ロシアの北都 サンクトペテルブルク紀行

2005年秋から留学する、ロシアのサンクトペテルブルク(旧レニングラード)での毎日を記します。

西方見聞録12 蛮行の跡-パリ14/04-

2006-05-16 23:26:37 | Weblog
【写真:暴動で画面が破壊された現金自動引き出し装置。ソルボンヌ大学の近くにて(14/04)】 
旅程
《14/04/06 パリ(続き)》

 Iはよく、「ラテンの連中は体温が1度くらい高いんだぜ。」とか、「フランスは実は途上国だ。」などと言って、フランスの人々やフランス社会を冷めた目で批判する。よく自分の留学国にそんなことを言ったものだなと私は意外だったが、今日はIの言うことが良く分かった気がした。

 マリーアントワネットが拘束されていたという牢獄やサンシャペー教会などを見学した後、Iとともにソルボンヌ大学近くの路上を歩いていると、画面が破壊された現金自動引き出し装置を発見(写真参照)。世界中でニュースになった若者らの暴動事件でこの装置も被害にあったそうだ。こんな物まで破壊するとは、私はあまりの蛮行ぶりに言葉を失ったのだが、Iは違った。
 この装置の上には"Retrait"という文字が書かれた看板があり、その下に紫のペンで"du CPE"と落書きがあった。私には何の事やらさっぱり分からなかったが、Iの解説によると、"Retrait"は引き落とすとか、取り下げるという意味があり、"du CPE"というのは問題になった法案(労働者の解雇禁止期間を解除する法案)なのだという。すなわち、この機会が現金を「引き出す」装置である旨通知した表示の下に現金ではなく"du CPE"と落書することにより、暗にその法案を廃案にせよという暴動集団の主張を示していることになる(>Iへ ここまで、間違いないですか??)のだそうで、皮肉のきいた知的な落書きであることにIは感心していた。
 
 被害にあったのはこの現金自動引き出し装置だけでなく、近くの店のガラスがど派手に割られていたり、わざわざ"PLACE DE LA SORBONNE(ソルボンヌ広場)"という看板 の"SORBONNNE"の部分を消してその下に"PRECARITE"(確か「抗議」という意味だったと記憶 >Iへ、これも確認よろしく)と落書きがあったりなど、数々の野蛮な行為の跡が残っていた。
 
 なお暴動は収束したものの、ソルボンヌ大学は現在も閉鎖中だという。体温が高いためなのかどうかは知らないが、これら蛮行の跡を見たら暴動に加わった学生らの品格を疑わずにはいられない。Iによると、フランスの学生は補助金欲しさに大学に入り、ろくに授業にも出ず遊んでいる連中も多いのだという。なるほど、そんな連中ならこんな蛮行もしかねないなと納得。Iの解説により、この「華やかな観光都市」パリで、フランス社会のひずみを見た。

生きてます

2006-05-15 19:04:12 | Weblog
15/04/06
こんにちは。久々の更新になりました。ウォッカパーティーの連続や演劇鑑賞などでなかなかブログを書けず、そもそもあまりインターネットに触れずにおりましたところ、皆様からはメール、コメントなどでご心配を頂きありがとうございました。

暖かくなったペテルブルクの出来事をエベレスト100個分くらいほど記述したいのですが、まずは西方見聞録を完結させます。でも、例外的に5月9日の戦勝記念日だけは西方見聞録の間に入れて皆さんにお伝えしたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。

西方見聞録11 意外な「トラブル」-パリ14/04-

2006-05-15 18:56:45 | Weblog
【写真:パリのロシア大使館(14/04)】 
旅程
《14/04/06 パリ》
午前中、ロシア大使館へ。午後、昔の牢獄やサンシャペー教会、凱旋門などを見学。

 朝、昨日申請したビザを受け取るためロシア大使館へ向かう。途中までは学校へ行くIと一緒。昨日より出発が遅かったため、「道に迷ったら(窓口の営業時間に)間に合わなくなるかも。」とIは心配してくれたが、「昨日も行ってるから大丈夫。」と私は自信Max。ところが、Iと別れてメトロの駅を出た後、ドジな私はIの心配通り道に迷ってしまった。そこで地図を買うことにし、駅近くの路上の売店のおっちゃんに地図の値段をフランス語で聞いてみた。値段を聞くことくらいは出来たものの、数字の勉強を怠っていたため、答えが分からず。そういえばロシアに来たばかりの頃も、質問しても答えが分からずということの連続だったなということをふと思い出した。おっちゃんはロシア大使館の場所も知っていて、私のノートに通りの名前を書いてくれた。

 ロシア大使館では既にビザが用意されており、すぐに受け取ることが出来た。パスポート番号などが間違っていないか一通り確認した後ロビーの椅子に座ってそのきれいなビザを眺めていると、ある重大な事実に気づいた。なんとビザの期間が申請したものと異なっていたのである。それも、申請した期間よりも長く、今日から来年の7月15日まで、458日間有効となっている。これには驚いた。招待状の期間より長いビザを出してくれたこともさることながら、そもそも1年を超えるマルチビザなどないと思っていたから。
 これは何か重大な間違いに違いない。もしこんなビザを持っていてパスポートコントロールでひっかかったら大変。さらに、私は今年7月15日まで留学生用のビザを持っていたため、期間が重複する間は有効なビザを2つ所持することになってしまう。そうすると、帰国後に大学で入国カードに外国人登録をする際に問題になるのではないか。どうしたものか。しばらく考えた後、窓口で聞いてみることにした。
 
