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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森219号

2008-08-02 | 201号~220号
       ■こならの森219号■2006.7発行
表紙 「まちの不思議 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■


としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「町中の不思議番外編」………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ


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【本文抜粋記事】
タウンウオッチング番外編
「町中の不思議」

■ ミラーまん

 僧侶が木魚を叩くのは、読経中、眠くならないように―眠気覚ましに叩くのだそうだ。
 (これは本当の話)
 この話を聞いた長距離ドライバーのSさん、どこからか木魚を買い込んできて、車の助手席に置いた。運転中に眠気を催してきたら木魚を叩きながら運転するのだって。    作・吉川カツシロー

 今回は、町中の不思議を追ってみた。
 いろいろなところに、突撃取材したのだが、かえってそれが良かった感じがする今回の企画である。収穫は多かった。水琴窟や、コント小話まで、ゲット。たった数時間に、色々ななぞが解き明かされたほかに、極秘情報まで得られたのだから、「まちなか」には本当に、不思議や驚き、サプライズが存在している。

■ミラーまん
 なにげなく車を運転しているときに目に入ってきたこのミラー。よく見ると、生け垣の中からニョキッと目の玉のように飛び出している。近くに寄ってみると、反対側も同じように目玉が飛び出したようだ。そして、目玉に近寄って何が写っているのかよく見てみると、きれいに刈り込まれた松の木が………なんとも絵になってます。それにしても立派な生け垣。幅があるように見えるが、結構薄くできている。近くには、ろくろ首ミラー(左写真)もある。




 ミラーを取材した後にその反対側で見つけたのがこの看板と、生け垣。あぶないのは、とびだしている生け垣?そんなわけないだろう。そこで次の写真。この下にあったらまったくぴったりだったのだが、そうはうまくいかないものだ。
 二枚、抱き合わせで、座布団一枚!ということにしておいて下さい。
 





■藁屋根の家(現役)
 少し前、例幣使街道からも近い堀米町に立派な藁屋根の家があって、写真におさめたのだが、その後老朽化が著しく解体されて今はない。これが、町中の藁屋根の家最後のもとのと思ってきたのだが、実際には灯台もと暗しで、何度か通ったことのある富岡町に、れっきとした藁屋根の家が存在していた。思わず写真を撮ったのだが、掲載にはやはり、家主の許可を取らなければと母屋に向かう。簡素で、しっかり生活になじんでいる。 みかけより夏は過ごしやすく、涼しいということだ。雨音も、おだやか。著者も幼少の頃は、そうだったのを思い出す。
 藁屋根だから絵になるとか、そういったこととは別次元に、本当に自然に、あたりまえにそこにある。



■路地裏考
 次の章に登場する五叉路、その延長線ではじめて見つけたのがこの路地。殆ど毎日のように通り過ぎているのだけれど、全くというか、気にはなっていても特別通ってみよう、あるいは通る予定はない、思わない、一生を通じてそんなことをしてもしかたがない道、それをあえて、無駄だと知りながらも通ってみる。こんな経験が、今回の不思議に通じると思います。題して、「サージャントペッパーロンリハーツクラブバンド」。少し長い…


■五差路・六差路
・十叉路

 インターネットで調べてみると、十差路というものが存在するらしい。ホントかよって思ったが、事実らしい。
 これは本当にすごい。
単純に言えば、一点に10本の道が交差しているということだから。詳しくは下記の地図を参照。場所は東京都江戸川区。

 五差路はY字路に直線道路が交わった形。十字路に、直線道路が交わると、六叉路となる。あるいは三本の直線道路が一点で交差する形といえるだろう。今のところ佐野市での最高は六叉路だ。それ以上もこれから出来るのかもしれない。


「すずらん灯」
■すずらん灯
長年の謎がついに解けた。
 最初にその存在を確認したのは、こならの森を創刊してまもなくの頃と思う。残念ながら現在では、消滅している。写真の日付は93年とある。
 次に、別の場所で偶然見つけたのが、左ページにあるすずらん灯。今となっては、消滅したものと思ってきた。それが、今回の町中ウオッチングにおいて思い出したかのように、向かってみると昔と変わらずそこにあった。もう消えていると、思っていたのだが~遠くからでもその片鱗が見えた。この個人的にはものすごい驚きと、感動。

 所有者である三吉野別館の吉川さんによるとすずらん灯は一時期はやったものだというが、その他の詳細はわからなかった。
 よく見ると、市営駐車場前に復元されたすずらん灯(右側の写真)は球が4つ(5つ)ある。でも、今回取材した、スズラン灯は、球は3つである。堀米町にかつて存在した、スズラン灯もやはり「タマ」は、3つである。ある種のランクがあったのか?

■水琴窟
 こんな季節に、そして、温暖化の影響かどうかは分かりませんが、日本全国が亜熱帯化している今、本当の癒しの音としては、この「水琴窟」が一番マッチしているような気がする。なんとも涼しい音だ。思わぬ収穫は他にもあった。吉川さんに新作コントをいただきました(P15参照)。帰省シーズンにどうぞご拝読あれ。猛暑のこの時期、これも「癒し」になるようなら大成功(笑)。

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こならの森218号

2008-08-01 | 201号~220号
       ■こならの森218号■2006.6発行
表紙 「喜連川堀割 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「喜連川堀割」…………………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ


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【本文抜粋記事】
ドライブガイド
足利氏ゆかりの「喜連川」

 喜連川の有名な桜並木が縁になったようだが、氏家と合併後の新市名は「さくら市」。合併ラッシュのこの時期、他府県でも同じ名前が付いていないのかと心配してしまうくらい日本人にとっては、なじみのある名称だ。
 その喜連川の有名な桜並木をくぐって、町中に入り最初に目に入った看板には、「足利家歴代の墓」とある。足利家とは、あの佐野市の隣の「足利」か? いったいどうして、ここに歴代の墓があるのか? そんな思いがよぎった、喜連川と足利氏の関連を、そういえば聞いたような気もする………と、少しばかりよぎったのだが、その時にははっきりとはしなかった。
 さらに役場から図書館まで車を走らせ、左折しようとした場所に佐野(歯科?)医院という大きな看板が目に入った。足利はもとより、ここは佐野にもゆかり?のある場所なのか。今回は、ドライブ・ガイドといった意味あいよりも、その歴史的背景の方に、興味が湧いてしまった。町のパンフレットによれば、足利尊氏の弟の系譜であるという。
 そう思えば、町の名所である掘り割りもうなずける所である。
 尊氏の血筋が、幾多の苦難、紆余曲折を経て、この喜連川に結集してくる。なんとも運命的な場所だとも思える。江戸時代には、一万石以下であるにもかかわらず、唯一藩として認められていた。
 その時代の佐野氏はといえば、鎌倉公方、古河公方とも足利氏に仕えていた。そんな経過からも少しは関連があるとも言える。
 そうした大きな歴史の背景を少し理解して行ってみると、また楽しいものである。

■御用堀
 こうした掘りで有名なのは、津和野、あるいは萩といった城下町だが、県内にも同じような風情の掘り割りがひっそりと、清流をたたえていた。掘り割りの途中には、
休日だったが、観光客で賑わう名所とまではいかない。人影もまばらで本当にゆったりと、往時の面影にひたれる。距離としては、200メートルほどで、その先の寒竹囲いの家並へ回り込んでいっても、小一時間の手軽な散策ルートである。役場前から別な散策道を通って、スカイタワーまで足を延ばしてもいい。


