみんなの会だけでしょう。後は、彼が指摘したように健常者が障害者のためになにかをしてあげる団体に過ぎない。忙しいということは、健常者の時間帯なわけですよ。
■川村 コンサートも確かに大事だけれど、七夕祭などにみんなで行ってもいいと思う。車椅子に乗っけてね。これだけのメンバーがいれば、三百六十五日の一日、その内の二時間ぐらい取れると思う。障害者の人は家から出られないんですよ、誰かの手がなくちゃね。なにも特別、行事を作らなくてもいいんですよ。
■金子 そういう意味では小曽根さんと小林君は貴重な存在だね。みんなの会は、二人がいるからみんなの会という存在がある。二人がいなかったら存在価値はなくなるからね。二人がいなければ、ただの健常者だけのボランティアサークルや奉仕団体になってしまうんだからね。だから小林君なんか支えているようなものだからもっとみんなの会に対して我がまま言っていい。その事で一番大事なことは例えば私と俊子さんとの人間関係を作ってしまう事ね。ただ、愛情を感じるには俊子さんは少し年上すぎるから…。(笑)。
■小曽根 ごもっともです。(笑)。
■金子 というのは、そういう『愚痴』を俊子さんから聞くのね。十年前は、彼女は十才若かったから、みんなの会のメンバーも彼女と同じくらいの年令だった。だから、トッコ、トッコとか言いながら、お互いに我がまま言い合って本当に好き勝手な事をやれた。だけれど現在はなにか発言すると年上のおばさんが話しをするということになってしまって、いま私が話しているような雰囲気になってしまう。(笑)。
 友情でやっているのか、それともお姉さんと妹という関係でやっているのか分からない部分が出て来て、そういう意味では淋しい、という事を聞いた事があるんですよ。年令の差もあるけれどやはり友情というのは、作くりあげて行くものが本物だと思うからそのためにはお互いに我がままにならなくては…。
■小林 僕から見ると、障害者は受け身になりすぎているかなという気がするんですね。
■金子 それは受け身になる事に慣れているからですかね。だとすると、慣れさせない方がいいな。だから、自分で意思表示するまでなにもしてあげない。
★司会 OB諸氏からけっこう耳に痛い言葉が来ていますけれどもどうですか。
■片柳 私は第三回のわたぼうしコンサートの時に、当日ボランティアというのを谷さんからやらないかと誘われて、その時はわたぼうしとかは知らなかったんです。でも、やってもいいんじゃないかという気持ちで始めたんです。それからラブマイタウン・コンサートのボランティア募集という事で、また誘われて、それがきっかけでみんなの会に入ったんです。やっぱり最初はなにも知らなくて、いろいろと先輩方に教えてもらったのですが、今では小曽根さんや小林くんと一緒につきあったり話したりするようになれて、初めて自分としては進歩したかなって思っています。
★司会 私は今年でまだ五年目で。まだ五年目と言っても、みんなの会の歴史で言えば半分なんですね。私にしてみるとこの五年というのは、それほど長く感じない。まだ一年か二年しかいないという感じ。というのは最近やっと小曽根さんや小林くんと普通に話せるようになったくらいですから。
 これから十年という事はけして難しい事ではないかも知れない、と思う反面とても難しいと思っうのは、小曽根さんとかと歩んで来たというよりも勝手にひとりで来ちゃった五年間ですから…。これから小林くんとかその他、わたらせの人とかと交流していくとしても、やっていけないことはないと思う。
 みんなの会がどういうものかを多くの人に知ってもらうために、自分自身でいろいろと考えて、OBの人達に顔向けが出来ない事がないようにみんなの会の活動を続けていきたいと考えています。その点、いかがですか現役会長は。
■篠崎 私は今年の九月二十八日で五年目に入るんです。みんなの会に入ってすぐ書記をまかせられて三年間やりました。去年副会長をやって今年は会長という事です。来年まで、まだ会長の任期が残っているので、この先どうしたらいいか分からないんです。今でも小林くん、小曽根さんと話していてえっと思う事があります。自分では(健常者では)分からない事がいっぱいあって、それは彼等が私たちに教えている事で、後から「ああそうだったんだ」と、考え直す事がたくさんあるんです。これからはそういう事がないよう、一生懸命頑張っていきたいと思います。
★司会 みんなの会の世代というのは、遠藤さんと、相良さんの下はずーと開いちゃって、しばらくいない。そんな中で入って来てくれた一番若い期待の男性吉沢君はどうお考えですか。
■吉沢 今年の七月から入会しました。さっきOBの人が、みんなの会では小林君と小曽根さんが貴重な存在だといわれていたんですが、僕は別にそうは思いません。青木さんや、谷さんもみんなの会にとっては同じように貴重な存在であると思いたいんです。特別に考えないで、遊ぶ事が好きな集まり=みんなの会。そういう感じでこれかも一緒に遊んでいきたいなと思っています。
★司会確かに、屁理屈こねたって最終的には、ただ遊んでいるだけだよね。
■井腰 遊びというのは非常に難しい。楽しくなかったら遊びではないからね。やっている本人が納得しなければいけない。
■川村 遊びをいろいろとやってきたから十年間もったんですよ。『決まった事をやれ』というのをずっとやっていたんではみんないなくなってしまう。やりたい事をやってきたからいいんですよ。どんな形でもいいから、後十年は、みんなでわいわい、うまくやっていこう。
■小曽根 遠路はるばる東京からきた木村さんにご意見を…
■木村 私は第二回のわたぼうしからみんなの会に参加しまして、その後結婚して佐野を離れてしまったので、おいしいところだけで…。なんか心苦しいんです。なにもしないまま逃げちゃったという感じです。
 皆さん若いのでびっくりして若いパワーでこれからも、あんまり頑張らないでやって欲しい。(笑)。
★司会 そろそろ時間もなくなってきました。まだしゃべっていない人。青木さんどうですか。
■青木 私は、短大に入った年に入会したので、今年で四年目ですね。四年間だけで見ると、どうしてもマンネリになる部分があったり、やる事に新しい事は見つからないし新入会員が入ってこなくってどうしよう、という時期もあったんです。今こうしてみてみると、また、どんどん新しい会員の人が入って来るし、ひとりでに新しい展開が出て来るような気はするんです。ですから将来に関してはあまり悲観はしていません。自然に若い人達に任せてみれば、優子ちゃんなんかもそうだし、心配をしなくても若い人達がどんどんやってくれるという期待がある。そこでやっぱり、新入会員の人達に将来を託したいんですね。
★司会 勝川先生どうですか。
■勝川 正直言って、みんなの会の、会そのものは知っていたんですが、どんな活動をされているのかは、知りませんでした。
 みんながそれぞれ、何か思いがあってやっている。でもたどり着くところは同じなんです。それから、「こうだからこうだ」というこだわりは捨てて欲しくないなと思います。
 みんな新しい展開、新しいものを求めていくんですけれどもそれが自然に出て来れば一番いいと思います。自分自身で思っている希望性を崩すという事は、勇気がいる事です。やっている事がそれぞれ、何かそう感じてやっているとしたら、それを守っていって欲しい。
 言葉で簡単に話してしまうと無責任になるので……皆さんのやっている事を大切にしてこれからも長く続けて欲しいなと思います。
■森戸 谷さんとは友達で「人数足りないから」って誘われたんです。(笑)でもこういう活動というのは知っていたんですが行った事はないし、どういう事をやるんだか分からなかったんです。それで、実際に今日来てみて、みんな頑張っているなって感じられ、自分も考えされられました。どういう人が来ていてどういう活動をするのか、というのを見てみたいという興味で今日は来たんです。ほかのお客さんはどういうふうに思ってどんな事を考えてここに来ているのかなって事を考えたりしてとにかく来て良かった、考えさせられた一日を送れたかなって思います。
■小手森京子 全々話は別の事になってしまうかも知れませんが、今、楽しいんだなって思う事が感じられるんです。いいたい事を言い合えるとか、わがままを言い合える環境って楽しい。だから、そういう関係のひとが一人づつでも多く増えていくと、もっと楽しくなるかなって、そう思っています。
★司会 では旦那さんである小手森さんはどうですか。
■小手森正幸 仲良しグループという言葉があるります。さっき金子さんが言われたように、逆にそれが障害になってほかの人が入りずらいという見えない壁を作っているという事がみんなの会の場合なきにしもあらずだと思っています。遊ぶことは非常にけっこうなんですけれどもそれによって目に見えない障壁を作らないように、どんどん活動を広げて行けるように絶えずそっから考えておかないと、自分たちの馴合のサークルに陥る傾向があるような気がするのです。
 みんなが、みんなの会のような活動を理解してくれるような社会になれば、ひとつのサークルの存在理由というものがなくってしまうわけで、最終的には会の活動というのは、会を解散に追い込むまでつづけなければ目的は成就されないと思います。
 また、先程からOBとか現役という言い方をしているんですが、こういった活動というものは遊びである反面、運動でもあると思いますので、活動に来ない人をOBといっていると思うんですが、その方でも実際は、経験というものを持っていて、町で障害者と出合って、どうしたらいいのかという時に、みんなに指示してやっているんじゃないかと思いますので、そのへんを理解して下さい。
★司会 相良さんはどうですか。
■相良 去年、今年と副会長をやってきました。副会長としてはたいした事やっていないんですが、小曽根さんや小林くんとつきあってみて、障害者を見る目が変わったので自分に取ってはとっても良かったと思っています。
 これからの、みんなの会はちょっと見る目を変えて考えていきたいと思っています。
■川村 みんなの会に、手話通訳ができる人が誰もいないと言うのはね。誰か、勉強すれば。
★司会 いろいろみなさんからご意見も頂戴しました。今後は考えていく事もあり、また自然に成り行きで動く事もあるかと思いますが、今後とも頑張りましょう。