 担当は昨日申請したときと同じ若い男の人だった。持っていた緑の留学生用マルチビザと今受け取ったばかりの、パスポートに貼られたビザを見せ、期間が重複していることを指摘した。すると、新しいビザで4月19日に入国することには何の問題もないが、有効なビザを2つ以上所持することはできないため、今持っている緑のビザは回収されるという。それは記念に持っておこうと思っていたため、無効印を押してくれるよう言ってみたが、留学生用のビザは内務省管轄、大使館は外務省管轄のため、ここではそれが出来ないとの答え。

 納得いかない私は、帰国後に大学で入国カードに外国人登録ができなくなると困るから念のためそれを持っておきたいと言ってみた。すると彼はパスポートに記入してある7月15日までの外国人登録を見て、「ここに外国人登録があるのにどうしてまた登録が必要なのか?」と聞いてくる。実は今回の旅行でロシアを出るとき回収された入国カードに加え、パスポートにも同じ外国人登録のスタンプがあったのである。ロシアでは原則として国境で配られる入国カードに外国人登録のスタンプを押すため、入国する度にその手続きが必要なのだが、彼は「パスポートの外国人登録だけで大丈夫だ。」と言う。繰り返しそのことを言い張る彼とそんなことはないはずだと主張する私。同じ問答が2,3回続いた。ロシアの公務員が大丈夫というからには大丈夫なのだろうが、それで納得しては緑のビザを取り戻せない。
 なんとか緑のビザを取り戻す方法はないものか。そこでとっさに思いついたのが、今日受け取ったビザは間違いだという主張。「マルチビザは最長1年までのはずで、招待状の期間も365日になっていたのに、458日のビザを発行したのはそちらの間違いだ。」と指摘してみた。するとなんと、「実はマルチビザには期間など関係なく、フランス人は最長5年まで取得できる。日本人も同じだと思う。」という答え。マルチビザは最長1年のはずだから、緑のビザを取り戻すには絶好の主張だと思っていた私はかなり驚いた。こうなったらとにかく、「招待状の期間は今年7月16日からだし、昨日私も(申請書に)そう書いている。そちらの間違いだから期間を変更してくれ。」と頼んでみたが、彼は、期間を訂正するには新たな招待状と料金が必要になると言う。

 結局「あなたには2つの選択肢がある」と選択肢を提示された。一つは緑のビザを回収し、新しいビザでロシアに帰国する。もう一つは新しいビザに無効印を押し、緑のビザで入国する。一度に有効なビザを2つ所持できない以上それ以外に方法はないというので、やむを得ず前者を選択。そのかわり緑のビザのコピーをくれるというので頼んでみると、画質がきれいな写真モードでコピーしたものをくれた。「これはあなただけにあげるものだから、決して国境で(入国審査官に)見せないように。」と言われた。
 最後にもう一度、入国カードに外国人登録がなくてもパスポートの外国人登録だけでロシアから問題なく出国出来るのか確認すると、「大丈夫だ。もし国境でトラブルになったらここに電話するよう言いなさい。私が全て説明する。」という頼もしい答えが返ってきた。(今日の彼の説明が正しいことが証明されるには、次に私がロシアを出国する機会まで待たなければならない。)彼とのやりとりは20分以上。窓口の営業時間を15分ほどオーバーしてやりとりをしていたのだが、彼は面倒くさい顔を全くせず、分からないことは別の人に聞きに行ってまで私の質問一つ一つにかなり丁寧に答えてくれた。緑のビザが回収されたことだけは残念だったが、納得のいく説明をしてもらい、ビザについて新事実を知ることが出来たうえ、何よりもかねてからの懸案事項だったビザの取得がパリで完了したということで一安心。

 招待状の期間を上回るビザは、大使館としてはサービスのつもりだったのだろうが、そのためにこんな意外な「トラブル」が起こるとは予想だにしていなかった。おかげでパリに来てまでロシア語を実践することになったが、時々詰まりながらも的確にやりとり出来るものだなと感じた。ひょっとするとこれは、旅行中もロシア語を忘れないように、天から与えられた機会だったのかもしれない。そんな機会を作りだしてくれたロシア大使館の一流な仕事ぶりに感服しながら、大使館を後にした。


西方見聞録10 ヴェルサイユ宮殿-パリ13/04-

2006-05-15 18:55:46 | Weblog
【写真:ヴェルサイユ宮殿 鏡の間(13/04)】 
旅程
《13/04/06 パリ(続き)》

 大使館での手続きを終えた後、Iは学校へ、私はヴェルサイユへ向かう。

 ヴェルサイユ宮殿は観光客でごった返していた。あまりに観光客が多いためか、入り口のセキュリティチェックではアラームが鳴ったにもかかわらず止められなかった。
 入場料金は8ユーロと相変わらず高かった。Iのすすめ通り、4.5ユーロで音声ガイドを借りる。音声ガイドはフランス語、英語、オランダ語、スペイン語、イタリア語、日本語、ロシア語、中国語があり、大変良い。