■喜連川の歴史

鎌倉公方から古河公方そして喜連川公方へ………
 足利尊氏は京都に幕府を聞くとともに、次男基氏に関東十力国を与え、鎌倉を拠点として鎌倉府を開かせた。鎌倉府の長官は鎌倉公方(関東公方)と呼ばれ、関東管領上杉氏に補佐され関東の政務を主導したが四代持氏は将軍義教と対立し、管領上杉憲実にも離反され、永亨十一年(一四三九)鎌倉公方家は滅亡した。その後、関東諸将の要望により持氏の子・成氏が鎌倉公方として復活したが、上杉氏の支持を失い、古河に移り古河公方と称された。
 古河公方家は、初代成氏から五代義氏まで命脈を保ったが、天正十年(一五八二)義氏は九歳の氏女を残して没し、一二八年間続いた古河公方家は断絶した。
 一方、古河公方二代政氏の次男義明は、下総小弓城にあって勢威を振い小弓公方と称された。義明は国府台の戦において討死したが、三男国王丸と二姫は安房館山の里見氏に保譲された。国王丸は成人して頼純と名乗り、その娘・嶋子は縁ありて喜連川塩谷氏十七代惟久に嫁いだ。
 天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉は小田原城攻略に際し、関東の諸将に参陣を命じたが、惟久はこれに応じなかったために秀吉の怒りに触れたと察知し出奔、惟広以来十七代四百年続いた喜連川塩谷氏は滅亡した。
 その際、惟久夫人鳩子は宇都宮に陣した秀吉を訪ね、惟久に二心ないことを弁明し許しを請うた。
 また、秀吉は古河公方家の断絶を惜しみ古河公方義氏の遺子・氏女に鳩子の弟国朝を配し、古河公方家の再興を認めた。
 国朝は秀吉の朝鮮出兵に応じ出陣の途次安芸国において急死したため、秀吉は国朝の弟頼氏と氏女をめあわせ襲封させた。
 頼氏は喜連川に居舘を定め「喜連川」を氏としたため「喜連川公方」と尊称された。
 江戸時代、徳川幕府は、喜連川氏を足利将軍家の後裔の中で、唯一の大名として格式十万石・実高一万石、特権十六力条を与え優遇した。
(きつれがわ てくてくあるきマップより転載)

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こならの森217号

2008-07-31 | 201号~220号
       ■こならの森217号■2006.5発行
表紙 「あじさい 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「堀米八幡古墳」………………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

風の独り言

■温泉ベストテン
風の独り言 業務暦35年にもなると温泉旅館に宿泊した回数は何千泊にもなってしまう。近隣の温泉地はくまなく入浴していると思っていたが、入浴の記憶のない温泉が多数あることに気がついた。日本全国だと北は利尻富士温泉から南は沖縄、りっかりっか温泉(すごい命名だね)まで757箇所の温泉があり、この中で経験した温泉は180箇所位かな(実際に数えてみた)。まだまだ未熟だと反省しきり。浅い経験の中でも一般の人達からすれば貴重な経験というべきだろう。そこで温泉の効能、つまり体に効く温泉のベストテンを考えてみた。

第1位 玉子湯(高湯温泉)福島県 硫黄泉
 この温泉は吾妻スカイラインの中腹にある一軒宿で、源泉を2箇所持っている。新しい温泉の方が硫黄は強いそうだが、近々止めてしまった。何故なら硫化水素ガスで事故が2度おきてしまった。そのくらいだから温泉は効く。入浴して2日経っても硫黄の匂いが消えない。いろいろ効能はあるが何といっても皮膚疾患に良い。しかし乾燥肌の人には向かない。
第2位 草津温泉 群馬県 硫黄泉
 やはり 日本3大名湯のひとつ草津。温泉は沸かすことより冷やす方にお金がかかる。90℃以上で湧き出る温泉を水を加えず冷ますために、あの巨大な湯畑がある。若い頃、天狗のスキー場で転んで痣を作っても温泉に入ると次の日には全部消えていたことを思い出す。
第3位 塩原 元湯温泉 栃木県 硫黄泉
 塩原は11湯ある。その中で硫黄泉は元湯と新湯だけ。元湯は旅館3軒。湯が黒く変色する宿と緑色に変色する宿がある。やはり硫黄の匂いは強く。効くーーという感じだ。近くていい。
第4位 乳頭温泉 秋田県 単純硫化水素泉
 乳頭温泉はその名前でずいぶん得をしている。乳白色をした温泉を連想させるが、実際には湯の花でいくらか濁っているくらいだ。近くの乳頭山から名前がきている。炭酸泉は炭酸ガスの気泡が肌に付く泡の湯だ。保温効果が強く冷え性、更年期、消火器病に良く、下痢に飲泉は良くない。
第5位 母畑温泉 福島県 単純温泉 放射能泉
 昔から、相撲の力士たちが場所後の疲れを癒しに来た温泉として知られる。入浴するといつまでも身体が暖かく、肌がスベスベになる。放射能泉は尿酸を尿から出すので通風の湯とも言う。ここのマッサージが上手い。
第6位 野沢温泉 長野県 硫黄泉
 野沢温泉には13箇所の外湯(共同浴場)がある。全部無料。よく清掃されていて気持ちがいい。泊まるとつい6箇所くらい入ってしまう。町の人達の人情もこまやかで親切。温泉効能とは関係ないが、リラクゼーション効果てき面なので入賞とした。
第7位 霧島温泉郷 鹿児島県 硫黄泉 炭酸水素塩泉 単純泉
 霧島に林田、硫黄谷、丸尾、湯之谷といくつもの温泉があるが、その湧出量は大変多く、各旅館さんの大浴場も半端じゃなく大きい。文字通り1000人風呂。ジャングル風呂。
第8位 鳴子温泉(鬼首含む) 宮城県 硫黄泉 塩化物泉 炭酸泉 硫酸塩泉
 上記の通り温泉デパート。ひとつの旅館に4種類の温泉質の風呂がある。
 よくばって全部入ると、泉質が中和して効果が無いそうだ。硫化塩泉は石膏泉とも言い、動脈硬化症に効くらしい。
第9位 月岡温泉 新潟県 硫黄泉
 ここの温泉はとにかくお肌スベスベになる。美人になる湯として宣伝している。硫黄泉にいくらかカルシウムが入っているようだ。(私見だが。)
第10位 岳温泉 福島県 酸性泉
 安達太良山の中腹から湧き出すお湯は日本でも唯一の酸性泉。湯を引く間に冷ますらしい。酸性泉は肌にしみる強い刺激がある。肌の弱い人は湯後に真湯で流すと良い。糖尿病に良いが、高齢者、乾燥肌の人には向かない。日本は火山列島。そのお陰で豊富な温泉があり、いつでも疲れた心と身体を癒すことが出来る。日本人に生まれて良かったね。

ウィンズワールド 根本 佳英

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こならの森216号

2008-07-30 | 201号~220号
       ■こならの森216号■2006.4発行
表紙 「 唐沢山と小屋」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「行楽情報」……………………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

ちょっとそこまで
G・W行楽情報

■今に残る渡し船
赤岩渡船

 群馬県千代田町と埼玉県妻沼町(現熊谷市)を結ぶ、道路渡船。利根川流域でも三つしか残っていない。「県道」なので、運賃無料。年間数千人の利用があるという。埼玉県側では、葛和田の渡しとよばれている。
 渡し船と聞くとなんだかレトロで懐かしい思いがする。編者の小学生の頃にも、渡良瀬川に西岡渡しという渡し船があり、その後も生活の足として、佐野市と館林市を結んでいた。後で、ミニコミ誌を編集するようになったとき、またあってみたいと思って近くにお住まいの知人に連絡を入れ、再会することが出来た。10年以上たっているので、面影はあまりないが気さくな人柄は変わっていなかった。小学生当時、乗り賃は30円くらいだったと思う。そうたびたび乗船は出来なかったが、船頭さんの控え小屋によく遊びに行った。実はもう時効だが船頭さんがいないときに、かってに舟を友人とふたりで出してしまったことがある。乗り出しはスムーズに行ったのだが、半ばまで行くと水流の関係かうまく操れなくなった。流れが急になったようにも思え一時、難破、遭難か、とひやり。それでも何とか元の位置まで戻ってこれた。このことは、再会したときにもさすがに話題にはしなかったが、万が一大事になっていたら、船頭さんも管理責任を追及されただろう。そんなことがあったからか、未だに難破船の船長を降りられないのかもしれない。余談の方が長くなってしまった。
 編者の時代は、本当にレトロな木造船で長い竹の棒を川底に突き刺し、それをてこにして舟を前に押し出すという航法だった。残念ながら赤岩の渡しは、近代的な動力船、定員24名。「渡し」というイメージからは少しかけはなれているが、ゆったりした流れの利根川を舟で越えてみるのもまたいいかもしれない。
 赤岩渡舟の歴史は古く、案内板によれば、利根川十六渡しの一つに数えられていたそうだ。
道路渡し船として千代田町が昭和24年から県より委託を受けて運営している。朝八時半から夕方五時まで航行。普段は、千代田町側に停泊しているので、妻沼側から乗るときは、旗をあげて合図を送る。