監修・小曽根俊子(佐野市総合福祉センターにて収録)




こならの森 29号

2008-03-28 | 創刊~100号
     29号 1990.9.1発行


2p…看板娘
3p…としこの童謡詩
4p…結婚しました
5p~14p…特集 ■関東の柳川
15~18p…つれづれインタビュー尾花好信さん
19p…からむコラム
19~22p…トピックス
23p…モーター
24p…佐知倶楽部
25p…本/絵本紹
26p…コーヒータイム/ベスト10
27p…美容と健康/街角
28-32p…協賛店名/情報
33p…子育て編集日記

【本文抜粋記事】

つれづれインタビュー

尾花好信さん

■最近自主出版された本の題名が『教養としての経済』と言うことですが、ここで言う経済というのは具体的にどういうことですか。
社会現象の中心は経済にあります。別にマルキストになって政治や文化が経済の上部構造にあるとか、そういう事を言いたいのではないんです。我々の日常生活というのは、だいたい崇高な事を言ったりしていても毎日飯を食べなければいけないし現実というものがベースにある訳ですね。ですから一番大きな現実問題は経済なんです。政治問題と言うのは、核の問題であるとか、全然我々の届かない部分というものを含んでいる訳です。
■本の題名の中に『経済』という文字があると、それだけで経済論かな?と思われてしまうほど、経済というのは固いイメージですね。
学問と言うのは全て、社会の健全な発展のために役割を担う手段なんですね。ところが、今日では手段が目的になってしまった。学問至上主義と言うか、学者が研究室の中に閉じこもって悦に入っており、世の中の変化について無頓着で大衆の意見を聞こうとしない。ですから、そういう弊害というものを逆に手元に引き寄せて、台所経済学というか、お茶の間経済学にしなくてはいけないんです。
 経済という言葉は、『経国済民』という中国の古典・文中子から出た言葉です。意味は、国を治め民を救うという事です。
 ですから『経済』と『エコノミックス』というのは違うんです。エコノミックスというのは節約という事から始まっている。ものがある段階からそれをどのようにしようかという事が西欧人の考え方なんです。
 それから、こんな教室で有頂天になっていたって海外へ行ったり、外国の人を受け入れた時に、何の約にも立たない事に気が付く訳です。それでもっと勉強しようと思うんですね。
 日本に働きに来ている外国の人達が道に迷った時に、あれだけ英語を習ってきたんだから「何か困った事あるんですか。お手伝いしましょうか。」という言葉が道端ですぐ出てくればその人は素晴らしい外交官なわけです。ですが勇気の面もあるだろうけれど、なかなか出来ない。
 また「ジャスコどこですか?」と聞かれるのよりも「ス、スイマセン。じゃ、じゃすこ、ド・コ・デ・ス・カ?」というふうに聞かれるほうがいいし、「分かったよ、俺は仕事中だけれども、乗れよ。連れてってやるから。」という気持ちに自然となるでしょう。そういうふうに、本来人間は優しいところがあるんです。ですから、ただ英語をしゃべれるというのでは無くて、世界を知るという事が大事ですね。そして自分自身を知る。ですから、英語がべらべらになったところで相手に気にいられなかったり、相手を馬鹿にしたりすれば、それは英語はしゃべれるけれども英語の真の理解者ではないんですね。
 それは流暢に『l』と『r』の区別をつけてもらいたいとも思うけれど、それ以前になんで英語を勉強するのかという事をいつも理解して欲しいですね。
 高校生くらいですとちょっと考え方が飛躍します。留学したいとか思うんですね。なんだか英語を使うとそれが職業になってしまう。そして自分で夢を描いてしまう。外国人とべらべらしゃべって「ハーイ、ミチコ」なんていわれて喜んじゃう。だけれどもその夢の中には、黒人も東南アジアの人も出てこないんです。つまり、金髪コンプレックスがある訳です。
■AETなんかもそうですね。
国際化とか、英語を話すとかいうのは、弱い側に立てるか、困っている人の側に立てるかという事です。そういう考えを持っていないと人間としての薄さを感じてしまう。利害を持たないで助けようという気持ちになっていくという事が英語を勉強したり学問というもの勉強する人間の第一段階です。
■副題の共生社会というのはどういう事でしょうか。
共生というのは、環境と人間という意味なんです。例えば人間は生きていますね。生物というのはみんな生きています。我々は、生命を維持するために酸素を吸って二炭化炭素を出しています。その二炭化炭素を植物が吸って、光合成によって又酸素が我々にもたらされる。つまり、人間と植物というものは、共生している訳なんです。
 それからライオンは絶対駆け足の速いシマウマを追わない。一番遅いから捕まえられたのではなくて、遅いシマウマを狙っているんですね。つまり速いのをやってしまうと種が途絶えてしまい、自分の餌がなくなってしまうという事を本能的に分かっているからなんです。
 ところが、人間だけはそういう事を癖として忘れてしまっている。ものすごい勢いで、植物が吸収出来ないような量の二炭化炭素を出している訳です。それが大気圏を汚しはじめて、酸性雨であるとか、大気汚染を引き起こしている訳ですね。
 人間が増えた分だけ植物が増えればいい訳なんですが、増えた分だけ家が建ち、木が切られる訳です。それは人間生活にとって悪い訳ではないんですね。家族を持って家を構えるという事は立派な行為です。しかし、それが地球全体になってしまうと罪悪感が出て来る。
 個人としては良い事をしていても社会全体からすれば悪になってくるんです。その行き着くところをどう回避していくのかやはりそれは人間の側にあると思うんですね。
 今回の本でもそうですが、僕は学歴は書かないんです。嫌いなんですね。一般の本だと、どこの何科の卒業というふうに書きますね。ですが、それはいったいなんなんだろう、と。多分読む方も、こういう人が書いたんだからきっと立派な内容なんだろうと…。
■先入観がありますからね。
学歴というもので嫌な思いをする人もいると思うんです。高校や大学へ行きたかったけれども家庭の事情でいけなかった人は、学生以上に努力をしているけれども自分ではどうしようもない事によって学校へ行けなかったと、悔しい思いをしている人も中にはいる訳です。そういう人がいる時に、俺はこういう大学を出てこういう事をやったというが、それはあなたに暇と経済的な余裕があったからですよ。
 だいたい経済とか経営といっても実際に企業を経営しないと経営論というのは分からないんですね。例えばこうすれば儲かるといっても、そうはならないですよ。
 人間関係の中で、企業というのは成り立っている訳だから、一次方程式の解の様にχは2だと、答えが出て来るんだったら努力なんてしないですよ。
 そういうものじゃないという事を経験から知っているから、人と合って勉強しようとか、人の意見を聞こうとか思う訳です。
 なぜ私が教養という文字をつけて本を出したかというと二十一世紀というのは教養人が活躍する時代なんですね。十八世紀は身分が活躍したんです。十九世紀、二十世紀に来て産業人が活躍するようになって来た。
 その時は世界全体がインフレの中にあるから経営の資質が上がれば売上を伸ばし資本を大きくする事ができた。ところが、二十世紀後半に入って非常な勢いで認識が、多様化してしまっている。つまり考え方というのが『ミーイズム』になっている訳ですね。(アイ、マイミーのミーですが)いろんな構造様式が自分の中に入って来てしまっている訳ですね。そうすると商品だって売れなくなる訳です。
 今までは、大規模生産大規模消費だった訳ですね。つまり、我々の世代はジーパンが流行ればみんなジーパンを履くんですよ。ワンポイントが流行ると、みんなそう。これは何故かというと二十世紀の特徴だからなんです。つまり無い時代から、ある時代へ移っていく時というのは自分がそこから落ちこぼれたく無いという気持ちがある訳です。みんなの中で一人だけ外されるとものすごく淋しい。ですから、とにかくみんなと一緒にいたい訳ですね。
■団塊の世代ですね。
そうですね。これをガルブレイス教授の言葉でいえば依存効果というんだそうです。他人に依存する事によって自分を慰めている。ところが現在は、一応世界の先進国といわれている国が、衣食住たりて普段の生活に困らない訳ですね。そうするとさっきの依存効果というのが崩れてしまって、他人と違う自分になりたい、その他人と違う自分でありたいというのはものすごくバラバラな各行動というのを起こして来る訳です。けれども人がみんなすき勝手な行動をして行けば地域社会だとか、あるいは国家というものは、バラバラになっていく。それが、環境問題だとか、公害問題として大きくクローズアップされて来た訳です。つまり、地域の川やあるいは大気や、そこに住む勤労者を含めて企業が自分の利益の追求のために好き勝手な事をやってきた。だから、神からの報い、裁きがあった訳ですね。
 それが、この何十年かで地球全体という規模になって来た訳です。
 これから我々は二十一世紀をどうしても生きなければいけない。あるいは自分の子供が二十一世紀に生きる。その彼等が幸せになって欲しいとか、この緑豊かな地球が未来永遠にに緑を提供してくれる社会を造ろうとか、そういう事を思うとどうしても自分自身の教養度を高めないといけないんではないだろうかと考える訳です。それは他人に対していっていても、結局は自分に対しての問いかけなんですね。
 教養というのは、学歴でも無いし、物知りでも無い。
 確かに知識は必要な事です。ですが、それをたいそうな事だ思っている人は無教養ですね。
 良くいますが、僕はどこどこの大学を出ました。僕の親戚にはこういう人がいます。笑われますけれどもね。確かにそういう親戚がいるんだろうけれども、あなたはどうなんですか。
 やはり、自分というものが大切なんですね。自分がどれだけ教養があるかという事は、人に対する思いやりがどれだけあるかどうかと言う事です。この思いやりが二十一世紀に活躍する人間の必要不可欠なものになると思いますね。