 迷路のようだったルーブル美術館と違い、ここは順路があって分かりやすい。音声ガイドはIの言っていたとおり、非常に詳しく説明してくれて、4.5ユーロ以上の価値はあった。
 有名な「鏡の間」は修理中だったが、半分を見ることが出来た(写真参照)。音声ガイドによると、1919年6月28日、第一次世界大戦後の秩序を決定づけたヴェルサイユ条約の締結はまさにこの場で行われたそうである。観光客が大量にいるためその厳粛な雰囲気を感じることは出来なかったが、世界の歴史を動かした大舞台に自分が立っていることに深い感慨を覚えずにはいられない。
 宮殿の見学を終えた後は、庭の一部を散歩してみる。豪華絢爛な宮殿とそれを囲む広大な庭園。様式やデザインこそは違うが、ペテルブルク郊外にあるペテルゴフやプーシキンなどと似たような風景を目にし、近代の権力者は皆似たようなことを好んだものなのだなと思った。
 
 パリへ引き返した後、Iと合流してTGVの巣窟GARE DU NORDへ行く。実は前回パリへ来た際にもIとともにここにTGV見学に来たのだが、今回はもっとじっくり見学できた。
 駅の大きな発車案内表示板にはフランス国内の列車はもちろん、ワーテルロー、ブリュッセル、ケルンなど周辺諸国へ行く高速列車がずらっと並んでいて見事。「TGVのテーマソング」とIが呼ぶ音の後に流れるフランス語の放送は大変美しく、聞いていてうっとりする。
 フランス国内を走る元祖TGV、オランダ方面へ行く真っ赤な車体のタリスなど、TGVにもいろいろ種類がある。TGV以外の列車も含めると、この駅からは最短3分間隔で列車が出ていく。これは東京駅の新幹線よりも高密度な運転間隔。ホームに行ってしばし発着する列車を眺める。日本の新幹線は発車後すぐに速度を上げるから、最後尾の車両がホームを離れるときには相当な速度になっているのだが、ここはロシアのターミナル駅と同様、列車はすぐには速度を上げない。だから発車の様子を見る限りではこの列車が時速300キロで走れるTGVだとはおよそ思えないが、一流の高速列車が線路に沿って緩やかなカーブを描きながら、パリとの別れを惜しむかのようにゆっくりゆっくりホームを離れていくのは大変上品で、堂々としていて素敵だ。
 TGVのターミナル見学は、Iとしては私へのサービスのつもりだったのかもしれないが、なんだかんだで彼も「全部の車両が動力車ではないようだ。」などと結構良く観察しており、興味深げだった。

 今日はその後モンマルトルの丘を観光し、ラーメン屋で夕食。パリにはラーメン屋がたくさんあるらしいが、その中の一つに入った途端、「いらっしゃいませこんばんは。」と日本語で言われた。その声の主は日本人。あたかも日本のラーメン屋に来たような感覚。私が知る限りペテルブルクにラーメン屋はないので、日本を出て以来ラーメンを食べるのはこれが初めて。値段が高い(8ユーロ)ことだけが唯一いただけなかったが、味は良かった。

 帰り、Iホームステイ先の最寄りの駅にて下車したところ、線路を挟んで喧嘩が発生していた。向かい側のホームから黒人がビール瓶のようなものを投げつけてきて、私達のすぐ近くに落下。Iとともに「蛮行だな。」と呆れたが、こんなこともあるらしい。パリ滞在3日目はこうして過ぎていった。

西方見聞録9 ロシア大使館の仕事ぶり-パリ13/04-

2006-05-15 18:54:20 | Weblog
【写真:ビザの申込用紙(私が記入した部分は一部修正)(13/04)】 
旅程
《13/04/06 パリ》
-今日の主な動き-
午前、Iとともにロシア大使館へ行った後、一人でヴェルサイユ宮殿へ。パリに戻ってIと合流後TGVの巣窟GARE DE NORDやモンマルトルの丘などへ行く。

 今朝はまずロシア大使館へ出かける。目的は2つ。Iの観光ビザを受け取るのと、私の、7月中旬以降(所持していたビザの期限が7月中旬で切れるため)のビザを申請するため。 
 ロシア大使館は中心部から離れたところにあり、アクセスに若干時間を要した。道中、Iは「日本大使館はシャンゼリゼ大通りにあるのに、ロシア大使館隅っこに追いやられてるね。」とバカにしてくれたが、私は「一流国の大使館はごちゃごちゃした中心部の下品なところにはないのだよ。」と反論。
 中心から離れている分、建物は巨大だった。異国にこんな堂々とした建物を構えるなんてさすがだなと感動。入り口でのセキュリティチェックの後、Iに続いて館内に入る。セキュリティチェックの人、窓口の係員はもちろん、ロビーの訪問客にもロシア語を話す人々が少なくない。そういえばここはフランスのど真ん中にあってフランスにあらざる場所、ロシア法が及ぶ空間なのだ。
 
 既に以前申請していたIは入館すると同時に直ちにビザを受け取ることが出来、「この対応の速さ、フランスも見習って欲しい!」と感心した模様。なぜならば、Iは「住宅手当」なるものを受け取るために昨年から何度もフランスの役所へ行っているが、あまりに対応がのろく、未だにもらえていないらしい。このままだともらえるかどうかすら怪しい状態だという。曰わく、「ラテンの連中はいい加減だ。」