 昭和22年のカスリーン台風による洪水で辺り一面が水没したとき、この地区だけが浮島のように水中に浮いたのを多くにひとが目撃しているという。
 写真はクヌギ並木、新緑の頃は素晴らしい遊歩道になります。また、あたりはミニ水郷で6月にはハナショウブ咲き誇ります。
 関東地方ではほとんど絶滅した「トキソウ」などの「高原性植物」が自生しており近くにはこれまた珍しい「ムジナモ」の自生地もある。また、準絶滅危惧種に指定されている「ノウルシ(トウダイグサ科)」の群落もみられる。黄色い包葉が花のように見える。漆のようにかぶれる。群生地には木道が設置されている。

茂林寺沼低地湿原

 沼は沖積低地、高台は洪積台地に属しているという。地下には泥炭の層が数メートルもあるという。多々良沼、城沼、近藤沼などの沼も同じような形成を経てきた。佐野市内の安蘇沼などもそれに属するようだ。群馬県の天然記念物に指定されている。遊歩道が整備されていて、ちょっとした湿原(尾瀬)とまではいかないが、手軽な散策には最適だ。また、近くには沼の名前にもなっている、茂林寺があるので、ここも訪れてみよう。おみやげ屋さんも健在だ。


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こならの森215号

2008-07-29 | 201号~220号
       ■こならの森215号■2006.3発行
表紙 「 カタクリ」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「ライクア北海道」……………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】
特集「ライクア北海道」
 少し前になるが、北海道旅行へ旅だった。編者にとってははじめての地 少し前になるが、北海道旅行へ旅だった。編者にとってははじめての地ではないが、なぜかいろいろな意味で、初体験の思いが多かった。その分、感動したことも多くあった。それで、つづけて次の年も、前年度に回れなかったところを中心に行ってみようと計画したのだが、その前に行った信州の景色が、北海道とあまり変わらないのではという事などが災いして(幸いか?)次は果たせなかった。でも、よく考えるてみると、青森の北端部も果てしなく北海道に近いし、反対にある九州阿蘇山周辺の草原は全く北海道といっても遜色ない。
 なにも毎年、北海道に行かなくても、身近に北海道を感じられるところがあれば、あるいはそれよりも北欧風だったり、異国情緒だったりを感じられ(市内ではほとんど不可能に近いが)たらいいのではないだろうか。そんな思いから始まった企画が今回の、「らいく・あ 北海道だ」。
 食べ物だったら、異論なく北海道に軍配があがるのだろう。いか、かに、うに、確かにうまい。だが、旅費を払っても採算があうかといえば疑問点も(もちろん、そういう問題ではないが………)
 ラーメン対決ならどうだ。佐野ラーメンがある。確かに味噌ラーメンには少しだけ=負け惜しみか、脱帽したが、その他の塩、醤油ラーメンは、佐野ラーメンと比べたら全く問題外だと思う(すごいひいき)。

 今回の企画は、そうした思いから始まっているので、編者個人の主観でぶっちゃけた話「これって北海道」というものもあることをおゆるし頂きたい。ですからそのつもり、そのノリで気楽に参加して頂けるとありがたいです。また、編集部では、今回の企画「らいく・あ・北海道」と思える写真を募集しています。また、取材していただきたい地区、この地区こそは北海道のあの地区に似ている、あるいは食べ物がそうだ。など、どしどしご応募ください。おまちしております。
 それから、北海道にかかわらず、「らいく・あ 九州」、「らいく・あ 神戸」「らいく・あ 横浜」などどんなジャンル、風景・食・文化などでもかまいません、どしどしご応募ください。

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こならの森214号

2008-07-28 | 201号~220号
       ■こならの森214号■2006.2発行
表紙 「岩舟山 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森3月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「グレープロードをゆく」……6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

書評

決断力

 俵 萌子 著
  海竜社 刊

 休日が久しぶりに素晴らしい秋晴れに恵まれ、さらに特別な用事も無かったので、妻と一緒に赤城山山麓にある俵萌子美術館を訪れました。これは昨年に佐野市で俵萌子さんの講演会を聞き、その時にぜひ一度は行ってみたいと思っていたからです。ほぼ一年ぶりに希望が叶えられました。
 赤城山の鳥居をくぐり山頂に向かって車を進めると、道路から少し入った所に俵萌子美術館がありました。美術館の横は自宅になっており、もちろん部外者は立ち入り禁止です。そして美術館の後ろは陶芸をやるスペースになっていました。中には入りませんでしたが、炉もあるそうです。講演会の時に小さな美術館であると聞いていましたが、予想していたよりもさらに小さく感じました。でもこぢんまりしながらも、俵さんの個性が感じられる美術館ではありました。本書の中でも、銀行からお金を借りるなどしないで無理をせずに、原稿料が入るたびに充実させてきたとあります。
 運良く俵さんが在宅しており、本書の購入と同時にサインを頂きました。その時に少しばかり会話をしましたが、本当にエネルギッシュな人であると感じました。その後に美術館内にある食堂で、美術館の特別料理とコーヒーをいただきました。
 帯には「挑戦することは新たな生きがいを生む」と書かれておりますが、本書の内容も著者の新しいものへの挑戦の歴史が書かれています。パソコンそして陶芸、美術館の建設、そして村おこしなどです。そしてそれらをみな成功させていくには、一つは本人の努力もありますが、人と人との出会いをとても大切にしてきたことが、大きな要因になっているように感じました。それを思うと、老いるのも決して悪いことばかりではないな、と言う気持ちになってきます。それは俵さんが言っている「今日がいちばん若い」という考えにつながるのだと思います。
 文・高田朱夏

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こならの森213号

2008-07-27 | 201号~220号
       ■こならの森213号■2006.1発行
表紙 「花地図 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「合併後のまちづくり」………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

◆実践報告◆

「実践的まちづくりの事例」まちづくりビジネス学入門

■藤村 今日のように、行政、学生、まちのみなさんがどのように一緒に活動ができるのかという仕組みが、町づくりとしてはとても大事です。佐野が佐野だけのことを考えても、少しもおろしろくないのではないか。
 早稲田の町は、約5万人を相手に460店舗が商売をしている。学生が3万人はいますが、休みに入ると相手にならない。夏休みの2ヶ月はどうにもならない、その頃来ていただくと、シャッター通りとなっている。そこで9年前に、あまりに夏枯れが激しいのでなんとかしよう。講堂前でコンサートをやろうとしたが、月1000円の予算でそれは無理だ、だったらどうするか、最近は環境とかリサイクルというと人が集まるらしい。環境とかそんなことはどうでもよかった、夏枯れ対策としてはじまった。環境なら費用が安くて人が呼べる、そこでイベントを企画した。イベントをやるとゴミが出る、だったらゴミが出ないイベントをしよう。分別回収をして、ゴミが出ないイベントにしたらいい。当時は、空き缶回収機や、ペットボトル回収機があった、それを借りてこよう。そんな時に、便利なのが「早稲田大学」の名前です。いろいろな企業に声をかけたらメーカーが集まってきた。
 ところがそのイベントが写真入りで新聞に載った。「都の西北リサイクルへ」、朝起きると商店街はとんでもないことになった。その後のイベントではNHKが1時間の特集を組んだ。
 その一番の目玉が、空き缶回収機です。そこに空き缶を投入すると、何回かに一回の割でチケットがあたる。それをもってお客が、店にやってくる。空き店舗をエコステーションと名付けて空き缶(お客さん)回収機の設置場所として利用した。
 あまり環境問題をまじめに考えると長続きしない、本当にやっているひとは2、3年で頭に来る。
「これだけ大事なことを、あなた達はなぜちゃんとしないのよ」
私たちは始めから動機が不純なので、10年目に入っても、リサイクルをゆうゆうとやっておる。これをやっていると、二つのことがおこってきた。
 今まで商店会の役員会に学生さんがやってくるということはなかった。商店会と学生さんがそこまで仲良くなったことはない。学生さんにいわせると、チケットが情報発信となる。これをまちづくりシステムだといったのは学生さんの方でした。
 中学校の50周年の記念事業を町と一緒に考えたい。そこで「戸塚の町を考える会」として80歳のおばあちゃんの話を聞いた。記念事業として毎年行うようになった。中学生は50年前のことを知らない、ということが分かった。学校で徳川時代がなにかは習いますが、自分たちの町の昔を知らない。まちづくりも、町がどうなってきたのかをみなさんが知らなければなっていかない。それが地域のコラボレーションとなった。
 阪神大震災がおこったあとに、商店街の活動がはじまったこともあって、地震について勉強した。そうしたら、ほとんどの人が即死です。圧死、ショック死がほとんどです。殺人をしたのはみんな家です。ですから、耐震補強をしなければ助からない。
 こういうことは、なかなか住民の方にわかってもらえない。そこで実際に震災が起こったときのイメージが大事なんだということをいっている。
 大震災が起こってから3秒後、3分後、3時間後のイメージを考えてもらいます。みんないろいろなことをいいます。火を消す、家族を起こす。ですが、実際に3秒後に起きられるものだった起きてみてください。できません。現実のイメージが大切になるんです。