こならの森 28号

2008-03-28 | 創刊~100号
     28号 1990.8.1発行

表紙「三毳山からみる高速夜景」

2p…看板娘
3p…としこの巻頭詩 ほおずき
4p…結婚 茂呂さん夫妻
5p~18p…特集・田沼葛生がおもしろい
19-22p…情報
21p…カラムコラムOCR
23-24p…アウトドアースポーツOCR
25p…本/絵本OCR
26p…本10コーヒータイムOCR
27p…美と健康/街角OCR
28~32p…協賛/地図/情報
33p…子育て


【本文抜粋記事】


【絵本紹介】
「ブタブタくんのおかいもの」
土万久功 さく/え
 「ぶたぶた ぶたぶた」とひとりごとを言うくせがあるので、みんなからぶたぶたくんと呼ばれているこぶたくんのお話。
 おかあさんからおかいものをたのまれてぶたぶたくんのおでかけです。ぱんやのにこにこおじさん、はやくちおねえさん、おかしやのゆっくりおばさん、そしておともだちのかおこちゃんとこぐまくん…それぞれの個性を生かしたことばのやりとり、くりかえしが楽しい作品です。元気に張り切ってはじめてのおかいものを楽しんでいるようですが、やっぱりちょっぴり不安で…と言う子供の心理ものぞかせています。 素朴なさし絵も親しみやすく、最近おとな向けの絵本(?)が多い中で、本当に子どもの楽しめる絵本の一つではないかと思います。
 文・絵本仲間コロポックルT




こならの森 27号

2008-03-28 | 創刊~100号

       27号1990.7発行

表紙 斎藤内科より中央通りあじさいをみる

2p…看板娘
3p…いただきます/カラムコラム
4p…結婚しました
5p…足尾鉱毒事件から原発を考えるー西尾勝さん=
6-8p…情報
9-20p…あなたのまちのウソホント?
21p…美容/芝居三昧OCR
22p…街角の肖像/コーヒータイム
23p…アウトドアースポーツ
24p…危険な道路をぶっとばせ
25p…本紹介/絵本
26p…本ベスト10
27p…佐知倶楽部
28-32p…情報/協賛店名
33p…子育て


【本文抜粋記事】

編集長の子育て編集日記

 ふるさと創生始末記という記事がある雑誌に載っていた。
 どんなものが出来たとかいう事よりも、何を考え、市民性はどう上がったのかその過程を大きく評価したい。変なものをつくってしまえば永久に笑い種になる。一億ではなにも出来ないという事は分かっているが、全国の例を見ていくと、それぞれ個性というものを感じる。日本もなかなか面白いものだと思う。しかし、三千あまりある市町村の発想はほとんどが安易で似たり寄ったり。あまりにも情けない状態だ。
 さて、我が家ではつい最近、清水の舞台から飛び降りたつもりで五段がさねの積み木を買った(二か月分の保育料が飛んでしまった)。積み木といいながらプラスチックだったりする昨今のものと違って、全てが木。それも受注生産。待てど暮せどやってこなかった代物だった。だから、来た時のうれしさは、3分で飽きてしまったヒロの比ではない。一見高い買い物のようにも思えるが、孫子の代まで半永久的に使える事を思えば、安い買い物。使い込むほどに、木そのものの味がにじみ出る。自然のものというのは本来そういうものだろう。こっちの方は一億円より『当分』楽しめるようだ。

こならの森 26号

2008-03-27 | 創刊~100号

     26号 1990.6発行

表紙 武道館のところにあったアパート

2p…看板娘
3p…トピックス
5p…としこの童謡詩
5p…カラムコラム
6p…結婚しました
7-18p…特集「マウンテン・バイク唐沢山」
19p…モーター
19-20p…危険な道路15
20p…ヘリスキー
21p-24p…インタビュー山野井武夫さん
23-24p…コーヒー
25p…芝居三二十五回
25p…美容と健康
26p…コンサート
27p…絵本紹介/図書紹介
28p…街角/本10
29-32…情報/協賛店名
33p…子育て



【本文抜粋記事】

インタビュー

山野井武夫さん

■まちづくりに対する提案といった事について伺いたいのですが。

 何事も自分でできる事とできない事がありますね。外的な要因と内的な要因がある。ですがまず理想がない事にはそれに対して実現しようという努力も起らないだろうと思います。それをどういうふうに集約していくのか、その手法もそれから意見を発表する場や、そういった事のトレーニングも足らないのではないかと思います。
 それとは別に(佐野だけではないでしょうが)自分の意見を言うチャンスが比較的少ないのではないでしょうか。今は青年会議所とかいろいろな団体がありますから昔よりはまだ意見が反映されると思いますが、こういう狭い町ですと、いろいろな『関係』と言うものが出てきます。また話し合いとか意見を述べると言う事になれていない人もいる訳ですね。そうすると、「どうしておれに反対するんだ。」と言って意見を聞かない人が出て来るんですね。本来は反対するんではなくて考ええ方について話しあっているはずなんですが…。

 それから感情論になる事が多いですよね。もう少し冷静に、話し合いと言う習慣を日常の生活の中で身に付けていかないといけないと思いますね。学校の教育もそうですし、地域社会、例えば商工会議所とか、町内会であるとか、いろんなところで意見を発表したり、聞いたりする機会がある訳です。ですからそういう所が『開ける』と良くなるような気がします。それに、佐野の人はどこかシャイなところがある。

