実は私小丸はオークションをやっていたりします。別に今会えて語るほどではないのですが、ヤフーオークションがまだ無料な頃からはじめていますし、ビッダーズやWANTED、livedoorオークションのIDを持っているほどオークションにはまっています。安く物が買えるし、いらないものも出品してお金になりますから、こんないいものはありません。
 そんな僕が最近思うことがあります。オークション利用者のガラが悪くなってきている。「早く金払えオラ!」と脅す出品者や、金も払わずに早くモノを遅れとうるさい落札者。果てには、脅迫メールを送ってきて、法廷で争うぞ!とのたまう者まで…。でもそういう奴に限って、こちらが強く出ると引き始める。正直「ウザイ」奴がいっぱいです。これはインターネットの匿名性ならではの現象だと思います。相手の顔も何もわからない相手と取引するわけですから、なんとなく強気に出ちゃうのはあたりまえといったらあたりまえの話です。
 そんなことから、周りの悪質な落札者や出品者を反面教師にしながら、精進を重ねる毎日です。

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 今日は、以前お世話になったFM局のジュビロジェフ戦のサッカー中継に連れて行ってもらうことになりました。やっぱり、人の縁と言うのは大切です。バイト代は出ないけど飯代は出ると言うことで、喜んで手伝いと言う名目で中継に連れて行ってもらいました。ただでJリーグの試合を、しかもプロの実況と解説つきで観られるわけですから、役得と言う奴です。
 そんな中、信じられないことが起こりました。試合は前半を終えてハーフタイムに差し掛かったところ、試合もO-Oと膠着したところのほっと一息と言う時間帯でした。緊張の糸が切れた僕はトイレへと向かっていました。周りは報道の人たちもいて何やらポルトガル語も聞こえてきたりします。そういえば今日のこの試合はジーコが代表選考の視察にきているはず。どこかで観戦しているんだろうなぁと思いながらトイレに入ると、何やら見慣れた後姿が…。「ジーコだぁっ」、一瞬サインを求めようか握手してもらおうかオシッコしてる姿を携帯のデジカメに収めようかといろいろなことが頭をよぎりましたが、やっぱり相手もプライベートだし、と平常心を装って、隣でオシッコをしました。僕の周りだけで緊迫した空気が漂った十数秒ジーコは何事もなく(あたりまえか)事を終え、しっかりと手を洗って出ていきました。僕の中だけで、独特の時間がすぎました。
 よく考えると、ジーコにサインしてもらった人や、握手してもらった人は日本にも星の数ほどいるはずですが、二人きりでのトイレで便器を隣にした人は、そんなにもいないだろうなぁと、何か勝ち誇った気分になってしました。
 要するに今日のブログでいいたいことは「どうだ、すごいだろう!」って事です。
 まぁ何はなくとも頑張れジーコジャパン!!

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 先日見たテレビ番組で明石家さんまさんが出演されている番組を見ていると、テレビの前で番組を見ているであろう人たちを「お茶の間」と表現していました。最近、テレビは一家に一台ではなく一部屋に一台の時代になりました。そんな中最近ではテレビ機能付き携帯電話や「ワンセグメント放送」など、一部屋に一台どころか一人一台の時代へと突入している真っ最中なのです。そんな中さんまさんから発せられた「お茶の間」という言葉が妙に新鮮だったのです。
 テレビはお茶の間で見る前には街頭テレビが主流だったそうです。と言うのも私はまだ存在しない時代戦後復興で力道山が西洋人レスラーに必殺空手チョップをぶち込んでいた時代です。この時代は街頭テレビにわれ先にと群がり、様々な情報を共有していたオープンなテレビの見方をしていた時代でした。
 そして高度経済成長期、テレビは家電の三種の神器のひとつとして、一家に一台と言う時代がありました。観音開きをあけてみるとモノクロームのブラウン管が鎮座し、たまに「カラー対応」なんて字幕が出てきてはカラーの放送をイメージしながらちゃぶ台を囲んでいた時代です。
 その後テレビはカラー化、小型化を大画面軽量化を経て現在に至っています。テレビの見方もそれに伴って様々に変化してきました。まだ僕の小さい頃は「チャンネル権」なる言葉があり、時間帯によって誰の好きな番組を見てよいか暗黙の了解があったりしました。夏になりプロ野球放送が始まると必然的にお父さんのチャンネル件が増えたり、夕方になると子供たちはアニメを見るためにわざわざ遊びを終えてかえってくる…。そんな時代も今はもう昔。好きな番組は、コンピュータが電子番組表をチェックして勝手に録画。休みの日にたまった映像を一気に見たり。便利になったものです。ただ、さびしいのはテレビから発せられる情報の共有がだんだんと難しくなってきました。小学生が学校に行って朝一番「昨日○○観た?」なんて会話も少なくなってゆくことでしょう。
 そんな中さんまさんの言う「お茶の間」と言う言葉が、だんだんと一人一台へと変化しつづけるテレビの見方に対する挑戦状のようなキーワードに聞こえてくるのです。