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こならの森212号

2008-07-26 | 201号~220号
       ■こならの森212号■2005.12発行
表紙 「 大谷石」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「大谷石ファンタジー」………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

1500年の装飾ロマン
大谷石ファ ンタジー

■なぜ大谷石なの
 大谷石なんてあたりまえ、今さら見るところなんてあるの? そんな感想が今まで支配してきたのだろう、国道293号線はいくどと無く通っているのに、あの日より一度たりとも大谷町へ足を踏み入れることは無かった。
 一番のきっかけはなんだったろうか。歴史的町並みの本を見たこともあるのだろう。その前に西根地区の紹介が新聞に載っていて、それから興味が膨らんでいった。

■大谷石ファンタジー
 大谷石というなんとも普遍的な命題をあたえられて、少し躊躇している。なぜかと言えば、小学生の遠足がまさにここ大谷観音だったからである。もう、記憶はほとんどない。大谷観音だけがイメージとして残っているだけだ。その印象があまりにも大きいがゆえに、それだけの(しかない)場所とばかり思ってきた。ところが、昨今、状況が変わってきた。
 実のところ、大谷石の需要は激減しているという新聞記事をみて、驚いている。実際に大谷町に行ってみると、たしかにもったいないとも思えるほどの大谷石が放置?されたまま、朽ちるのを待っているのではないかと、思えてしまうほどであった。
 大谷石は普遍的な建材で、当たり前のように使われるものであると思っていたが、近年斜陽産業に転落している。しかし、これ程普及するにはただひとりの設計家の選択があったと知ってびっくりした。それによって町の産業形態や鉄道網までも変化していったのである。そればかりではなく、その後の建築設計に至っても、普遍的な様式を確立していくこととなった。何を隠そう旧帝国ホテル(1923年竣工)の設計者「フランク・ロイド・ライト」である。

■大谷石秘話
フランクロイドライトより千年以上前に、大谷石を装飾にもちいた人たちがいた。
 というよりも、ライトは少年時代から、マヤやインカ建築に憧れを持っていたという。そこで使われている装飾材も、そういうかどうかはわからないが大谷石かそれに似た凝灰岩の一種であろう。
 ライトについてはたくさんの神話が残されている。大谷石でも運命的な出会いと神聖化されている。だが、当初は、大谷地区とは別な凝灰岩で帝国ホテルを計画設計していたが、いかんせん埋蔵量が少なく、やむなく大谷石に落ち着いたという秘話もある。

■日本において最初に大谷石が建築?に用いられた例

 切石積横穴式石室に巨大な凝灰岩の一枚岩を使用している。金属製の機具で切断しているということだが、直線を出すのはある程度の技術が必要だ。逆にいうと、それだけ加工性が良いので選ばれたともいえる。思川流域の古墳、車塚古墳・兜塚古墳・愛宕塚古墳・丸塚古墳などに多く見られるという。

■城山村公会堂 
1926年建立、(大正15年) 旧城山村の村会議事堂などとして使われた。全面にある四本の柱に施されている幾何学的装飾はまさしくライトの影響を受けている。設計者はわからないが、旧栃木県教育会館にみられる4本の柱状装飾から推測すると宇都宮工業学校長の安美賀に近い人物か?

■渡辺家
宇都宮から大谷観音へ向かう道を少し行くと右側に風格ある石蔵が出現する。
趣のある左側の蔵は1907年、右側は1912年建立。もちろんライト以前の建築だから、「ライト式」はかけらもない。

■西中丸公民館
 大谷へいく道すがらの裏道で通りすがった公民館。歴史的とか、幾何学的装飾とかそんなものは何もない公民館だが、こんな所にも大谷石がいかされていることに驚く。

■聖ヨハネ教会 宇都宮市桜町
1933年完成(松が峰教会の1年後)。鐘は天明鋳物製。
 大谷石の色使いが秀逸だ。ランダムに配置しているようだが、全体が最初に見えていなければこうはいかないだろう。
 普通なら、ぶち抜きにして、ステンドグラスをはめ込むはずの場所を、あえて大谷石の陰影で処理している点も素晴らしい。「わびさび」の世界をそうすることによっていとも容易く表現できている。安藤忠雄の「光の教会」にも通じる日本的なマイナスの美が表れていると思える。足すことよりも、引くことによってこそその真価が表明されるのだという、考え方は西洋人にはあまり理解されない事なのかもしれない。旧礼拝堂は1912年完成。ライトが帝国ホテルの設計に着手した年でもある。

■グッケンハイム美術館
 まさかこれが、フランクロイドライトの作品だったとはというのが、私の感想である。実際に見て触れることが出来た建築物はこれだけかもしれない。この卓越した発想性、しかしながら、傾斜した非常に緩やかな螺旋階段はある意味居心地が悪く、平衡感覚の備わった人間にとっては、違和感があるかもしれない。
 フランクロイドライトは1959年4月9日に亡くなっている。私が産まれたのは、1959年の1月だから、少なくても3ヶ月は同じ時代を生きた、つまり同じ空気を吸った人と言っていい。

■耐震性はあるのか
 あるところでは、大谷石の免震性まで謳っているところさえある。それは、帝国ホテルが関東大震災にも耐え抜いたからという、神話から来ているのだと思うが、ちょっと違うのではないか。
 最近話題の構造計算問題に絡んで少し調べてみることにした。すると、恐ろしいことが分かってきた。建築設計には詳しくないのでなんともいえないし、そのことを深く追求する余裕もありませんが、酷くずさんで無謀とも思える設計だったということ。当時は現在のような耐震設計もなく「正解」がなかったのだからしかたがないということだが、「ヘドロに浮く耐震構造」など、存在しないという。
 それに、関東大震災では、数多くの建築物が倒壊したと思ってきた。事実、教科書などで紹介されている写真は焼け野原化した写真だ。がれきの中にいくつかの建物が残っているというもの。しかし、実際には帝国ホテルがあった地区の半数の重要建築物は全く無傷だったという。帝国ホテルはどうだったのか、実は、無傷どころか、かろうじて倒壊を免れた程度だったそうだ。
 芦屋にあってやはり大谷石を多用した同時代の迎賓館も、阪神大震災で損傷を受けている。その他にも、箱根の別荘などは、関東大震災で倒壊しているほど。

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こならの森211号

2008-07-25 | 201号~220号
       ■こならの森211号■2005.11発行
表紙 「岩舟町えんとつ 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「えんとつのある風景」………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

えんとつのある風景
■絵になったえんとつ

 編者は、何気なく道を離れて脇道へと時間の許す限りそれる、いわゆる「寄り道派」であるが、今回の寄り道はいつもと違っていた。
 はるか遠くに見えたレンガ造りのえんとつが、妙に懐かしく思えた。実際には、少し傾斜して倒壊寸前。写真で見たアフガニスタンの寺院に付属したミナレット(尖塔)のようにも思えた。用途は全く違うがレンガ造りであるので同じに見える。ミナレットとはとがったネギ坊主のような形で、内部は螺旋階段になっているという。
 円柱の他に四角形のものもあると言うから、見る限りは失礼ながら「えんとつ」のよう。
 その日の歩みをすすめるうち、今回の表紙にもあるような、それとは別な煙突のある風景に遭遇した。そこで唐突ではあったが、所有者を訪ね詳細を聞いてみることにした。この地区では古くから水田の水はけなどに使用される土管を焼いてきた。
 玄関に入り一番最初に目にしたのは、その煙突をふくむ母屋の風景を描いた絵だった。
 「いつも、東武線を利用していて目についた、いくつもの「えんとつ」を描きたいと、はるばる東京からやってきた画学生の水彩作品だという。
 ………そんな絵になる写真を撮れたらなと今回は企画した。

