ロシアの北都 サンクトペテルブルク紀行

2005年秋から留学する、ロシアのサンクトペテルブルク(旧レニングラード)での毎日を記します。

8 いざ、シベリアへ

2007-07-14 16:46:25 | Weblog

【写真:シベリア鉄道概略図 52196】
01.07.2007
 いよいよ列車の出発時間が迫ってきた。今回はウラジヴォストークから3本の列車を乗り継ぎ、シベリア鉄道のもう一つの端、モスクワ、ヤロスラブリ駅へと向かう。
 最初に乗る列車はウラジヴォストーク発ノヴォシビルスク行き特急007НА列車。
乗車区間:ウラジヴォストーク→イルクーツク(4106km)
発車時刻:7月1日21時35分(モスクワ時間14時35分)
到着時刻:7月4日17時17分(モスクワ時間12時17分)
所要時間:69時間42分
料金(予約料金込み):2500.2ルーブル

 駅のカフェで夕食を食べ、5番線からノヴォシビルスク行き7列車に乗車。一度またホームに出て、先頭車両を見に行く。ロシアの長距離列車は編成が長く、先頭車まではかなりの距離。乗り遅れるといけないので自分の車両まで戻る時には走り、シャワーがないのに汗をかいてしまった。
 
 21時35分(モスクワ時間14時35分)、列車は定刻にウラジヴォストーク駅を発車。
発車の際、進行方向右側の隣接する港には、今朝まで乗っていたルーシ号が見えた。左側には日中見た、モスクワから9288kmの碑。列車は速度を上げながら碑の横を通過する。世界一広い国の東から西まで、ユーラシアの広大な大地を横断する旅が、ついに始まった。
 
 私の車両はプラツカルトというタイプの車両。進行方向に対して垂直の方向を向く2段ベッドが2つペアになったボックスと、廊下をはさんで進行方向に対して並行の方向を向く2段ベッドが、計9セットほどびっしりと配置されている。ボックスと廊下の間にはドアがなく、周囲の様子が丸見え。
 私があえてこのプラツカルトの車両を選んだ理由は、料金が安いからというだけではない。同じボックスの人や周辺の人々と話をしやすい環境で、周囲の人々が話すロシア語も聞こえて勉強になるからというのも大きな理由である。
 
 ウラジヴォストークを出発した時点で、私のボックスの私以外3人と、通路をはさんだ2段ベッドの乗客2人は全て女性。最初は誰が誰と同じグループなのか、それとも一人旅なのかななどと様子を見ながら考える。
 発車して40分ほどすると、車内に雑誌、新聞売りのおっちゃんがやって来た。暇なのでおっちゃんから新聞を買い、いくらかと尋ねると、彼は指で金額を示して見せた。私がロシア語を話せないと思ったのだろうか。私が戸惑っていると、周りの乗客2人ほどが同時に、「15」と教えてくれた。
 ロシアの長距離列車にも車内販売がある。インスタント食品、チョコレートなどのお菓子、ジュース、ビールなどいろいろな物を売っている。各車両には大きな湯沸かし器が設置されており、お湯はいつでもただでもらえるので、インスタント食品を食べたり、お茶を飲んだりするのに便利。列車に乗る際には食事のことをほとんど考えていなかった私は、車内販売からじゃがいもと肉のインスタント食品を買う。

 出発から約1時間半後、私と向かい合う席の2人と話し始めた。彼女らの名はクスーシャ、ターニャ。ウラジヴォストークの学生で、2人でこれからノヴォシビルスクへ行くという。小学校も一緒だったという2人だが、こうして一緒にノヴォシビルスクへ行くのは初めて。ノヴォシビルスクまでは丸4日以上かかるわけで、長時間車内で何をするのか尋ねると、読書をしたり、景色を見たり、クロスワードを解いたりするという。
 ペテルブルクへ行ったことがあるかと聞くと、2人とも行ったことはないが、とても行きたいと答えた。でも学生にとっては高いから行かないのだという。私が、電車で行けば時間はかかるが安いだろうと言うと、モスクワやペテルブルクでの滞在費用が高いのだとのこと。ウラジヴォストークで私はバスに乗らなかったから分からなかったが、ウラジヴォストークでのバス料金はだいたい7,8ルーブルくらいだと彼女らが教えてくれた。ペテルブルクではバスにもよるが、私の前回の滞在の時点でも15,17ルーブル程度だったから、バス料金を比較しても、モスクワやペテルブルクはウラジヴォストークより2倍くらい高いことになる。
 滞在費用が高いから行かないというのは、予想していなかった発言。早速一つ、勉強になった気がする。

 私のベッドは下段。下段のベッドの下には荷物入れがあり、ベッドで完全にふたが出来るようになっている。そのため貴重品はベッドの下に入れておけば安心というわけで、パスポートやデジカメなどをそこに入れ、日付が変わるくらいに寝る。  