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 先日ホームページのコンテンツの作成のために、とあるピアノ工房に行ってきました。個人で経営するピアノ工房で職人さんも数人の小規模な工房だったのですが、取材をしたり話を聞いているうちにいろいろ感じることがありました。ピアノという楽器の歴史から、その造りや、どの部品をどう変えると、どんな風に音が変化するのか。そして仕事でのこだわりや、どんな苦労をしてきたか・・・。
 話を聞いていて、職人とは斯くあるべきだと思いました。
 いままで僕の短い人生の、少ない経験からすると、仕事のできる人間は、どんな仕事をしてきたか、これからどんな仕事をしていきたいかということを語りたがります。で、仕事のできない奴はどういうかというと、いかに儲けたか、どれくらい稼いだか、年収や月給はいくらだという話をしたがります。僕はなるべく前者の話に耳を傾け、後者の話は適当に聞き流すようにしています。
 やはり、仕事というのは「どれだけ稼いだか」よりも「どんな仕事をしたか」ということのほうが重要だと思います。とかく私もお金儲けの話は大好きですが、やはりそんなことではいけないなぁと感じたわけです。
 一生懸命仕事をしていれば、いつかきっとそれにお金に反映されるものだ!
 とあるピアノ工房の片隅で「職人の技」を見てそんなことを感じたわけです。

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 前回Winnyの功罪について少し述べましたが、Winnyによって犯された著作権というものについて考えてみようと思います。
 結論から言ってしまうと著作権や知的財産の所有という考えは、いわゆる「思想」や社会の「仕組み」みたいなもので、「資本主義」とか「共産主義」みたいな考え方と同じだと僕は思います。で、知的財産の所有というのはとても「資本主義的」な考えに基づいて作られたものだと思います。優れた作品を作った人にはそれに相応の対価が与えられて当然だという考えだからです。現に共産主義国では知的財産所有という考えはあまり見られません。たとえば共産主義国の典型で、今はなき旧ソビエト連邦で生み出された、ゲーム、「テトリス」は世界中で様々なコピーゲームが発売され、その後も落ちモノゲームとして多種な進化をし、未だにいろいろなゲームでそのアイデアが使われています。しかしながら、テトリスの考案者、アレクセイ=パジトノフ氏にはほとんど対価は払われず、膨大な利益が某ゲーム会社にもたらされたのは有名な話です。
 また、DVDやコンピューターソフトの世界的なコピー製造国、世界のコピー大国といわれている中国もまた「共産主義」国で、やはり「知的所有権」という考え方が未だ浸透していない事が「コピー大国」として認知されている原因なのかもしれません。
 ただ、今、著作権や知的所有権について世界的に考え直さなければいけない転換期にきています。それはコンピュータとインターネットの普及にあります。いろいろな映像や音声や文字情報が世界中で共有できるようになってきたのです。検索エンジンにほしい情報を入力し、リンクをたどっていけばたいていのほしい情報は手に入るようになりました。そして「2ちゃんねる」のような掲示板の普及。わからないことを掲示板に書き込めばすぐにどこかの誰かが、ほしい情報を教えてくれる。
 そんな中で知的所有権というものの考え方に疑問を投げかける事件がありました。「2ちゃんねる」のマスコットキャラクターとなっていた「のまねこ」が某レコード会社のプロモーションで勝手に使われ勝手に商標登録までされてしまったのです。当然ネット内で猛反発を喰らい某レコード会社の謀略は阻止されたようですが、これは社会に大きな問題を投げかけたのです。それは著作権を主張するレコード会社やソフト会社がコピーして莫大な利益を得ているというやり方です。たとえば現在CDの売上が年々減っていると、各レコード会社はパソコンで音楽を扱うことに対して非常に懸念を抱いているようですが、CD売上の減少の主な原因はそこではないのです。今の流行歌を聞いてみればわかりますが、ほとんどがどこか聞いたような曲ばかりで小林亜星さんの言葉を借りていうところの「パクリ」みたいなものばっかりわざわざ買ってまで聴こうと思うCD自体がほとんどないのです。音楽の世界にも創って(作って?)は消費を繰り返す大量生産時代になってしまったのです。(これは、曲の作り方に問題があるのですが、またそれは別の機会にお話しましょう)とにかく、お金まで払ってほしい情報がほとんど作られていないのが今の現状なのです。そういう意味では、現在コンピュータの世界で提案されている「オープンソース」という考え方は非常に共感できます。(これもまた機会があったらこのブログで取り上げようと思います)
 CDショップに行ったら少し考えてください。3000円で売られている某設け主義のレコード会社のCDと、500円で売られているベートーベンやモーツァルトといった作曲家が創った曲が収録されているCDとどちら、に「知的価値」が秘められているのか・・・