■良く言えばですね。

 手を上げて意見を言う事がどことなく恥ずかしい、そういう事もあると思います。意見を交換する中で良い道を探したり、自分の足らないところを考えてみて直したり、それで町作りが良く進んで行くと思います。佐野の商店街もインパクトがないですね。切瑳琢磨がなかったのではないかなと思います。
 一般に言われているのは、『商店が店舗にお金をかけない。だからおかしな業者がいない』というのですが、それによって商品に魅力がないという事でみなさんよそに買いものに行ってしまうのではないでしょうか。
 佐野は本当に暮しやすいところなんですね。昔から無茶苦茶な努力をしなくても食えたところでした。それがかえってあだになった面もあります。何が何でも夢中になって仕事をしなければならないところだと、相当な商人が出て、佐野だけじゃなくて関東地方に伸びて行ったでしょうからね。その辺が足利と違っている点でしょうか。
 比較をすれば、まず人口は倍ですね。それから、足利はいろんな面で層が厚いんですね。景気に左右されない人たちがいる。そのパーセンテージが高いですね。大学の先生とか、国とか県の出先機関、法務省を含めましてね。そういう人口が多いんです。そして文化的な遺産もずいぶん違う訳ですね。足利学校とか、鑁阿寺だとか。それと、やはり繊維関係が昔から良かったせいか、商権が広いんです。足利から育った企業も一杯あるわけです。学生でも全国から来ています。足利をリードしている人たちは、文化や歴史にも強いんですね。そしてその文化的なものを歴史を取り入れながら商売にうまく結び付けています。それを『がめつい』とは言わないんですよ。同じお金なら『喜んでいただけるもの』に利用するべきですからね。
 青年会議所の理事長の頃でしたが、山を呼んでも来ないならこっちから行こうという事で、駅を移動しようという提案をしました。その頃は、団地も暗礁に乗り上げている頃でした。今まならまだ土地も安い。駅を移動すれば企業も出て来るだろうと…。それから、佐野市の駅の前をずっと高架にしよう、といった提案もしました。
 佐野でも、例えば鉢の木に通じる人情だとか、水と緑と万葉という事から「水で有名な町」というふうにする。佐野市の鳥はおしどりですが、それをきれいな水で飼っているとか、各小学校にきれいな水と言う事を象徴させるようなものを置くとかですね。現実に結び付けたほうがいいんじゃないかと思いますね。
 人情の町というのは、私達の回りには子供達の小さな親切運動に教わらなければいけない事がたくさんある訳です。ですから、坪あたりの店舗の効率だとかいう経営の分析も大切な事ですが、本当はお客さんに『ありがとう』と心から言える店主であり店員でないといけないと思うわけです。それには、鉢の木に代表されるような人情を育てて行くことですね。経営がうまく行かないのは大型店のせいだと言うのだけではね…。

■他人のせいにしていると言う事ですね。

 そういう考え方が多いですね。町並をきれいにしよと思って街路樹を作ると、看板が見えなくなって、邪魔でしょうがない、と言うのではだめですね。それは一部の人の考えなんですから。ところが、それを回りの人が間違っていますよとは表だっては言わないんですよ。「あの人が言うのでは…」というふうになってしまうわけです。今度は低い木を植えましょう、とか他の話をすれば言い訳です。ところが偉い人が言ったのだから黙っていようとか、若い人が言ったどんな良い意見でも、生意気だなどと言うのではね。
 誰でも自分の住んでる町は良くしたいと思っています。ですが自分の事になると忘れてしまう。

■佐野の将来展望は明るいと思いますが、どうお考えでしょうか。

 もちろん明るいものだと思います。やっぱりこういう良いチャンスには、みんなが勉強してそれをバネにして活かすようにしないといけないと思います。後から考えてチャンスを逃したと言うのではいけない。ですからどういう良いものが来ても受け入れられるような日頃のトレーニングというものをしなければいけない。
 佐野にも貴重な体験をしている先輩が実業界にはいます。ですがそういう人たちとの接点がない。若い人も年輩の人も一杯いるはずです。もっと発掘していってほしいですね。

■文化面でいいますと、どうでしょうか。

 必ずしも谷間とはいいきれません。陶芸家でも田村耕一さんが出ました。他から来た人自慢する事が多くなったんですね。今までは遅れていましたからね。
 足利ですと、足利学校にゆかりのある事は昔からみなさんがある程度、知っている訳です。ところが、極端な話、佐野では(若い人の事ですが)数年前に博物館ができるまで田中正造といってもその業績を理解している人は少なかった。唐沢山に関する事もそうです。
 最近は郷土史家の活躍や歴史講座などを通じて理解を深めつつあります。ですからこれからはその層をより厚くして「佐野は良いところだ」ではそれにふさわしい街にするために、我々ができる事はなにか、というような事を歴史を通して考えていく。そういう事が大事ですね。
 町作りというのは残念ながらハード面ではないんです。住んでいるひとが大切なんです。道路で言えば、安全に通れるようにする事が最小限のことだと思います。少し店を削っても自転車を置くところくらいは作るべきだと思いますね。しかし私達はそれを理解して具体的にする事には弱いんですね。やはり行動に結び付いてこそ、初めてそれが生きたといえるうような気がします。

■どうもありがとうございました。


こならの森 25号

2008-03-27 | 創刊~100号

     25号 1990.5.1発行

表紙 ハルジオン

●目    次●
2p…看板娘
3p…キャベツ畑で
3p…カラムコラム
4p…結婚
5-18p…特集・三毳山
19-22p…トピックス
19-20p…コーヒー
23p…モーター
24p…アウト
23-24p…危険な
25p…美容と健康/芝居三昧
26p…本10/絵本
27p…本紹介
28p…街角の肖像
29-30p…情報
31-32p…協賛店名
33p…子育て