 表紙にある煙突は残念ながら現在は、まったく稼働していない。そればかりでなく、ガーディニングに使うからといって、年季の入った味のあるレンガを親戚等が持っていくままにしているという。まさに「内部崩壊状態」で地域では保存の意志もあるということだが、なかなか難しい点もあるという。記憶(現存)は仕方なくても、なんとか記録には残したい。そんな思いで、ことあるごとに日参して写真を撮っている。
 現実的には造りがしっかりしているので、何年とはいえないが、充分年代には耐えられると思っている。鉄骨の枠組みを組んでレンガの煙突を補強する構造になっていて、耐震補強も万全だからだ。

■ネームえんとつ

 佐野市田沼町の大串さんの「えんとつ」は直接取材が出来たわけではないが、向かいの雑貨店(同族だという)で、少し話を伺えた。なにやら歴史的なモニュメント、記念碑なので残しておきたいという主人の思いから今もそこにあるのだという。

■ロボットえんとつ

 次なるえんとつの取材に向かったわけでも、ねらって行ったわけでもない。新50号線まで、1キロほどの地点で思いがけず目にしたものが「ロケットえんとつ(こならの森呼称)」だった。土管を積み重ねた感じにも見えるが、これはこれで、いい味を出していると思う。なぜ、同じものを二つ並べたのか、現時点では分からない。煙道がふたつあったためだろうか。ロボットの足にも見える。
 たまたま、ご主人らしき人が自宅前にいたので話しかけてみることにする。
 「今じゃもう土管などは焼いてはおらんよ」
 「町では保存との考えもあるようなんだ………」
 「ここらでもだいぶ減ってしまった」
 農作業の合間の短い会話だったけれど、えんとつに対する愛着は、充分感じられた。ちょうど夕日がさしかかり、いい感じの写真が撮れた。
 突然話しかけたのに、屈託なく反応されたご主人の人柄がしのばれる。これは、最初に取材した方にも通じるが、ほんとうに気さくである。実際には、取材する方が、昨今の個人情報保護法案、はたまたオレ俺詐欺などである種緊張してしまって、対象者はかなり自己防衛しているのだろう、と後込みしているのとは全く対照的だ。
 それだからなのか、あれだけテレビや新聞で報道されているのもかかわらず、未だにそうした関連の事件が無くならないところをみると、人を疑うことをしないひとを狙った卑怯な詐欺は今後も減らないのだなと思う。逆に編者のように疑うことしか出来ない人ばかりになってしまったらと思うと複雑な心境だ。もちろん編者のは、「信じて疑え」ではあるが………
 個人的なことを申して誠に恐縮だが、私などは、メールはもとより電話での受け答えでも、相手方が確実な自己の責任所在を即答並びに証明できない限り速やかに回答拒否宣言を発令している(木楢森我電話受答条例第21条第1項)。
取材を終えて
 他にも、市内にはいろいろな形の味があるえんとつが存在している。また機会があったら取材してみたい。中には近代遺産的なものが発見できるかも知れない。
 佐野市も含めてこの地域の牧歌的な風情は今も昔も全く変わっていない。「風情」でいうところの「風」はとりとめもないが、「情」の部分では、少なくとも変わっていない。「えんとつ」が、趨勢をはなれたのちも健在であるように。

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こならの森210号

2008-07-24 | 201号~220号
       ■こならの森210号■2005.10発行
表紙 「唐沢山 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「秋のぷち旅」…………………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

プチ・プチ・トリップ

■秋のおすすめ「プチ旅」
 少しもの悲しいこの季節(だから)、少し、ちょっとその辺へ旅に出て見ましょう。
 観光地とか、観光案内には、全くしるされてはいない場所に、自分なりに興味を示す事は良くあります。(特にこならの森の編者は、顕著にそうです………)
でも、ふと疑問に思った地点に、思いもよらない、不思議な、そして面白い風景が表れたりします。今回、最初の出発点はそんなことからでした。いつもは仕事で、当たり前に行き過ぎるルートです。なにも変化などありません。それなのに、いつもは信号に引っかからないのにたまたま、引っかかってしまった、運命の交差点とでも申しましょうか、その地点で何気なく目にした水路の清流が目に焼き付きました。もちろん予定にはなかったので、いくぶんか行き過ぎました。でも、やはり気になってしまって、勇気を持って引き返してきました。そして、取材決行、限られた時間内、タイムリミットが決められている状況での取材となってしまいましたが、満足のいくものとなりました。人々の息吹が、誰もいない写真の中に表現できていたら合格でしょう。

■旅のはじまり………

 掘り割り(水路)にそって進んでいくと、おかしな水取り入れ口があった。入り口は新しいものであると思われる、大谷石造りでモダンである。でも一番気になるのは、水路の水を邸内に引き入れたとしてその後どうするのかということだ。実用性が全くないのであれば、取り入れ口を新設する時点で、面影や、威厳までを大谷石で再現したといえる。
 現在は多分、この地区のどの家も上水道が完備されていて、水路を頼る生活は皆無であろう。それにしても、水の綺麗なことには驚かされる。これは、この水の上流は湧き水か何かなのであろうと思いさらに好奇心をふくらませた。
 しかし、さらに駒を進めて集落を過ぎるとあろうことか、どこにでもある田園風景(田畑)が広がっていて、どこにも清流の水源地を発見することが出来なかった。それどころか、狐に包まれたようで、あの清流はどこから来ているのかと、謎に包まれる。
 佐野市でも、菊沢川で同じ事が見受けられる。幾分か都市部を通過して生活雑排水が多量になだれ込んでいるだろうに、その少し先まで行くと、驚くほど清らかだったりしている。
 これは、単に流れが急であるということに尽きることなのだろうか。
 良く分からないが、北半田地区の清流のその源流が思川だとするならば、合点がいく。
 最近では、思川の下流域に位置する小山市が飲料用水を「小山の水」として販売する計画をしているくらいだからだ。確証はないが、葛生周辺の石灰岩層を何万年もかけてくぐり抜けてきた湧水がもたらしているのであろう。

■少しだけ旅心

「岩崎」
 いつも通っている道なのに一度も足を踏み入れていない道というものがある。
 今回はそうした少し気になっていて場所に、行ってみることにした。
普段は通り過ぎる、三好小学校前の信号機を左にまがる。少し行くと趣のある曲がりくねった街道がある。その先に何かがありそうな期待感。
そんな時もつかの間………
ぷち旅は突然に終わる。

 今回の取材をしていて気が付いたことなのだがこのすぐ近くには、粟野の有名な双対道祖神がある。こならの森40号(1991・8発行)で特集したものだ。バブル崩壊以前の号で、こならの森にとっても一番充実していた頃の号でもあった。14年も前の取材だったためか、まったく記憶になかった。

■旅の神髄

日常から非日常へ

 なんだか「旅」ってその辺に「転がっているものみたい」って思っていただければ、この企画は大成功。そう思わないのであれば(ければ、その次の好奇心(旅心)は産まれ(てき)ませんからね。

■すきま旅行
 ぷち旅は必要なんです。いろいろ安易、割安に巡れますからね、でも核心ではないような、その空しさ、空間のすき間が、ぷち旅の真実かも知れません。この辺の先駆者は松尾芭蕉でしょうか、そして西行にまでたどり着くのかどうかは、秋の夜長の読書にゆだねましょう。読んでから「ぷち」か、「ぷち」してから読むのかは、個人の自由です。どちらにしても、夜長はこれから………本当に長いものなのです………


■ふたたび・栃木の柳川 
 あれ、水路のある町って佐野にもあるよね、それももっと柳川掘り割りに近いような………そうです、ちゃんと取材していますよ、栃木の柳川、水郷田島町。本当に最近いってみたのですが、いまだにどの場所も堀(水路?)がコンクリートブロックで覆われていなくてほっとしました。お目当ての場所も昔通りで何も変わっていません。まちの人の表情も同じでした。
 もっとメジャーになったらいいのにと思ってきたのですが、今は、(このまま覆い尽くされないのなら)そのままずっとつづいていって欲しいと思っています。