 さて、問題の私のビザ、当初はフィンランドかバルト三国あたりで取得することを考えていたのだが、Iの情報により、フィンランドやエストニアよりもパリ大使館で取得する料金の方が安いことが判明。しかもあろうことか、今日聞いたところどういうわけかフランス人料金よりも日本人である私の料金の方が10ユーロほど安かった。通常、当該大使館の所在国の国民が一番安いはずだからフランス人料金より若干高いであろうことは覚悟していたが、まさか安くなるとは。
 大使館に備え付けの申請書はA4サイズ。質問文は左がフランス語で右がロシア語。すなわちフランス語かロシア語を理解しなければ申請がおよそ出来ない仕組みになっていた。なぜか一カ所だけロシア語が抜けている項目があったので、Iにフランス語から訳してもらう。今回私が取得するのは1年有効のマルチビザ。招待状の期間は今年7月16日から来年7月15日までになっているので、期間の欄にはその通り16,07,06から15,07,07と記入。(実は翌日、この期間をめぐってとんでもない問題が登場するとはこの時は知る由もなかった。)

 申請書の記入欄を埋め、持参してきたエイズ検査の結果、写真、パスポートとともに窓口に提出。担当者は若い男性。彼は書類を一通り見てパスポートの査証欄にスタンプを押し、「いつ受け取りに来る?」と聞いてきたので「明日」と答える。パリの大使館は審査が厳しいと聞いていたが、書類については特に何も聞かれることなくすんなり申請は終わった。
 会計の窓口にパスポートを持っていくと、見た目はロシアのパスポート(ロシアのパスポートカバーをかけているため)なのに実は日本のパスポートというのが面白かったのか、中の女性2名、「ロシアのパスポートだ。」と言って喜んでいた。そこで私がすかさず”Я люблю Россию.(ロシアが好きだから)”と応じると、後ろに並んでいた女性達に笑われた。どうやら後ろに並んでいたのもロシア人だったようだ。

 大使館での手続きはIのも私のも万事順調で、Iは「ロシアはしっかりしている。一流だ!」とその仕事ぶりに感激していた。今回の旅行は、Iにとってはロシアがメイン。ロシア大使館は彼にとても良い第一印象を与えたようである。 
 

  

西方見聞録8 ルーブル美術館は迷路-パリ-

2006-05-04 20:21:03 | Weblog
【写真:ルーブル美術館(12/04)】 
旅程
《12/04/06 パリ》
-今日の主な動き-
 10時過ぎに出かけ、Iが学校に行っている間私は一人でルーブル美術館見学。午後、Iと合流後再びルーブルへ。夕方から夜にかけて、Iの友達の日本人女性2人(パリで勉強中)とともに夕食など。

 朝、Iとともに家で遅めの朝食を食べる。食事は費用に含まれていないが、自分でパンなどを買って食べることで節約につとめているそうである。(何でも高いパリにあって、パンと水だけはロシアなみの安さ)。起きてきたホストファミリーの子どもにバナナやオレンジ没収されるなど、Iはさんざんちょっかいをだされていたが、子どもに好かれるというのは悪いことではない。ここの子どもも、ロシアの子ども達のようにかなりフレンドリーなのかもしれないと思った。

 RERという乗り物(要するにメトロのようなもの)で出かける途中、Iは私の携帯電話の着信音に設定してある、いわゆる「NOKIAサウンド」にはまり、私の携帯を鳴らしまくる。実はこのNOKIAサウンド、買った当初はロシアだけの音だと思っていたのだが各国に幅広く分布しているらしく、あちこちで同じ音が聞こえてくる。そのため、人がたくさんいるところで携帯電話が鳴ると複数の人が反応(私もその一人だが)するという大変滑稽な光景をよく目にする。NOKIA支配力の強さを感じずにいられない。

 学校へ行くIと別れる前に、ルーブル美術館とシャンゼリゼ大通りへの行き方を教えてもらうとともに、14時にSaint Michelleの噴水で待ち合わせる旨の打ち合わせをした。フランス語は発音と表記がだいぶかけ離れているので、ちゃんとノートに文字を書いて確認。一応フランス語を2年間履修したことになっている建前上、"George Ⅴ"という駅名を「ジョージ サンク」と読むくらいはかろうじて出来たが、Saintを「サン」と読む力はなく、今日はとりあえず「サイント ミッシェル」とそのままの読みで記憶。

 今日のメインはルーブル美術館。昨年来たときは夕方遅くに行ったため入れず、私は今回が初めて。観光客でごった返しているであろうことは想像に難くなかったが、ルーブル見学はパリ観光客の義務のようなもの。ここでは観光客モードの私もその例外ではない。

 いざルーブルに行ってみたは良いものの、セキュリティチェックにも入場券販売機にも予想通り長蛇の列。そこまではまだ予想の範囲内であったが、ようやく買ったチケットはなんと8.5ユーロという高さ。学割はないそうである。うちのエルミタージュは学生はただなのに...。この国は若者に芸術を広めようとする気があるのかと疑ってしまう。
 高い入場券を買ったからには隅々まで見なければと意気込んでエスカレーターを上ったものの、どういうわけか展示室ではなく外に出てしまった。ルーブルは一度外を経由してから入る仕掛けになっているのかなと思って入り口を探すが、見つからない。さまよった挙げ句ようやく見つけた入り口ではまたしてもセキュリティチェックを通され、事態が分からずにいるとエスカレーターで下りた先は先ほどのチケット売場のホール。振り出しに戻ってしまった。これをもう一度くらい繰り返し、ようやく展示室に入場できた。
 あとはパンフレットの案内図を見ながら進んでいけば良いと思っていたが、それは甘かった。案内図の縮尺が分からず、自分がどこにいるか把握できなくなってしまった。館内の表示は当然ながらフランス語のみで、日本語版のパンレットではあまり役に立たない。館内は通路や展示室が複雑に入り組んでいて、まさに迷路。順路というものはないらしく、初めて来る者としては非常に分かりにくかった。
 もう一ついただけなかったことは、館内の案内図を含む無料パンフレットにはイタリア語、スペイン語などはもちろん、日本語版や韓国語版さえあるのに、ロシア語版がないこと。そのわりに写真撮影を禁ずる旨の掲示はちゃんとロシア語でも書いてあり、ふざけた美術館だなと憤慨。
 以上の理由により来場者に対するサービスの面では二流以下だと私は思ったが、展示品は一流なわけで、道に迷いながらもモナリザの絵を含む有名な展示品をいくつか鑑賞。
 