【本文抜粋記事】

特集・三毳山

 近くて遠い大自然『みかも山』。なにも大自然と大袈裟に書かなくてもと、という方もいると思う。確かに大滝があるわけでも、大渓谷があるわけでもない。コアラもラッコもカンガルーもいない。
 標高200メートルほどで山というより丘に近いし、カエデやナナカマドなどが多いわけでもないので、秋の紅葉はけしてきれいとはいえない。その代わり新緑の頃の素晴らしさは紅葉の比ではない。
 秋とは逆に、今年出た新芽が若葉になる前の一時に、山吹色や茶色の淡い色をつける。それが新緑、針葉樹の深緑、山桜と合いまって何ともいえない色彩のハーモニーとなる。しかし、この頃は雨も多く、芽吹きの期
 もちろんみかも山の良いところ、素晴らしいところは紙上ではすべて紹介できものではなく本当に秘密の場所がまだまだたくさんあるが、そういったものは人知れずだからこそいいのだし、心ない人達に踏み荒らされずにすむと思うのだが、二周年を記念して「こならの森」の読者には少しだけ紹介しよう。
まり残らないようで残念だ。
 ハイキングや山歩きが好きでない人でも、一度や二度は登ってみたことがあると思う。
 なにを隠そう、近くて遠いの真意は『こならの森』で一度も取り上げなかった、ということではないだろうか。
 そこで万葉のロマン香るみかも山を二周年を記念してど~んと取り上げて見ようと思う。
 きっと、こんなに近くにあるのだからもっと素晴らしいポイントが見つかる、見落としているところが多いはずだから、と実感するはず。
 例年より少し早い、芽吹きの頃、絵本仲間コロポックルのメンバーと一緒に何年かぶりでハイキングコースを歩いてみた。小雨に追いかけられながらナラの大きな木陰で雨をさけてのみかも山トレッキングレポート。まるで、大きなふきの葉に隠れて雨露をしのいでいたコロポックルのようだった。
最近では、山頂近くまで道路が整備され、車で楽に行けるようになったので、訪れる人も多くなった。またこの山が関東平野のランドマーク的存在なのか、市内はもとより栃木市や小山市、あるいは埼玉県方面からも、素晴らしい関東平野の展望を見にやってくる。
 一行はあらかじめ下りてくる場所の町谷町に車を一台用意してから、みかも神社のある山頂付近の駐車場に集合した。そこから歩き始めて、下りてからはまたもとの場所まで車で戻るという便利な(安易な?)方法をとった。
 心配された雨は朝のうち上がっているものの、晴れ上がる様子はない。予報によれば午後には雨が降り出すという。
 降られることは覚悟しているが、全行程一時間半か二時間ほどのルートなので、さほど心配はいらないはずだ。
 まず、神社へ向かう。付近の開けた場所には、山菜取りを楽しむひとの姿が見える。時期が少し早いのか量は少ないとか。
 春もたけなわ新緑の木々をくぐりながら山道を行くのは何とも清々しい。これで天気が良ければ申し分ない。少々行くと、ハングライダーのカタパルトが見えて来る。この日も、曇りがちにもかかわらず大勢の人が集まっていた。
 そこを過ぎると、少々の登りとなるがすぐ終る。晴れていれば佐野方面の展望が広がるのだが、今日は靄がかかりよく見えない。
 しかし、山道はよく整備され季節も歩くには絶好だ。夏場になると、下草が生い茂り、進むのもままならなくなる。ここを歩って思うのは、木が多すぎるということではないだろうか。そのために山頂まで行かないと視界が開けない。だからといって軒並み木を切り払い、素晴らしい眺望をというのも時流の波に反するようで頂けない。だったら、山頂に展望台をと考えそうだが、せっかく万葉のロマンにひたりながら、昼なお暗い道を行くのに、いきなり白亜の展望台でも現われたことには、万葉の神秘性もなにもなくなってしまう。やはり今のままというのが一番と思うが…。みかも山の各山道には、コナラの道、万葉の道、クヌギの道などとそれぞれ名前がついているがそのほかにもたくさんの小径があってその数は定かではない。また、今回は取り上げられ
間も短いので人々の記憶にはあ史を誇る溜め池が点在している。あるものは人知れずひっそりと水をたたえており、みかも山の雄姿を巧みに映し出している。
 みかも山の最高峰竜ケ岳(223メートル)が近づいてきた。今までのなだらかな行程もここへ来るとちょっときつくなり、最後の登りとなる。これまではピクニック気分だったが、さすがに息が切れる。
 ほどなく頂上へ。曇り空ではあったがここからの眺望は、標高がある分だけ今までのどの山頂よりも素晴らしい。下から見るとその一角だけはげ山のように見えるほど、回りに視線を遮るものがなく、大パノラマが広がる。
 この後は、一路町谷町のカタクリの里まで下りていく。長い下りと、丸太の階段がだらだらと続く。おまけに雨のためこれがよく滑る。やっとのことで、カタクリの群生地まで下りて来れた。とうにカタクリの季節は終っていたので、人影もまばら。なにごとが起こったかと思わんばかりの、交通渋滞を起こしていた頃が嘘のようなしずけさだった。カタクリの姿の代わりに、可憐な白い花のイチリンソウとニリンソウが競うように咲き誇っていた。この辺一帯は県南大規模公園予定地から外れているが、トウキョウサンショウウオが棲息していたり、四季おりおりに咲く山野草が豊富でこの後もコバギボウシ(6月)キツネノカミソリ(8月)、トリカブト(10月)などが花をつける。
 3月にはアズマイチゲが開花するが、これだけ低地部で開花するのは非常に珍しいということだ。そしてもっと驚くのはこれが『ただの山』の中にあるということだろうと思う。
 それなのに季節はずれで人影もまばらだからだろうか、遊歩道を行くと深く掘り起こした後があった。盗掘されたあとだ。これだけ有名になったにもかかわらず、堂々と持っていってしまうのだから感心してしまう。開発だけという物だけでなく、足元でもこれなのだから、自然を守って行くということは容易ではないと実感させられる。
 出来ばたかりのログハウスまでやってきた。細部まで手の込んだ作りで回りの景観とよくあっている。しかし、調度品、特に椅子とテーブルは早くウッディなものと替えてほしい。
 これで全行程終了。登り始めてから、昼食時間の一時間を入れても3時間ほどだった。
 今まで、佐野市というと面積も狭く、緑もだんだん減ってきてしまい、自然なんてもう残っていないと思ってきたがこうして、『灯台もと暗し』の山を歩って見ると(高速道路の騒音が気になるものの)素晴らしく思う。もっと多くの人に楽しんでもらいたい身近な自然だ。

■みかも山と万葉植物と名前のいわれ。
万葉集にうたわれている植物(樹木、草花)は約一六〇種あると言われているが、1979年発行の「みかも山の植物」によれば、コナラ、カタクリを初め五十八種がみかも山に生息しているという。
 中には、絶滅の危機に瀕しているフジバカマもあるが、最近の資料がないのでその実態は詳しく分からない。名前の『みかも』のいわれについては諸説があるようだ。
 コナラの芽吹く早春の山を形容して、鳥や獣の柔らかい毛を意味する『毳』の字を当てた。三面山といわれるくらい、三方からの眺めが素晴らしいことから、三顔(=みかほ)と呼ばれた。歌枕の「みかもなす(水面に浮ぶカモの意味)」からきた。―といろいろあるようだ。
 確かに、佐野市内から普通に眺める姿もよいが、東北自動車道からの眺めもまた素晴らしい。そして小野寺方面からの眺めも捨て難い。見る場所によって、印象がまるで違う。

■みかも山と歴史ロマン
 みかも山の歴史で揺れているのは、古代のロマン東山道だろう。そして、みかも山の上に『みかもの関』がおかれていたとうのだ。県内でも最近になって南那須で確認されたばかり。その他は実際にどこを通っていたのか実証はない。最近そうしたことをまとめた本が出版されたが、反論も多いようだ。常識で考えても現在言われている東山道が本当とは考えにくい。それは、こうして実際に歩って見るとよく分かると思う。そこで、みかも山山頂になかったらいったいどこにあったのかと想像をかき立てるが、みかもの関を歌った古歌はあるようだが、みかもの関その物は存在していなかった、という人もいる。
 実証が少なすぎるのでなんともいえず。これも、万葉のロマンといえようか。

みかも山の古歌

東路の人にとははや三かもなる関にもはなはくや匂うと源頼政関
越えて初音鳴くなり時鳥三毳の関の明け方の空藤原為家

 だがこの地は大ゴルフ場ができるとか、山をくずして住宅街にするとかの大開発でも起こらないとその素晴らしさに気がつかないものかも知れない。
 今や国立公園でさえも簡単に開発されるという時代になってしまった。だからこそ身近に人々の憩いの場、こころのふるさとがなくてはいけいないと感じる。決して心の中だけに、というのではなく…。



こならの森 24号

2008-03-26 | 創刊~100号

     24号 1990.4発行

表紙 かたくり
…………………
●目    次●
2p…看板娘
3-6p…トピックス
3-4p…カラムコラム
7-18p特集…渡良瀬遊水池の自然
19-20p…協賛店名
21p…結婚しました
22p…街角の肖像/コーヒー
23p…モーター
24p…アウト
23-24p…危険な
25p…美容と健康
26p…おぞねとしこのエッセイ
26p…芝居三昧
27-28p…情報
29p…本10/キネマ倶楽部
30p…情報
31p…本紹介
32p…絵本
33p…子育て


【本文抜粋記事】

図書紹介 第二回

ガラスの地球を救え
手塚治虫・著
光文社・刊

 フロンによるオゾン層の破壊、それに伴う紫外線の増加がもたらす動植物への影響。酸性雨による森林枯死や二炭化炭素の増加での温室効果。窒素酸化物による大気汚染など現在地球規模で物を考えなければならない時代に来ています。
 巨星、手塚が現代に生きる私達に送ったたメッセージをまとめたのがこの本「ガラスの地球を救え」です。内容は手塚が想像したマンガの主人公達と現代とを織り混ぜながら、手塚の思いを平易な文章で表わしています。表紙には「二十一世紀の君たちへ」とうたってあり、子供向けのようにも取れますが大人達にもぜひ読んでもらいたい一冊です。
 手塚はよくヒューマニストと言われています。私もその意見に反対するわけではありませんが、それよりも先にリアリストのように思えます。善も悪も現実をよく表わしている作品を多く作りあげたのではないでしょうか。もしそうでなかったら「アドルフに告ぐ」などの作品は生まれなかったはずです。ウォルト・ディズニーが手塚に大きな影響を与えたのはよく知られています。そのディズニーから学んだのは「ひたむきな開拓精神、絶えず求め前進する熱っぽさ」であると語っています。そこに手塚作品に押しつけヒューマニズムを感じさせない原動力があるのではないでしょうか。
 「その思想が民族の境界を越えるかどうかは、偉大性を考えるための有力な要因の、少なくとも一つ」と本多勝一は主張しています。そして手塚治虫を「国境を越える普遍性は世紀の巨人と呼べる」とまで絶賛しています。
 常に「自然の保護」「生き物への賛歌」「科学文明への疑い」「戦争反対」などのテーマを通して《命を大切にしよう》をマンガの中で描こうとした、と手塚は語っています。この本、ガラスの地球を救えの中にも、これ等の事が強く訴えられています。特に戦争反対の事が「僕は戦争を忘れない」「語り部になりたい」の二章の中に熱い口調によって語られています。その中に《正義》の名のもとに、国家権力によって人々の上に振り下ろされる凶刃。人間狩り、大量虐殺、言論の弾圧という暴力が現実にあった事を忘れてはならないと訴えています。ご一読の程を。 つづく 文・大川圭吾