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こならの森209号

2008-07-23 | 201号~220号
       ■こならの森209号■2005.9発行
表紙 「龍岡城 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「もう一つの五稜郭」…………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】
日本の中心にある
もう一つの「五稜郭」に隠された謎
■日本に2つの五稜郭
 こならの森199号の特集「日本のへそ」の取材中にネット上で、であった臼田という地名、なにやら日本で一番海から遠い地点があるらしい。ということは翻って、日本の中心で「へそ」でもあるという。この辺は、こならの森本編を参照していただきたいが、その事実を調べる過程で、臼田町のホームページを参照すると、そこにもう一つの五稜郭(龍岡城)というものが目に入って一瞬驚いた。
 五稜郭といえば函館にしかないものだと思ってきたのに、ある種の感動に浸ったものであった。それだけならいいのだが、さらに調べていくとこの城を築城した人物は、佐野市とも少なからず関係があるということだった。
 というところで、今回の企画は、あながち単なる紀行文に終わることなく、佐野氏あるいは佐野と関連性が大いにあると思っていただけるとありがたい。

■佐野市との関連

 新佐野市には、日本のへそがあると先に書いたが、今回の企画も実はそれと少し関係がある。もちろん確証はないが、本州の五稜郭・龍岡城を築城した松平乗謨(大給亘)は、江戸時代にすでに日本のへそ(中心地)を知っていたのではないか、ということだ。
 また松平乗謨(大給亘)は、佐野常民とともに日本赤十字をつくっている。常民は佐野源左衛門常世の末裔で、常民の三男常羽は佐野市に唐沢子供会をつくっている。

■築城した人物

■築城したのは大給松平氏最後の藩主、松平乗謨(のりかた)。後に松平の姓を三河の先祖地名にちなんで大給と改め、乗謨も恒と改名している。
 信濃国と三河国に領地を持っていた三河奥殿藩の藩主だった松平乗謨は、幕末の動乱期の1863年に拠点を田野口(一万二千石)に移すことを決める。慶応元年(1865)には陸軍奉行となる。明治2年6月には龍岡藩(明治4年に廃藩)知事となる。

■松平乗謨と博愛社・日本赤十字

 元老院議官だった大給恒はすでに幕府の頃シーボルトなどから軍人救護会社のことを聞いており、これを実施したいと考えていた。
 佐野常民は「パリ大博覧会」と「ウィーン大博覧会」の2回にわたってヨーロッパに行っており赤十字活動についての知識をもって帰国。ヨーロッパの赤十字組織と同じものを作ろうと、大給恒と佐野常民の意見は一致し、早速計画の実行に移った。
 博愛社は1887年に日本赤十字社と名称を変更し、常民は初代日本赤十字社社長となった。

■築城の謎 

なぜ、本州に五稜郭を造ったのか。

 函館五稜郭の全ての工事が完了したのは1866年だが、稜郭での業務開始は1864年で、龍岡城五稜郭の着工と同じ年。完成時期も1年しか違わない1867年であることから、ほぼ同時期に計画が進められた星形稜郭といえる。
 藩主の松平乗謨は、「海外諸国より著しい軍備の立ち遅れに、国家存亡の危機を憂い」洋学、特に火砲・築城技術を熱心に学び、家臣にも積極的に奨励したという。
 1864年には五稜郭築城を開始するが完成前に明治維新を迎える。1867年竣工。洋学つまり蘭学を美濃郡上藩士山脇東太郎に師事して学んでいることから、オランダ・アムステルダムの要塞都市「ナールデン(六稜郭)」も知っていたと思われる。


■堀を飛び越えられるのか?

 走り幅跳びの世界記録は8メートル95、堀の最大幅は9メートル弱で、平均は7メートル。走り幅跳びの詳しいルールは分からないが、足から足(かかと)までの距離であるととすると、単純に考えて堀を超えていることにならないか? 着地時に水平になり、のけぞるようにして塀にしがみつくことは可能だろう、実戦上はクリアーできる距離である。
 堀は簡単に飛び越えられてしまうし、第一五稜郭のうちの二稜郭には堀が回っていない。砲台も一カ所だけ。単なる最新城郭の実験場か、訓練場であったといわれる。

■龍岡城

 本州の五稜郭の事を知ったのは1年も前のことだったが、なかなか行く機会に恵まれなかった。今回は、なんとか都合をつけて日帰り、殆ど半日の予定でむかってみた。函館の五稜郭の半分の大きさということで、さほど大きくはないと思っていたが実際にあるって一周しても1時間とかからない。散歩にはもってこいの距離だろう。稜郭というよりも公園といった感じである。現在は小学校になっており校庭ではソフトボール大会がおこなわれていた。お台所が唯一現存する建物として今に残る。大手門付近は、堀の幅もあり立派な造りだが先へ進むうちに、水堀も消え、石垣も低くなって段差が無くなる。「作りかけ」ということが良く分かる状態だ。もちろんそこまで、正規の散策路が回っているわけではない。道無き道といったところを行く。小学校の校舎が見え始めるあたりから、また堀が現れる。堀には大きな鯉がゆっくり泳いでいた。
 地形的には、大手門から先は下り坂になっており、堀を延長して回すためには盛り土をしなければいけなくなり、技術的に難しく大工事になりそうだ。はじめから堀は3方向だけの予定だったのかも知れない。そのために堀がない面に高い石垣を築き砲台を置いたのかも知れない。
 大手門近くに、であいの館(記念館?)という建物があるくらいであたりはひっそりとしている。平日は授業がおこなわれている、普通の小学校だ。


■謎に迫る

 松平乗謨は、なぜ三河から急きょ佐久へ御領変えをおこなったのか、なんだか日本のへそをつくりたかったのではないだろうか。幕末には若年寄にまで昇進しているのだから伊能忠敬がつくった日本地図は目にしている?はずなので、その全図から推測して日本のへそを探し当てていたのではないだろうか、そのためにその地へ移ったとも考えられないか。
 これは推測だが、実際に、日本のへそ、海から一番遠い地点と目されるところから龍岡城まで(こならの森が2万5千分の一地図から推定した距離)は約6・8キロ。それも龍岡城の位置からほぼ東にである。日本海と太平洋を結ぶ距離でいえばその中間であり誤差は殆どないといっていいくらいだろう。
 実際に国土地理院が計算した地点は標高1200メートル、山城としても、あまりに標高が高すぎて幕府の認可も下りないと踏んだのか。
 星形城郭、オランダの本家本元は六稜郭だが、函館とここは五稜郭で、一般に言われる「★」マークと同じもの。ランドマークとしても最高の形をしている。日本のへそに最もふさわしい形だといっていい。
 これは蛇足だが、大給恒は最後に文化勲章を除いた全ての勲章の制作にあたっている。ここでも、また新しい「星」をつくりたかったのではないだろうか。


■本家五稜郭

 歴史で一番スリリングなのは、天下分け目の戦いが多くあった戦国時代と並んで明治維新だと思う人は多いだろう。そして明治政府との最後の戦いが五稜郭を中心とした函館戦争と呼ばれるもので締めくくられている。
 確かに、臼田の五稜郭は堀が未完成ではあるが、本家本元の五稜郭も基幹となる構造は成立しているが、本来目指していた要塞としての多重防護機能は備わっていない。稜堡と呼ばれる城郭本体から張り出した部分が一つしかないからだ。その意味では、未完とも言える。それよりも、そこまで完璧にする必要性が途中で無くなってしまったのだから、仕方がないのかも知れない。
 榎本武揚はオランダ留学の経験があり、函館五稜郭はここをモデルにしているともいわれる。

■五稜郭

 本家本元の五稜郭を調べていくと、「四稜郭」という文字が目に入った。誤字だろうと思ったが実際に、四稜郭は存在していた。そして名称こそ「四稜郭」としていないが、戸切地(へきりち)陣屋というものが先に存在している。四稜郭よりも立派な作りで、五稜郭の一辺を取り去り一つだけを突出した亀のような形。
 四稜郭(設計:陸軍奉行大鳥啓介)は五稜郭の北方の守りとして1869年に榎本武揚が急きょ築造したものだそうだが、半日で落城したということだ。
 その他に少なくとも北海道には、弁天台場と権現台場という稜郭があったらしい。また、兵庫県には、勝海舟の設計によるといわれる星形の砲台もある。

■日本のへそ
 帰り道に、海から一番遠い地点という場所がある。実際には、そこから徒歩で1時間ほど林道を行ったところにあるそうだ。その地点到達者には、自己申告で証明書が貰えるらしい。