 Iと合流後、Iに、「ミロのヴィーナスは見たか?」「ハンムラビ法典は?」など、私がおよそ目にしなかった展示品を列挙され、ルーブルは迷路状態でそこまで見られたかったことを話す。Iは一年有効の入場券を持っており、私の入場券は一日有効なので、午後、Iとともに再びルーブルに行くことにした。
 さすがパリ住民だけあって、Iは大迷路の構造を良く把握していた。ハンムラビ法典、ミロのヴィーナス、ナポレオンの戴冠の絵など、世界史図説でしか見たことのない展示品が次々に目の前に現れ、何だかんだで来て良かったなと満足。

 夕方、Iの友達の日本人2人と会う。彼女らもここでフランス語を勉強しているという。2人とも明るくて楽しい人々であった。5ユーロのカレー屋でカレーを食べた後、さらにバーに出かけて4人で語る。私が持参してきたウォッカも飲みながら話すうち、Iはいつになく饒舌になり、私達3人に突っ込まれまくり。こんな面白い仲間がいて、パリでのIの生活も楽しそうだった。  

 

西方見聞録7 一流なロシア人旅行者-パリ-

2006-05-03 19:00:44 | Weblog
【写真:アレクサンドルⅢ世橋(11/04)】 
旅程
《11/04/06 パリ》
TGVでGARE DE LYON到着後、Iの案内でパリ観光。Iのホームステイ先へ行って荷物を置いた後、ノートルダム寺院、コンコルド広場、アレクサンドルⅢ世橋、シャンゼリゼ大通りなどを観光。

 パリでの出来事について記述する前に、パリから旅の道連れとなったIについて簡単に紹介しておく。彼は私の大学時代最古の友人の一人で、入学式の時から写真が残っている。日本にいた頃は、もう一人よく一緒に行動する同級生N坂とともに3人で茨城県境町にあるN坂の実家を見に行ったり、クラスの連中と騒いだり、新幹線で湯沢や山形に旅行に行ったりなど、彼との思い出は数多い。
 そのIと私がそれぞれフランス、ロシアに留学することになるなんて夢にも思っていなかった。彼はフランス語に熱心で、大学1年の頃、フランス語の授業で私と机を並べて勉強していたとは思えないほど今はフランス語が達者。英語だけが学ぶべき外国語でないこと、教養として言語を身につけることが重要であることなど、私と同様の価値観を共有する優秀な仲間でもある。
 
 さて、そんなIとパリで会うのは昨年の12月に続いて実は2回目。イタリア観光がメインだった前回はパリを見る時間が短かったが、今回はじっくり観光できそう。

 まず今回の宿泊場所となるIのホームステイ先に荷物を置きに行くことになったが、その際、彼が"Carte Orange"というカードをすすめてきた。このカードはパリのメトロ、バスなどが定められたゾーン内一週間乗り降り自由で約20ユーロというもの。市内の交通に20ユーロというのはやたらと高く感じられたが、そういえばここは物価が何でも高いユーロ圏なわけで、乗り放題ならば20ユーロでも十分安いらしい。
 彼のすすめ通りそのカードを買い、たまたま携行していた写真をカードに貼る。さらにカードに名前を書き、自動改札機に通す小さなカードには大きなカードの番号を写さなければならないという。さもなければ罰金なのだそうだ。さすがパリ住民だけあって、Iは良く知っているなと感心。

 荷物を置いた後まずはノートルダム寺院へ行き、その後遅い昼食にケバブの店に入る。I曰わく一番安い店なのだそうだが、それでも一つ4ユーロ。4ユーロということは約136ルーブル、ペテルブルクではその辺のカフェでビジネスランチのセットが食べられる金額なわけで、これが一番安い食事になるとは、Iはなかなか大変な生活をしているということが察せられる。

 コンコルド広場での出来事、夫婦と思われる男女が私の所へカメラを持ってやってきて、「モージュナ」と言う。私は耳を疑った。明らかにロシア語。
 頼まれたままに写真を撮り、一言二言会話をする。彼らはモスクワからやってきたらしい。なぁんだ、モスクワかとちょっと残念だったが、私がペテルブルクで勉強していることを話すと、別れ際、”Привет Петербург!(ごきげんよう、ペテルブルク!)”と言ってくれた。こんなところでロシア人に会うのは意外だったが、それよりもなによりも、何語を話すか分からない外国人にいきなりロシア語で話しかけてくるとはなかなかの度胸。ここがパリのど真ん中であろうと、相手が一介の外国人旅行者であろうと、自分たちの高尚な言語を堂々と使う姿勢は称賛に値する。
 偶然にも、近くにはロシア皇帝アレクサンドルⅢ世がフランスに贈ったという「アレクサンドルⅢ世橋」なるものがあった。Iの案内で橋を見た瞬間、見るからにロシア風だなと感じた。欄干に彫刻があって芸が細かく、いかにもロシア人が好みそうなつくりになっていた。距離は離れているが、ロシアとフランスは結構縁が深いようだ。パリがちょっとだけ身近に思えてきた。
 