こならの森 23号

2008-03-25 | 創刊~100号

       ■こならの森23号■1990.3発行

C・o・n・t・e・n・t・s

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●目    次●
2p…看板娘
3-5p…トピックス
3-4p…カラムコラム
5p…マン&ウーマン
7-14…飲食組合
14p…危険な
15p…モーター
16pOCRアウト
17p…おそねとしこ/芝居三昧二十二回
18p…結婚
19-20p協賛店名
21-24p…若き芸術家の世界
25p…本紹介第1回/絵本
26p…本10/キネマ倶楽部
27-29p…情報
30p…美容と健康
30p…コーヒー
31p…佐知倶楽部
32p…街角の肖像
33p…子育て
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【本文抜粋記事】

若き芸術家の新世界

スピンナー(紡ぎ手)山崎仁一さん
邑楽郡大泉町在住手紡ぎ工房アトリエ・ジン主宰
日本大学卒業後、東京で毛糸関係の仕事に就く。その関係で、糸を紡ぐ工房に出入りするようになり、技術をマスターしていった。以来取りつかれるようになる。


 出店の動機は、家業の酒屋の新装にともない、かねてから念願だった、紡ぎ手として独立を決意。アトリエを店内に併設した。一般に毛糸店といってもいっぱいあるから、専門店として特長ある物にしたかったという事だ。
 店内には山崎さん自身が紡いだ毛糸や、編み上がったセーターなどが展示してあったり、しゃれた感じの足踏み式紡ぎ機がおいてあって独特の雰囲気。訪れた時は、ちょうど手紡ぎ教室を行なっており、なれた手つきで、紡がれて行く様を見ることが出来た。羊毛と一言に言ってもはひとつ一つが違っており固い柔らかいなど個性がある。悪い素材でも用途によって使い分けをすればそれなりに使い方はあるのだという。原毛は個人輸入している知人から仕入れているので一年ほど先の予約となる。主にオーストラリア、ニュージーランド、イギリスから仕入れている。だいたい一頭からは原毛がニキロほどが取れ、それだけでセーターなら三、四着ほど作れる。原毛は油抜きをしたり洗濯したり、あるいはそのまま素材を利用したりするという。山崎さんが好きなものは、素材そのままを活かした自然なものだという。そのためか、染色する場合も自然にあるものをよく利用するという。「つむぎは自分の心が糸の形になって表われます。」よりがうまく行かない時は、やはり良い糸は出来ないということだ。 
 その魅力は、色を染めたり、そのまま素材を活かしたりすなど楽しみが多いところといい「趣味としても、芸術としても奥が深い」と語る。
 しかし、現在のところは採算度外視なので経営としては楽でないという。
 手紡ぎ教室には近辺の大田市や、大泉町から手紡ぎに魅了された人達が集まって来る。足踏み式の紡ぎ機械使った実践的な講習だ。ちなみに、月四回の講習で五千円。また、入門編として、五百グラムの原毛を糸にするまででの指導(三千円)も行なっている。五百グラムの原毛は、だいたい二十四時間ほどで全部を糸に仕上げられる計算ということだが、なれないと大変。普通は二か月ほどかかると言う。
 参加者は「世界に一つしか無い自分のオリジナルな毛糸が出来上がる」「改めて繊維が生き物だという事に気が付きました」「最初は楽しみより、苦しみが多かったのですが今では通って来るのが楽しみです」と語り評判も上々のよう。
 また、足利市や鹿沼市の公民館において出張講習会も行なっているということだ。


こならの森 22号

2008-03-24 | 創刊~100号

     22号 1990.2.1発行 

表紙 新・成人4人
………………………
●目    次●
2p…看板娘関根さん
3-5p…トピックス
3-4p…カラムコラム
5p…人物紹介 マン&ウーマン
9-10p…世紀末を考える《宇井純》
11-18p…特集=どうしたら健康になれるか
19-20p…協賛店名
21p…結婚しました
22p…第9回 おそねとしこのエッセイ
22p…芝居三昧 21回
23p…モーター
24p…アウトドアー
23-24p…満天の星空
25-26p…情報
27p…本10/絵本
28p…街角の肖像
29p…こならの森キネマ館
30p…危険な道路をぶっとばせ
30p…美容と健康
31-32p…センチュリーラン
32p…コーヒータイム
33p…編集後記


【本文抜粋記事】

トピックス

桐生でミニコミ誌、トライアングル発刊
 四年も前から、準備して来たというだけあって創刊号の出来栄えはなかなかのもの。内容は対談、投稿シナリオ、映画批評エッセイ、歴史など盛沢山の四十六ページ。『通勤電車雑感』など面白く読める読み物もある。しかも発行元のトライアングル企画では、桐生青年の家所長の小林昌人さんが書いている賢い子供を育てる本「お母さんは先生とどうか関わるか」という冊子も発行している。
 しかし、四年の準備期間を経て発刊したにしては、紙面構成が良くないように見受けられる。特に四十五ページなどは一考あるようだ。
 発刊のことば雑誌の顔はカオスなのです。風の音水の音虫の声恋人発ちの甘いささやきひとりぼっちの吐息子供の泣き声父親のカミナリちまたには音があふれている。そして言葉が踊る。意味のあるものないもの気分のあるものないもの何でもかんでもよっといでいろんな色をぱらりとまぜてさっさとふってのぞいてごらん。なんときれいな模様まか不思議にして楽しいもの万華鏡そしてこの雑誌。


 安佐のミニコミ『だんだんに』30号が発行される。
 安佐地区では、唯一のミニコミだんだんにが、30号を発刊した。また、先頃それを記念した「だんだんに・なんなの・音楽会」も開かれている。
 いつもながら、その情報量の多さと、手書きにこだわり、写真版を使わないという体裁には脱帽。内容も多方面に渡り、読者からのの投稿、お便りも面白い。一部200円。
 これからも地域のミニコミとして期待される存在だけに、目が離せない。『最近なって、やっと少し時間が取れるようになりました。それで、こうして「だんだに」30号。今後は、何とか、葉書ででも早目に返事を出すようにし「だんだんに」も、出来るだけもう少し短い間隔で、出したいと思います。今後ともよろしくお願いします』(本文より)だんだんに編集室田沼町山形297ろさは書房内



こならの森 21号

2008-03-23 | 創刊~100号

     21号 1990.1.1発行

表紙 三毳山より富士山夜景

●目    次●
2p…新年挨拶
3p…看板娘=
3p…カラムコラム
3-5p…トピックス
6p…マン&ウーマン
7p-10p…90年に一言
11-18p…新春スペシャルインタビュー
19-20p…協賛店名
22p…美容と健康
22p…街
23p…モーター
24p…危険な
25-26p情報
27p…本10/絵本
28p…佐知倶楽部
29-30p…センチュリーラン
31p…お見合いデー
32p…第8回 おそねとしこ
32p…■芝居三昧
33p…編集後記


新春スペシャルインタビュー


 今回は新春という事もありますのでスペシャルとして、今後が期待される若手経営者対談と題して行ないたいと思います。また、商工会議所専務理事小林正作さんには、その広い見地から今回のコーデイネーター兼オブザーバーとして意見を伺いました。