■もう一つの佐野市との関連

 西洋式の城を造ろうとしたそもそもの学問は蘭学(オランダ語で書かれた西洋の学問)である。
 その蘭学を日本に伝えるきっかけとなった出来事のオランダ船、リーフデ号の船尾に飾られたエラスムス像が佐野市にあった。まさしくこれは、オランダの稜郭要塞都市ナールデン(六稜郭)から始まる、今回の企画「本州の五稜郭」への導入部であったとさえ思えてしまう。(ちなみにリーフデ[De Liefde]とはオランダ語で「愛」という意味)。
 エラスムス像はオランダでも最も古いと言われる木彫りの彫刻で、発見当時(1920年)オランダは破格の値段で買い戻そうとしたという。また読売新聞の記事によれば、船尾以外に船主にも像があったという。裸の子供の像とあるが、これは天使の事ではないだろうか。
 それにしてもエラスムス像どうして佐野にあったのかは究明されておらず謎は深い。なかなか興味が尽きない話題だ。こならの森でもその点を調査していきたいと思っている。



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こならの森208号

2008-07-22 | 201号~220号
       ■こならの森208号■2005.8発行
表紙 「巨石ペトログラフ 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「古代巨石文化」………………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

ペトログラフ・縄文天文台・ストーンサークル
古代文明に迫る

■金山巨石群
 ちょっとした、調べものをしていて深みや横道に入ってしまうということは往々にしてある。それも全く別な分野から入ったのに気がつくとおよそ関連性が見いだせない方向に大きく展開している。今回の企画もそんなことから始まった。
 概略は岐阜新聞の記事によれば、『………岩の配列や割れ目、断面の角度、方角などを本格的に測量するうち、「夏至と冬至の夕日が差し込む二本の線が線刻された巨岩」を発見した。
 さらに「この地点から東隣の二岩の間から夏至の日の出が観測でき」「この巨岩の断面は真北を向き、北隣の巨岩のへりに北極星が見える」「その巨岩の断面に沿って日没の空を見るとベガかカペラが見える」ことなどを突き止めた。(1998年8月14日付朝刊県内版より)』とある。
 また、毎日新聞の記事によると、『金山巨石群は99年6月から調査が行われ、2001年には調査委が「巨石群全体が太陽の方位と高度を捕らえる配列・構造になっており、春分、夏至など1年の節目の太陽の動きに符合する天体観測遺跡だった」と発表して一躍注目を集めた。
 巨石群は高さ幅約5~10メートルある4個の巨石で構成し、内部は洞穴になっている。巨石の一つは40度の角度で南の空に突き出るような形をし、約40メートル東には同じような大きさの十数個の石が点在する。」
 (詳しくはホームページを「金山巨石群」か「金山巨石群と太陽暦」で検索してください)。

 世紀の大発見?、あのエジプト考古学者吉村作治氏も現地を訪れているという。そのわりには、いまいち新聞報道などが少ないのではないだろうか。今後に注目だが、この地区にも天然記念物にしていされている名草の巨石群があると思いインターネットで検索してみて驚いた。あまりにも似かよっている点が多いからだ。そして、栃木県のミステリーという本では、ペトログラフとして名草の巨石群の記事が出ている。
 
■取材決行
 あらたなる発見があるかも知れない。そう思って早速取材に向かった。ルート的には、飛駒方面から回り込むと、巨石群のすぐ上にある駐車場出に直接出られるので、田沼町経由とした。そして、途中にある唐沢山の鏡岩も参考のために取材する。最初の取材では通り一遍のもので、実際には鏡岩を特定できなかったため後日、再取材となった。

■鏡岩
 鏡岩、市内には塩坂峠近くの神社(寺久保町の熊野神社境内)にも同じような岩があるということだが、正面から見るのと、反対側に回ってみてみるのとでは様子が全く違う。鏡岩といわれる面は、平らな部分が多い。これは自然の造形なのだろうけれど、光を反射しそうな部分だけは明らかに造形が他とは違っている。どう考えても人間の手が加えられているようにしか見えない。それから、失礼ながら、鏡岩に上ってみると、頂上部分は平らになっている。真っ平らといってもいいくらいだ。これは、察するに自然石を加工した砦の一種だと考えると分かりやすい。敵が攻めてくる方向からみると、自然の岩にしか見えないが、反対側に回り込むとうまくできた陣地である。岩に寄りかかって弓矢か、はたまた鉄砲を構えるには好都合に出来ている。弓矢なら予備の矢を多量に置いておくことが出来る。傾斜角度45度から50度の岩は、寄りかかるには好都合だ。寝そべるほどではないが、長時間待機するにはもってこいなのかも知れない。
 岩の向きは真南より少しずれていて南西の方角。断面の角度がほぼ45度というのがどうにも自然石とは思えない一番の理由でもある。それから、少し西側には、まっぷたつに割ったような岩があり、西側の方向へ指し示すかのように伸びている。その先には、唐沢七岩のひとつで「胎内くぐり」と呼ばれているものであろう、巨石と巨石が折り重なったところがある。天文台との関連は不明だが、伝説の鏡岩が西日を反射したという記述などから推測するに、「西」というキーワードがどうしても引っかかる。光の反射では、入射角と反射角は同じ角度なのだから、西日が当たってまぶしく光ってみえる方角は季節にもよるが夏の場合岩舟方面となる。逆に、戸奈良方面から見えたとしたら日の出の太陽光ということになる。
 また冬場だったとしたら、角度からいって朝日も夕日もこの岩には当たらない。これは実際に実験をしたわけではないので何とも言えない。
 冬至や夏至に、鏡岩からみてどの位置に日が沈むのか、また、夜には鏡岩ごしにどんな天体が見えるのかなど興味は尽きない。

■名草の巨石群へ
 名草の巨石群は、その昔に一度か二度来たことがあったが、その時の様子はうっすらとしか覚えていない。今思っても弁慶の岩くらいしか記憶にないし、このあたりを巨石群というのだろうというくらいにしか思っていなかった。
 実際には、さらに奥の院ともいわれる群があり、天然記念物にも指定されている。
 巨石群というわりには、これだけと思いきや、その周辺にも巨石が点在し総じて、群といっているとのことだった。関東ふれあいの道の看板にもそれらしき点在を示す痕跡がある。
 確かに、道すがらにも数個であるが、巨石や「中石」があった。

■ペトログラフ
 一番気になっていたのは、ペトログラフだったが、初めのうちは巨石に圧倒されたのかすぐには見つけだすことが出来なかった。それもそのはず一般道から見ていったのでは全体が見えない、岩の反対側ともいう部分に刻まれているからだ。前出『栃木県のミステリー』という本で最初に見たときは、岩を二つに割るときの刻みだろうと、簡単にかたづけていた。でも実際に目の当たりにすると、想像よりもずいぶん大きかった。どこからか運んできたというものではなさそうである。四角形の刻みが10個並列し、それより少し小さい長方形の刻みが4つほどある。古来の日本庭園などの造形でよく使われる数字は奇数である。7・5・3、全部足すと15。でも10と4はどちらも偶数で足しても14、これまた偶数だ。これを仮に人の両手の指の数と、両手両足の数と思えば合点がいくのだろうか。
 それから、古代の道が現代の道と一致するのかは分からないが、一般的に見てすぐに分かる所にペトログラフが刻まれていないことを見ると、これ見よがしのものではなさそう、つまりだれかのいたずらではないのであろうと思われる。
 また、その上部にある丸い刻みは、岩の方向からして太陽を意味するともとれる。

■金山遺跡
 金山遺跡の神殿のある巨石群一帯も北側の斜面ではなく南向きである。名草の巨石群でもそうである。ただ、真南というわけではなさそうである。どの地点も鬱蒼と樹木が生い茂っているので、太陽の位置ははっきりしないが、山に隠れて太陽光線がまったく差し込まないという事はない。
 厳島神社下の巨石内にある胎内くぐりといわれるところに入ってみると、岐阜の巨石にもあるように内部から天空が見える所がある。取材班は午後の2時位に現地に立ったのだが、この時点では日の光がここに差し込んでくる事はなかった。その時期がいつかは分からないが必ずあるはずだ。
それはいつなのか、そして何時くらいであるのだろうか。
 岐阜金山の巨石群にある岩の角度や大きさ配列など似通っている点も多いので、今後の調査が待たれる。

 それにしても、金山遺跡の線刻模様が現在でも太陽の運行と一致するということは、付近では大地震が発生していないということになる。少なくても震源地や断層はないのだろう。最近の調査で「線刻」された時代が、紀元前500年頃と言われている。佐野地区周辺は過去何万年も大地震が発生していないといわれるから、巨石群も地震によって移動したと言うことはないであろう。この点でも貴重性があると思う。