   

西方見聞録6 TGVでパリへ-ジュネーヴ→パリ-

2006-05-01 23:04:38 | Weblog

【写真:ジュネーヴから乗ったTGVと記念撮影。パリ GARE DE LYONにて。(11/04)】 
旅程
《11/04/06 ジュネーヴ→パリ》
朝 スティーブン運転の車で出かける
10:00 ジュネーヴ GENEVE CFF発 TGV6568号 
13:31 パリ PARIS GARE DE LYON着
   Iと合流後、パリ観光

 スイス滞在最終日にして、ようやく青空が戻ってきた。朝、チューリッヒで会えなかった友人に手紙を出しに、スティーブンと郵便局へ行く。その往復の雑談の中で、彼にフランス語の発音や、名詞の性について教えてもらう。彼によると、フランス語には単数だと男性、複数だと女性名詞になる語が2つだけあるという。一つは「愛」という単語、もう一つは彼も忘れてしまったらしい。言語に例外はつきものだが、「愛」というあらゆる場面で頻出の単語にそんな例外があったのかととても意外だった。

 9時過ぎ、スティーブンが運転する車で家を出る。渋滞にはまり、駅に着いたのはTGVが発車する10分前だったがなんとか間にあった。
「本当にありがとう。今度は日本に来てくれ。」「来てくれてありがとう。ロシアのホストファミリーによろしく。」そんな会話をしてスティーブンと別れる。

 フランス行きの列車は7番線、8番線のいずれかから発車する。大きくFranceと書かれた案内にしたがって進むと、ホームに出る前にパスポートコントロールがある。ここでは切符とパスポートを提示しなければならないが、パスポートにスタンプが押されるわけでもなく、あっさりとコントロールを通過。国際列車に乗るのは昨年暮れにヘルシンキからペテルブルクまで乗って以来2度目だが、その時は列車から降ろされなかったものの、フィンランド側出国場面、ロシア側入国場面でそれぞれ厳重なチェックが行われた。それとは対照的なあっけない出国手続き。この先がフランスであるという実感が、どうしてももてなかった。

 10時ちょうど、私を乗せたTGV6568号は定刻にジュネーヴを発車した。パリまで3時間31分の旅の始まりである。
 車両は2階建てで、私の指定席は2階。早速席へ行ってみると、女性が堂々と座席二つ分を占有して寝ている。起こそうかどうか一瞬考えたが、結構空席があったので、他の席に座ることに。車内をよく見ると、他にも座席を2つ分占有して寝ている女性を発見。自由席ならともかく、指定席とはおよそ思えない光景だったが、ここではこれも普通らしい。 列車ははじめ山間部や川沿いをゆっくりと走る。特に防護柵も何もなく、踏切もある地上を走るのは、日本の山形、秋田新幹線と同じ感覚で私には親しみが持てた。この調子で3時間30分なら、パリまではそんなに離れていないのだろうと思ったが、それは大間違いだった。
 11時55分頃から急激に速度が上がり、いつの間にか高架を走行していた。その速度たるや半端じゃなく、間違いなく270km/h以上は出ていた。これだけの高速鉄道に乗ったのは日本を出て以来初めて。日本の新幹線から眺めるのとほぼ同じ速度で、景色がどんどん後ろへ飛んでいく。この速さ、風を切る音、まさに新幹線。さすがTGVだと感心した。
 車窓からは水の跡なのか、ところどころ水に浸かった畑や道路が見えた。大きな都市はあまりなく、このTGVはひたすら田舎を走っているようだった。
 13時31分、列車は定刻にパリ、GARE DE LYONに到着。日本の新幹線もびっくりするほど素晴らしい旅だった。
 ホームの前の方に歩いていくと、パリ留学中の大学の同級生、Iが待っていてくれた。12月の旅行以来、彼に会うのは約4ヶ月ぶり。積もる話もそこそこに、彼は私がTGVの先頭車両と写真を撮らなければならないことをちゃんと分かっていてくれた。日本のE3系新幹線電車に似た美しい曲線をもつTGVを、私はすっかり気に入った。
 今日から4日間、Iにパリを案内してもらい、彼とともにオランダ、ドイツを経由してロシアへ向かう。

西方見聞録5 国境を歩いて越える-ジュネーヴ-

2006-05-01 23:03:59 | Weblog

【写真:スイス側から見たフランスとの国境(10/04)】 
旅程
《10/04/06 ュネーヴ》
終日 ジュネーヴ滞在
   ほんの数分間フランスに入国

 7日夜にペテルブルクを出て以来睡眠時間が極端に少なかったためか、今朝は遅起き。スティーブンが大学に行っている午前中、私は市内観光をする予定だったが、出かけたのが11時前。とりあえずスティーブンに教えてもらったとおりバストとラムを乗り継いで駅まで出てみる。携帯電話のSMSでスティーブンとやりとりし、駅近くで待ち合わせ。スティーブンおすすめのレストランに入って昼食を食べる。
 