本年もよろしくお願いいたします。


株式会社松田
代表取締役 松田光央さん

株式会社石川定次郎商店
代表取締役 石川道明さん

■司会 初めに最近の現況や問題点と言った点についてお話願いたいのですが。
■松田 我々の業界などでも、考える部分と作る部分というのがあるわけです。こういうものを作りたいというイメージは、東京で考えているわけですが、それを実際に製品にしているのは札幌とか、博多とかという所なんです。
 そして、そのイメージを伝送するというのはケーブルとか衛星通信とかを使ってもうすでに行なわれているわけですが、一番困るのは流通なんですね。出来上がった製品をどのようにして東京まで戻そうかということです。これはあくまでも、いつの時代になっても一番難しい問題だと思うわけです。
 小さい頃マンガ等で、人間を伝送する。素粒子に分けて送った先でまた合成するというのがありましたが、とても人間は無理だと思います。それは商品だってできないと思いますね。ですから、一番の問題はどういうふうに運ぶかということです。
■司会 それは、自動車か鉄道かということですが、どちらでしょうか。
■松田 自動車ですと、品物の輸送。それから人間の輸送になると電車の方でしょうか。そうなると文化の方になると思います。そして経済は陸送する。
 それから、水路を利用するという手も考えられますね。何年か前みたいにね。何故かというと、この東京を中心とした一〇〇キロ圏というのはこれからますます車が増えるでしょうし、それによって事故とかの諸問題が多くなっている訳ですから、それを解消して行くためには当然考えてしかるべきだろうし、地下に穴をあけて通そうということを考えるより、それだけの
資源が眠っているということですからね。
■司会 石川さんはどうでしょうか、考えを伺いたいのですが。
■石川 私の会社は、薬品の卸をやっている訳ですから、交通の便がいいことにこしたことはない訳です。地域ということですといろんな意味で、ここはすごくいい所だと思います。歴史的なものもあるし、それから東京にも近い、大きな工場もわりとある。それがいいと思う反面、個性が出てこない。
 あちこちでまちおこしなどと言っていますけれども、もう観光でしか食っていけない地域と言うのがあるわけです。また工業化して行くしかない地域もある訳ですよね。公害に悩みながら、川崎などは工場で食って行くしかなかったわけですから。
 昔から、ここの地区の人は東京へ出ていく時に「食えなくなったらいつでも帰ってこい」とそれぐらいここは豊かなんです。ところが四国とか九州とか北海道から働きに出る人は「もうおまえの帰ってくる場所はないよ」と、だから向こうで成功して帰ってこいよと。そういう所から生まれる県民性があるんだと言われるんですね。
 ですから、何にでも適応できる地域だと思うんです。その融通性が裏目に出てぎて特色が出せない所だと言うことです。
■司会 それに、甘んじてしまっていると言うことですか。
■石川 そうですね。
 話は変わるんですが、青年会議所は今年で結成二五周年を迎えます。そして創設当初から安佐は一つという言葉を使っているんです。
 その頃に、すでに安佐は一つというふうに感じていたと思います。それを、意見にして言っても上の人に取り上げてもらえない、というところはあると思いますね。
 最初のOBというのはもう六十五才くらいになるわけですが、その人たちの声が為政者の耳に届かない。この地域の発展というのは為政者、例えばそれぞれの市長さん、町長さんがいかに人の意見を聞いて若い人との意見、お年寄りの意見、そういった年令に関係なく革新的な意見をどれだけ処理できるか、能力の問題だと思いますね。
 しかし、なかなか地域性がありまして優秀なブレーンを育てられないという感じを私は見受けているんですね。若い人がやらなければいけないというように理解を示して下さる方が多ければいいんですけれども、なかなかそこまでいかないですね。
 我々は五十、六十になっても若い人達が、新しい意見を持ってきた時にそれを理解できる能力を保たなければいけない。
 当然六十、七十になってくれば保守的になってくるのは当前ですから、ここにいらっしゃる専務さんのような方は珍しいんですよね。(笑)
■小林 しかし、石川さんが言う通りに、青年会議所も安佐はけ一つ、昔は商工会議所も一つだった。ですから、私も出来るだけ会議所も元の姿に帰ろうという考えを押し進めようとしているんですが、行政というのはなかなかそういう事がないんですね。
 石川さんが言った通り人材の意見というのが取り入れられないという、よそから見れば本当に不思議な所です。
■石川 この地区からはすごい人が出ているんですよね。聞きますとものすごい大物が経済界にたくさんいらっしゃるわけです。ですが、地域はその人たちを追いかけようともしない。その人たちも振り向こうとしていない。もったいない話ですね。あまりに近すぎて郷土意識というのがないのかも知れないですね。
 山口県に行ってびっくりしたのは町の公園とかいろいろな所に歴史的な人達の銅像がたくさんたっているんです。そうして郷土の偉い人たちを見ながら育った山口県の県民性と言うのは違うと思いますね。
■小林 これだけみんなが田中正造、田中正造といって、像と言うのは少ないね。
■石川 私は、佐野駅だの佐野市駅に田中正造の銅像があっても言いと思いますね。
■小林 それはね、佐野駅に広場ができたら会議所でも考えようと思っています。
 例えば甲府へ行くと武田信玄がありますね。私は藤原秀郷の銅像だっていいと思うんですよ。足利では銅像を建てるかどうかで大騒ぎしていますけれどもね。確かに藤原秀郷はここにいたんだからね。
■松田 佐野はすごいものがあるんですけれど、ちょうど中堅なんですね。大人物とかそういうシンボリックなものじゃなくって、それが数多いんです。だからどこに的を絞っていいんだか分からないと言う事があります。人物ならだれだれとか建物だったらどれ、遺跡だったらどれ、随分あると思うんですね。
■小林 今の消費者は、婦人と子供に変わってきていますが、佐野はその人たちが来られない町なんですね。
 どう言う事かというと、女の人がトイレへ行きたいと思ってもトイレがないんです。子供が水を飲みたいといっても水がないですね。それから、子供と一緒に何か食べようと思っても食べるところがない。ですから、そういうものを町の中に作らなければいけない。
 例えば、トイレのある町という言うふうにして、公衆電話の下にちゃんとした水洗トイレがる。
 佐野駅の百年祭の時に言ったんですが「こんな汚い駅はないんだ」とここに人が集まらないというのも無理がない。「ここへ来て見ろとトイレの臭いがぷんぷんするじゃないか、どうして水洗トイレにできないんだ」と言ったわけです。
 工業団地へ行っても何となく『佐野の工業団地』というものがない。商店街にもそれがない。
 館林市の町作りというのは参考になるんですが、道路を拡張する時に、歩道の幅を狭めるというんです。今は、歩道を歩く人よりも車の方が多いんですよ。ですから、車が寄れる場所を作る。町作りとしては、一つの型ですね。館林市の中はバスが走らない。これは全国的にも稀な事です。やはり、それが売り物になるわけですね。
 ジャスコが佐野へ来ると言う時に、佐野の消費者が佐野の商店街で買い物をする率と言うのは五十パーセントでした。半分の人は、よそへ行っていたわけですね。それが、ジャスコや十字屋が出来てから八十パーセントまでになった。ところが今はどうです六十五パーセント位に落ちています。ということは、今やジャスコや十字屋は大型店としての機能を失いつつあると言う事です。
 やはり、やり方を変えなければいけないわけです。足利のアピタとか栃木のジャスコみたいにやり方を変えるわけですよ。
 この前永六助の講演を聞いたんですが、あの人の娘が浅草に住んでいて、買い物には毎日松坂屋へ行くというんですね。そうしたら、隣のおばさんに言われたんだそうです。「うちにも同じものがあるのに、どうして松坂屋へ行くんだ。あんたのうちが火事になった時に、松坂屋の店員は助けに来るのか」と。そういう地域のコミュニケーションが最近は失われているんです。
■石川 考えてはいるんだと思うんですね。でも、もっともっと皆さんが集まって意見を出し合って論争するという事が一番必要じゃないんですかね。
■小林 よく市長に言うんだけれども、銀行の支店長だとか、工業団地とかのよそから来た人たちに集まってもらっていっぺん懇談会でもやろうと思うんですね。それで、無責任な発言をしてもらう。各人にはそれだけの問題があるわけだからその話を聞く会を二か月に一回やるといい。
■松田 日頃いろいろ考えるんですけれども佐野の、あるいは安佐の人の人格というか、性格というのはどういうものだろうという事が、地元の人間なのに分らないんですよね。
 私のところは、父が足利の出身で母は栃木なんです。そして産まれた私は、真ん中の佐野なんですが、いまだに考え方というのが分からないし、イメージというものがつかめないんですね。足利の人は、どっちかと言うと非常に突っ走って、よく言えば自分を表現するパフォーマンスがうまいんですね。
 栃木というのは逆に、いぶし銀のように光るところがあって何か気に掛かるところなんですね。こんなに近いところで、足利と栃木の中間にいて非常にイメージが薄くなってしまっていると思うんですね。それは、両端が全くの陰と陽、会社で言えば営業と経理みたいなものなんですね。
 佐野の人の性質を理解できればその良さを分かって、こちらからこういうやり方でやれというふうに言うよりもその特長を生かしたものを早く作ってしまった方が手っ取り早いと思います。それは、みんな言いますね。金融機関でも、大手のメーカーでも話をしていますとここら辺は違うと言うんです。
■小林 松田さんね、私が商工会議所へ入ってまもなくの頃の話ですが、大同毛織の社長が佐野地区は繊維の町だからここに毛織物の工場を出そうと言ったわけです。社長は、田沼の小見の出身なんですね。ですが、その時の商工会議所の専務が何を言ったかと言うと、「よしなさい」といったわけですね。
 ここの織物業者は本末転倒している。全部あるって見たら自分の住家はケヤキ作りでものすごい家を作って、二号さんを囲っている。ところが織物工場は物置だと、だからここの人は、戦場と休むところを別のものと考えている。これではだめからよしなさいと言っていたが、その通りになってしまった。
■司会 人間そのものが文化的に豊かにならないと本当の意味での発展というものが計れないと思いますので、ここで文化という事にについて語って頂きたいのですが。
■松田 佐野と言うところは出流原とか、赤見とか郊外にまだまだ(ほかの関東地方の中では有名と言うのではないんでしょうけれども)自然が残っています。その自然を残して置くと言う事、それが一つの文化ではないかと思います。
 東京と言うのは、ものを造る場合にデーターが整っているわけですね。そして、大勢の人たちでそれをどう組み合わせるかと言う事を、簡単にやってのけるわけです。クリエイティブな仕事でもそうです。しかし、その根源と言うが、発生する大本に必要なものは、自然とか、空気がきれいだとか、水がおいしいと言う環境ではないでしょうか。
 小刻みに、間に合わせ的に出すものと言うのは、東京の方が便利なんです。ところが製作に何年もかかるような大作とか言うものを作る場合には先程言った自然がある方が言いと思いますね。
 幾何学的な建物の中で集中して仕事をしているわけですから、酸欠状態になる。だから休めるところ、保養するところというものが必要になってきます。佐野と言うのうは、当然ですが、そういうものがあるわけですね。
 その辺をうまく、ただ保存するだけじゃなくって、古いものは徹底的に古く、細工をしてでも古くしていくと言う演出も必要じゃないかと思うんですね。それが、文化と、文化を産みだす元と言うものにつながっていくと思います。これは負け惜しみかも知れませんけれど、東京でそんなものを求めたくっても無理です。ですから、そういう地の利と言うものは大いに活かすべきですね。人間の本質を理解して、良さをもっと引っ張り出す。イベントをするにもそこにヒントが己づと出てくるような気がするんです。ですが、皆さん結果の方を先に考えますから、プロセスと言うのは非常に面倒臭いし大変なんですね。
■小林 この間TVを見ていたら、瀬戸内海の小さな島に大阪あたりから資本が入ってきて、小さな島に別荘を作ったりして、島を目茶目茶にしてしまったという。この辺りの三毳山周辺も本当にそうされる可能性もあると思うね。そういう事が、三毳山大規模公園構想の中にも出てくるわけですよ。簡単なんだ、どんどん入ってくるだけだからね。放って置けば三毳山周辺はみんな目茶苦茶になってしまいますよ。
■石川 何にしても要はエネルギーですね。文化と言うと静的なものを感じますけれども、やはりエネルギーですね。
■小林 どうでしょう、そういうエネルギーというものがこの地区でも蓄積されているんではないかと思うが、それをうまく持って行くリーダーがいないという事なのかな。