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 最近Winnyの問題がしょっちゅう取り上げられています。随分前から、WinMX、そしてWinnyを使いつづけている僕としては「今ごろ遅いよ」というのが見解です。ただ、Winnyはいまやウィルスみたいな厄介モノみたいな扱いを受けていますが、インターネット上の大発明であることは間違いありません。
 「Winnyが大発明?」と思う方もいるかもしれませんが、Winnyには無限の可能性があると思います。たとえば自分で作曲した音楽をたくさんの人に聞いてもらいたかったり、自主制作映画を公開したり、そんな場合にWinnyのフォルダに登録しておけば、Winnyをインストールしている世界中のパソコンでダウンロードして聞いたり見たりできるのです。自分の作品を発表する場に飢えているアマチュアアーティストにとっては、貴重な発表の場となった可能性があります。
 しかしながら、多くのユーザーは使い方を間違えました。高額パソコンソフトや、市販音楽MP3ファイル、違法ムービーファイルがアップロードされWinnyは違法ファイルの巣窟になってしまったのです。挙句の果てに、開発者が逮捕され、機密情報がアップされ、マスコミに取り上げられるまでになったわけです。が、僕は法律家ではないのでなんともいえませんが、僕個人の見解としてはWinny自体に違法性は無いと思います。ただ、ユーザーの使い方が悪かった。ユーザーのせいでネットワークの大発明を悪者にしてしまったのだと思います。

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 どこかのスポーツ番組でメジャーリーグマリナーズ、WBC日本代表でもあったイチローさんのインタビューをやっていました。WBCのイチローといえば、オリックスやメジャーでは「クール」が売りだったはずなのに、やたらWBCを熱く語り、プレーも熱かったというイメージが残りました。インタビュアーが「いったいどこが変わったのですか?」とたずねたところ、イチローは変わったというよりも、もともと内に秘めたものが出てきただけで変わることよりも変わらないことのほうが難しい、と言うようなコメントを返していました。昔イチローの宣伝で「変わらなきゃ」というキャッチフレーズのテレビCMが流れていましたが、まったく逆のことを言っているなぁと感じたわけです。
 平家物語の「祇園精舎の金の音諸行無常の響きあり」とはよく言ったもので、人間常に変わっています。科学的にいうと人間は常に代謝しており、細胞分裂を繰り返し、古くなった細胞は死んで老廃物となって出てゆき食物を食べてまたその栄養がすべての細胞に行き渡ることを繰り返し、数ヶ月たつうちにすべての細胞が入れ替わっているそうです。つまり、数ヵ月後の自分を構成する分子は、まったく別の分子になるということです。
 「変わらないことのほうが難しい」イチローが放ったこの言葉にどれだけ深い意味がこめられているのかわかりませんが、あの、世界のイチローの言葉だけになぜか哲学性や神秘性が伝わってくるようでなりません。

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