 15時過ぎ、駅で個人レッスンのオーリャ先生の友達夫妻に会う。先生から手紙などを預かってきたため、それを彼らに渡し、かわりに先生に渡して欲しいという大きな荷物を受け取った。
 夫妻はロシア滞在経験があり、よくロシアにやって来るそうである。2人ともロシア語が堪能で、時々ロシア語でも話した。彼らはチューリッヒよりも、ジュネーヴに近いフランス語圏に住んでいるらしい。「またスイスに来たら是非私達の所にも」と言われた。もともと全く見ず知らずの人と、ロシアの先生を介してこうして知り合いになれるというのはとても面白いこと。何だか不思議な縁を感じた。

 午後は国連の建物を見に行ったり、スティーブンと市内を散歩したりしたが、雨もぱらつく曇りの天気で、ここでも遠くの山などは見えなかった。

 家に帰る途中のバスの中、スティーブンが「家に帰る前に先にフランスに行こう。」と言い出した。スティーブンの家はスイス、フランス国境からわずか100m前後しか離れていないので、歩いてフランスに行けるのだという。
 最寄りの停留所でバスを降りていざフランスへ。驚くことに、私達が乗ってきた普通の路線バスがそのまま国境を越えてフランスに入っていった。歩きながら、「国境はどこ?」と問う私に、「もうフランスだ。」と答えるスティーブン。パスポートコントロールも、「ここからフランス」という標識もなく、いとも簡単にフランスに入国してしまったことに、私は大きな衝撃を覚えた。車道にはスイス側、フランス側それぞれの税関があり車が1台ずつ止められていたが、ごく簡単なチェックですいすい通っている。ここは本当に国境なのかと目を疑った。
 フランスから出る前に、記念のためにパスポートにスタンプを押してもらおうと思い、フランス側のカスタムでスティーブンに通訳してもらう。パスポートにスタンプを押すよう求める人は珍しいようだ。最初は意外だというような顔をされたが、スタンプは押してくれるという。外で車を止めていた係が2人とも建物の中に入っていった。その間、車は止まらずにどんどんフランスに入っていく。その様子を見てスティーブン一言、「密輸の方法を見つけた!」。確かに、これでは密輸も何もチェックのしようがない。
 しばらくして戻ってきたパスポートには、ST-JULIEN-PERLYでフランスに入国したことを示すスタンプが押されていた。これは大変良い記念になる。ついでにスイス側でも同じことをスティーブンに聞いてもらったが、こちらはビザ所持者(スイス入国に際してビザが必要な国の国籍を有する者)にしかスタンプを押せないらしく、残念ながらスイスのスタンプはもらえなかった。

 およそ国境というものを歩いて越える経験は初めてだったが、あまりのあっけなさにかえって拍子抜けした感があった。せめて出入国審査くらいはあるだろうと思っていたが、そんなものは皆無。歩行者に至っては税関での検査もなく、通り放題。ちなみに、スティーブン一家もよくこの国境を越えてフランスに行くらしい。母は毎週買い物に、スティーブンは国境近くのレンタルビデオ屋にといった具合に。
 ここの人達にとって、国境とはあってないようなものなのだ。全員バスから降ろされて一人一人厳重なチェックを受けるロシア国境とは対照的。所変われば国境のありようもがらっと変わるということを知った。
  
 夜、スティーブン一家、スティーブンの彼女と揃って夕食。スティーブンの両親と上の弟は昨年ペテルブルクに来たことがあり、私とは顔見知り。皆私の訪問を歓迎してくれた。 スティーブン一家は父親がフランス語圏のスイス人、母親がスコットランド出身のため英語、フランス語が皆完璧に使える。今日はフランス語が分からない私のために、みんな英語で話してくれた。
 スティーブンのお母さんに、フランス語はどうやって勉強したのか聞いてみると、「学校でも勉強していたが、彼(夫)から習ったおかげ。恋人は一番良い語学の先生だ。」という答え。逆のことはスティーブンのお父さんについても当てはまるのであろう。スティーブンの上の弟に、「2カ国語のネイティブスピーカーってのはどんな感じなんだい?」と尋ねると、彼は「幸せだ。学校では英雄だ。」と笑っていた。スイスでも、日本と同様に国民皆が英語を話すわけではないらしく、英語が出来ることは一つのアドヴァンテージになるらしい。
 スティーブン一家の場合は英語とフランス語の組み合わせだったが、他の組み合わせでも良い。二カ国語のネイティブスピーカーなんて羨ましい限りである。それを思うと国際結婚は素敵だなと感じずにはいられない。

西方見聞録4 深夜観光-チューリッヒ-

2006-05-01 23:02:50 | Weblog

【写真:雨のチューリッヒ(09/04)】 
旅程
《09/04 チューリッヒ→ジュネーヴ》
終日 チューリッヒ観光
19:34 所定19:32発の列車(ICE)でジュネーヴ発
22:18頃 ジュネーヴ着
   到着後バスでスティーブンの家へ

 0時過ぎにクリスの家に到着したものの、荷物を置いてまた再び皆で観光に出かけた。観光といっても真夜中。クリスの運転でチューリッヒの中心部を見に行く。
 
 深夜だからもちろん店は閉まっていたが、店の中の電気をつけて外から商品が見えるようにしている所が多かった。バーかカフェに寄って休憩しようと試みるも、残念ながら空いているところはなく、断念。

 クリスが、「レーニンが住んでいた建物に案内する。」と言う。最初は冗談かと思ったが、レーニンはかつてチューリッヒに住んでいたことがあるのだそうだ。行ってみると、1916年2月16日から1917年4月2日までレーニンが住んでいた旨(おそらくドイツ語で)書かれたプレートが掲げられた建物が確かに存在した。特別大きかったり、装飾があったりするわけでもなく、クリスに言われなければ気がつかない建物だった。ペテルブルクで活躍したロシア革命の英雄が、こんなひっそりとしたところに住んでいたのかと、とても意外な感じがした。
 