■石川 地元から国会議員が出ていない。
 そして選挙にしても地元の事を考えるんじゃなくってよその人を応援するのに地元でけんか、これでは逆です。代議士さんが来て、佐野の票が欲しいといって来るのに、皆さんぺこぺこするんです。それはおかしいと思いますね。この地区の票をあげるんだから、もうちょっとこの地区を何とかしてくれ、と言うのが当前なのに、みんなで先生、先生というんですね。
■小林 政治が混沌としているのはやはり柱がないという事かね。
■石川 政治の話になりますと、我々若い人達の代表を出すんだと言うのに、票集めのテクニックばかりです。我々は、そんな話をしているんじゃないんだ。この町をよくするためにはどういう人を出さなければいけないかを話しているのに、マイクを向けると、「いや選挙と言うのは難しいんだよ-」というんですね。
 佐野は、先ず政治から出直す必要があると思いますね。
■小林 だから、駅南の作り方なんか見ていると、そういう混沌さが分かるね。
■司会 新春という事もあります
ので、抱負等について語って頂きたいのですが。
■小林 最近は景気がいいと言っても多くの問題を抱えていますから、より一層の経営努力をして体質改善を計る。それに対して商工会議所は大いにそれに協力する、そういう事をやって行きたいと思いますね。
■石川 佐野市民として、文化の面でお手伝いできる事があればいいなと思いますね。
■松田 価値観を変えてみたいなと思いますね。それが、若い人達の考えを受け入れたりする寛容さを持ちますし、そうでないと人材を集めてきても教育ができないですからね。価値観を変えた教育の仕方が必要だと思いますね。
■司会 どうもありがとうございました。


こならの森 20号

2008-03-23 | 創刊~100号

     20号 1989.12.1発行

表紙 影沢医院のつた

●目    次●
2p…看板娘
3p…マン&ウーマン
3-5p…トピックス
5-6p…カラムコラム
7p-12p…忘年会
13-18p…こならの森語録
19-20p…協賛店名
21p… 結婚 森下さん
22p…本10
23p…モーター
24p…アウトドアー
23-24p…街
25-26p…情報
27p…美容と健康
28p…危険な
29-30p…センチュリーラン その14
30p…コーヒー
31p…お見合いデータ
32p…第8回 おそねとしこ
32p…■芝居三昧
33p…編集後記



【本文抜粋記事】

芝居三昧 その第19回


 旅のローテーションですが、約二か月かけて、関西、四国、九州。同じように関東、甲信越、東北、北海道が二か月でセットになっています。かなりハードな日程をこなしていくんです。一週間に一度くらいの割で、先乗りとしての移動日がありますが、あとは毎日毎日、芝居を打ては次の公演地へと、ハネてから乗りこむか、翌朝早く出発します。
 当時一ステージ三百円のギャラいただいておりましたが、旅に出ると、他にアゴアシ代として七百円。旅館に泊まれなければ、旅館代として二千二百円。飛行機や電車に乗らず、セット運送のトラックに便乗させてもらうと、そのチケット分の金額がバックされます。東京にいる時は、電車賃にしかならないギャラでしたが、旅公演ですと経済的には楽になります。でも反対に、二か月の間、集団行動でしたから、自分の時間は取れません。それに、旅に出る時は、相当数の裏方さんは、よそ者です。照明、大道具、効果等のスタッフは、その道のベテランをアルバイトで一日三千円で雇いチームを組むのです。年中歌舞伎や歌などで旅に出ている人達。小さな劇団にいて、公演費用を稼ぐために参加する人達などいろいろです。人間関係がむつかしくなります。
 プロ劇団は、すべて分業。学生時代のように、なにからなにまで自分の手といったものではありません。先にも述べましたが、衣装は衣装屋さん。小道具は小道具店。セットは草加に俳優座のセット工場があり、そこに発注していました。舞台輸送という、旅でのセット運びを生業とする会社まであります。先輩に連れられて、舞台輸送のトラックで、「うかれ」のセットを引き取りに草加に向かう途中、あのよど号ハイジャックのニュースがラジオから流れていました。 つづく