 金山遺跡の発見は一人のアマチュア研究家の長期に渡る執念とも思える調査結果によるのです。そうしたことがなかったら発見にはいたらなかったでしょう。日本の超古代文明というのは、話題性としてはおもしろいものという捉え方が一般かも知れません。教科書ではいっさい触れられていない世界です。つい最近まで日本には石器文化は存在しないといわれ、縄文人は、原人程度の野蛮人という常識がありました。もちろん今は根底から覆されようとしています。
 
 名草の巨石群は山奥だったからこそ現代にまで残されてきた、そうではなかったならば、足摺岬のストーンサークル(世界最大)のように、破壊されていたことでしょう。山奥の鬱蒼とした神秘、神々しさ、また山岳信仰などに守られて来たともいえます。山岳地帯ですので、早朝の日の出を確認する事は出来ませんし、冬になれば、正午近辺の数時間しか太陽の観測チャンスはありません。そのため金山遺跡では、山の中腹に別な遺跡が発見されています。現時点では、それが名草地区のどこなのか発見されてはいませんが、調査が進めばいずれ発見されることと思います。もちろんそれには大前提があります………まだ現在は仮定の段階、いや残念ながらそれ以下かも知れません。

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こならの森207号

2008-07-21 | 201号~220号
       ■こならの森207号■2005.7発行
表紙 「 タウンウオッチング」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「街のいいとこ再発見」………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

タウンウオッチング
街のいいとこ再発見

 タウンウオッチングは、参加者の誰かが言ったとおり、「そこに住んでいる人が一番感動する」そんな内面的、再発見の出来事でもある。

 第1回目となる7月3日は予定の絡みから最後の日程である佐野厄除け大師でどうにか合流できた程度だったが、7月10日は最初から参加することが出来た。前日の予報降水確率70%を裏切って、午後より晴天となる。逆に日差しがまして、暑くなり散策には少々の支障が伴うほど。それにも負けず、散策隊は2チームに別れ市内に散っていった。
 少し欲張って、2ルートを掛け持つという具合に。要所要所を的確にと考えてのことだったが、二兎を追うもの………になってしまったかも知れない。

■出 発
 午後1時半集合。簡単なルートの説明などの後、2時少し前に商工会議所前をスタート。日差しが強い、冷房の効いた館内から外へでるとムッとする暑さが迫ってきた。配布された帽子が本当に役に立った。 
 案内役は、安蘇史談会の会長京谷博次さん(東ルート)と副会長の黒田哲哉さん(西ルート)が担当。
 最初は西ルート隊十数人とともに、小島邸・太田邸を見学。そのあと、別れて金仲通りを東に早歩きで影沢医院方面へ向かう。少しすると東ルート隊が佐野教会前に集まっているのを発見。説明を聞いた後で、西ルート隊の予定地点を先回りすべく商工会議所駐車場までもどる。 天明紡績付近に車を置いて、柳川医院(堀田佐野蕃の門)などの写真を撮影(シャッターを切るより先に息が切れる)しながら小径をぬけへて大祝通り(佐野行田線)へ。 

■天明紡績
 佐野市駅前の道祖神社で西ルート隊と再び合流。堀田佐野蕃の門、天明紡績等で説明をうける。現在の天明紡績は昔、秋田輸出織物株式会社といった。その名の通り佐野の縮は海外にまで輸出されていたことに驚く。
 佐野は「繊維のまち」と言われてもあまり実感が無かったが実際にその事務所や工場跡、現存する建物などを見ていくと立体的に実感できた。
 その後は佐野厄除大師へ向かうルートなので、再度東ルート隊と合流すべく平和通り方面へ車で向かった。
 ここから先は終着点まで東ルート隊について取材していく。

■平和通り
 平和通りや平和記念碑という文字を最初に見たときは、いったいどういう意味があるのかと不思議がったが、第一次世界大戦が終わったという記念碑だと聞かされて納得した。

■大正通り
 日程も終盤に近づく。いくら参加者全員がクールビズなかっこうをしていてもここまでくると暑さも身にしみる。シャツの半分は汗まみれだ。
 大正通りを歩くが、かっての佐野駅周辺はいたるところが「大正通り」だったといってもいいくらい、その面影を今に良く伝えている。思いの外賑わいもある。

■佐野駅
 すっかり様変わりしてしまった。本当に選ばれるとは思ってもいなかったが、こならの森で「関東の駅100選候補・佐野駅」などという企画を組んでいた頃が懐かしく思い起こされた。

■ギオン通り
 芸者通りともいわれるほど、当時はにぎわっていたそうである。なにしろ佐野縮は全国シェアの7~8割りを誇っていた時があったのだから………

■佐野町道路元標
 西ルート隊も少したってから道路元標を見学するために旧50号線に姿を現した。
 道路元標については、こならの森202号を参照してください。
 猛暑の中ながらも予定は順調に進み午後4時頃には、両ルート隊とももとの会場に到着。
 おつかれさまでした。

■参加者の感想
 参加者の感想を少し拾ってみよう。
「佐野の知らないところがいっぱいある」
「佐野の町をこんなに歩ったのは初めて、いい経験でした。」
「佐野に住んでいながら歩く機会が無かった」
「昔からあるいい感じの建物が一杯残っていて驚いた。」
「自動車で通過してしまう所も、じっくり見ることができた。」
「今まで通ることの無かった道を通ることが出来た。」

 こうした特に若い人の意見は貴重な財産になっていくと思う。街が本来持っているもの(財産)にも匹敵するであろう。


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こならの森206号

2008-07-20 | 201号~220号
       ■こならの森206号■2005.6発行
表紙 「タチアオイ 」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■

としこの巻頭詩………………………3
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集「大きい町、小さい村」………6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
 [映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
 イベント情報/協賛店マップ

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【本文抜粋記事】

大きい町小さい村

大きい町、小さい村

 ある時、行田方面へ行こうとしたのに、どうやら熊谷方面に向かっていると気がついたとき、通りかかったのがこの町だった。後で、地図で調べたら南河原村と言うのだそうだ。近くには北河原という地名もある。だいぶ小さな村だと思った。しばらくして、また気になった。
 地図で見ると本当に小さい。もしかしたら、関東地区で一番小さな村かも? そこでホームページで調べてみることにした。でもどうやら合併協議会が立ちあがっていて、行田市と一緒になるらしい。小さな村も消えゆく運命か。
 地図を見ると少しいびつな左を向いたワニ(行田市)の下あごにあたるのが、南河原村だ。その歴史を見て驚いたのは、「明治22年の町村制施行により南河原村、犬塚村、馬見塚村、中江袋村の4村」が合併して今の南河原村ができたとある。現在でさえ5.82キロ平米という面積(ちなみに旧佐野市は84.37キロ平米、栃木県でも一番小さい旧?国分寺町が20.8キロ平米である)。犬塚村、馬見塚村、中江袋村というのはいったいどのくらいの面積だったのか? 現在のどの地区なのか興味は尽きない。失礼な言い方になってしまうのかもしれないが、この地名は、横溝正史のミステリー(八墓村など)に出てきても不思議ではないくらいだ。
 面積が小さいといっても、どのくらい小さいのか統計を調べていくと、群馬県に「新町(3.74キロ平米)」と言うところを発見。さらに富山県に「船橋村(3.47キロ平米)」岐阜県「墨俣町(3.39キロ平米)」同じく兼山町(2.61キロ平米)。この辺が限界だろうと思うとありました、高知県赤岡町の『1.64キロ平米』。ホームページには、県下で一番小さな町とあるが、私が調べたところでは日本一面積が小さい。高知湾に面しているので、埋め立てをすれば面積を増やすこともできるし、波が陸地を洗い流すか、温暖化で海面が上昇すれせば無くなってしまう?ツバル(太平洋に浮かぶ南の島)かよ、なんてことも想像できる。
 一番面積が小さい町村は「町」ではなく「村」だろう? そこでまた調査開始。三重県に鵜殿村というのがありました。1987年の調査では、3.11キロ平米だったのが、ホームページの最新の情報では2.88キロ平米になっていた。この村も、熊野灘に面していて境界には熊野川が流れている。その辺の関係で、面積が0.23失われたのだろうか。

 ここでデータを少し整理すると、最小町村のベスト3は………
1 高知県赤岡町(1.64キロ平米)。
2 岐阜県兼山町(2.61キロ平米)。
3 三重県鵜殿村(2.88キロ平米)。


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