 夜なので教会や博物館などの中に入ることは出来ないが、町の灯りが静かに川の水面に映る様子は大変美しく、深夜の観光も趣があった。

 帰りの車の中では、ペテルブルクで出会った他の友人達の噂話になった。「あいつはもうアメリカに帰ったんだよな。」「スウェーデンの出身の彼、名前なんだっけ?」など、懐かしい友達が次々に思い出された。それぞれ母国語とはだいぶ違うロシア語に苦労しながらも、皆懸命に努力していた。もっとも、あまり勉強せず、飲み屋の場所だけ覚えて帰ったような奴もいて、「そういえばあいつなんかあんま学校行ってなかったっけな。」と皆で話しては笑った。
 ちなみにクリスは昨年秋の帰国後もロシア語を続けているらしく、彼とは英語の他に、時々ロシア語でも会話をした。彼は語学に相当投資していると自分で言っていたが、ロシアの他にイギリスにも留学経験があり、私よりも英語が上手なうえ、フランス語も話せる。結局彼は母国語のスイスジャーマンの他にドイツ語、フランス語、英語、ロシア語の4カ国語が出来るわけで、相当の時間とコストと努力を要したに違いないが、語学は大変貴重だということを痛感している私としても、彼の言うとおり、投資するだけの価値は十分あると思う。
  
 深夜まで出歩いたため午前中だいぶ遅くまで寝ていたが、先に起きたクリスと私で、キッチンで話をする。話題はもっぱら言語について。クリスにドイツ語の格について聞いてみた。彼によるとドイツ語にはロシア語の主、生、与、対格に相当する4つの格があり、主格、与格は用法がよく似ているが、生格、対格は全く異なるという。さらに私が全く理解できないのは、格があるのに語順が決まっているという点。このあたりからして、ドイツ語は相当難しそうである。
 クリスはまた、こんなことを聞いてきた。「どうして日本人は会話が苦手なのか?」彼によると、仕事などで日本人の知り合いが10人ほどいるが、彼らはクリスより文法は出来るのに"What did you do yesterday?"のような極めて簡単な質問を理解できないのだという。それは文法偏重の日本の英語教育の弊害だということを私は話したが、英語教育のせいだけで済ますのは妥当ではない。確かに会話を軽視した日本の英語教育は大変いただけないが、それに気づいたら自分でリスニングなり、会話なりの練習をすれば良いし、私自身もそうしてきた。クリスの言うように日本人が英会話が下手だとしたら、半分はお寒い英語教育のせいだが、もう半分は個人の怠慢のせいである。母国語の他に2カ国語、3カ国語、それ以上というのが当たり前の世界で、「日本人は英会話すらまともに出来ない」という話が出ること自体大いに恥ずべきことだと私は思った。

 その後クリスとともに駅へ出かけ、まだ予約していなかったジュネーヴからパリまでの列車のきっぷを購入。クリスに通訳してもらい、ちょうど良い時間帯の列車を選ぶ。ジュネーヴからの夜行列車はなく、69スイスフラン(約55USD)でTGVに乗れるというのでTGVでパリ入りすることにし、パリのIに連絡。IがパリのGare-de-Lyonまで迎えに来てくれることになった。ロシアほどではないが、諸外国の鉄道料金の安さには感激。(日本がやたらに高いだけか...)。

 駅から帰り、スティーブンらとともに”フォンデュ”という食べ物を昼食に頂く。とろとろに溶かしたチーズをパンにつけて食べるスイスの食べ物だが、このチーズ、これまで私が食べたものとはひと味違う。クリスは「外国人は好まない場合が多いから、その時はこれを食べたら良い」とわざわざハムなど他の物を用意してくれたが、幸い私にはおいしく感じられた。「おいしい」と言うと、スティーブンもクリスも驚いていた。

 実は今日チューリッヒで会うことになっていた人が2組いたが、ペテルブルクで同じクラスだったスイス人は急に熱を出してしまい会えず、もう一組、個人レッスンのオーリャ先生の友達夫妻との対面は明日、ジュネーヴでに延期になった。そのため午後は特にやることがなくなり、雨も降っていたのでクリスの家のベランダでまったり話しながら過ごす。スティーブンや私にとっては初めてのチューリッヒだから雨の中観光に出かけるのも悪くないし、そっちのほうがむしろ普通なのだろうが、あくせく動かずにこうして庭からの景色を眺めながら待ったり過ごすのもまた贅沢な過ごし方である。
 それでもちょっとだけ散策に出かけてみようということになり、クリスの車で湖に出かけた。曇っていて周囲の山が全く見えなかったのは極めて残念だったが、晴れの日だけが良いとは限らない。青空は、次回チューリッヒに来る時の楽しみにとっておこう。

 19時過ぎ、チューリッヒ滞在を終えて駅に到着。ホームには軍服姿の人々がたくさんいた。「日曜の夕方には軍隊から帰ってくる人がいるから、その出迎えに来ているのだ」とクリスが説明してくれた。この国には今も兵役があるのだ。
 19時34分、ICEでチューリッヒを発ち、スティーブンとその彼女とともに再びジュネーヴへ向かう。わずか一日のチューリッヒ滞在だったが、私としてはクリスに再会できただけでも十分だった。