7 日本に近い街

2007-07-14 16:40:26 | Weblog

【写真:バス停で出会った大学生らと。 55262】
01.07.2007
 ジャスは数日間ウラジヴォストークに滞在した後、途中寄り道をせずにモスクワまで乗り通すという。日本から2泊3日の船旅をともにした友人をタクシーへ案内し、駅前で別れる。
 一人になった私はまず携帯電話のSIMカードを買おうと思い、電話の店を探す。電話の店は街中どこにでもあるが、1軒目は改装工事(?)中、2軒目は外国パスポートだとコピーをとる必要があるが、ここにはコピー機がないのでと断られ、3軒目は今担当の女性がいないからと断られ、4軒目でやっとSIMカードが手に入りそうな状況になった。が、ペテルブルクへの通話は安くても1分75ルーブルと言われ、SIMカードは断念。
 
 ところで、4軒目の電話家を出たところでバスを待っていた女性が、С днем города(街の日おめでとう)の小旗を持っていた。そこで私が「今日は街の誕生日か?」と聞くと「そうだ。」と言われた。偶然にも今日、7月1日はウラジヴォストーク147回目の誕生日だったのだ。
 その女性に、この旗はどこで手に入れたのか尋ねると、その辺でもらったらしく、私に旗をくれるというのでありがたく頂戴する。その女性は私に、「日本からか?」と聞いてきた。私が「そうだ。」と答えると、さらにどこの県から来たかと質問してきた。私が出身は山形だと言うと、彼女は聞いたことがあると言っていた。その後2,3言葉を交わして別れ際、その女性は日本語で「さよなら。」と言ったので「ありがとう。」と私が返すと、やはり日本語で「どういたしまして。」と答えてくれた。日本語を勉強していたのだろうか。その女性はバスに乗っていったのでそれ以上聞くことは出来なかった。

 その後駅の近くまで戻り、郵便局の中にあるインターネットカフェに入る。日本語が表示できるかどうかも怪しいので、日本語が入力できることなど期待していなかったが、なんと日本語入力が可能という。そのインターネットカフェでは、ロシア語、英語、日本語の他、韓国、中国語が使えるようだった。

 私が今夜乗る列車の出発時刻は現地時間の21時35分。インターネットを終えた時点で、まだ4時間近く時間があった。
 天気もよいので、街を散策。たくさんの船が港に停泊しており、さすが港町だけあるなと思ったが、つい最近まで外国人には立ち入りが許されない軍港の街だったという面影は、正直感じられなかった。街の誕生日のお祭りの雰囲気が、私がそれまで抱いていた閉ざされた軍港の街のイメージと正反対のものだったということも理由の一つかもしれない。港の周辺は傾斜もあって山も近いようだ。暇そうにしていた警官2人組に、どこか街全体が見渡せる場所がないかと聞くと、地名を教えてくれた。教えられた大きなバス停でバスを待つが、なかなか目当ての番号のバスが来ない。

 バス停をふらついていると、同年代らしい男に声をかけられた。「どこから来た?」「日本から。」最初は確かこんな会話だったと思う。私に声をかけてきた彼の名はジーマ、チェリャビェンスク出身の大学生で、他の学生仲間数名と一緒にいた。私たちはすぐに打ち解け、立ち話が始まった。
 ジーマは、ロシアはすごい国だろう、ロシア人(女性)は美しいだろうなどと誇らしげ。私はもちろん彼の言うことに反対ではなかったが、一緒にいた女子学生イーラは、「ロシアの女は不誠実неверныеだから、日本人の方がいいだろう?」と横槍を入れた。一緒にいた他の連中も、自分たちの飲んでいたビール『シベリアの王冠сибирская корона』を私に勧めながら、「日本のバイクはいくらするんだ?」「船の料金は?」など、興味深げに私にいろいろ質問してきた。私が日本語で彼らの名前をメモすると、皆次々に、日本語で自分の名前を書いてくれと言ってきた。私が彼らにあげた名刺にそれぞれの名前をカタカナで書いてやると、皆喜んでいた。
 彼らはとても友好的で、彼らとの話は大変面白かった。私は、街が見渡せる場所へ行くことを忘れて話をした。別れ際、彼らにそのことを話すと、「(街が見渡せる場所へは)乗換えが必要だし、今日は街が(お祭り騒ぎで)混んでいるし、あと2時間半後(の列車)には間に合わないといけないからやめといた方が良い」旨言われ、その場所へ行くことは諦めた。それよりも何よりも、同年代の彼らと知り合いになり、いろいろ楽しい話が出来たことが、ここでの一番の思い出だ。
 
学生らと別れた後、私も自分で『シベリアの王冠』を買い、再び散策。ウラジヴォストークでは、鉄道の駅と港が隣り合っている。近くの広場では、街の誕生日のためにステージが設けられ、実に賑やかだった。その広場には、どういうわけか日本の鯉のぼりも飾られていた。ステージで歌う人が、時折「ウラジヴォストーーーーク!!!」と絶叫するのが聞こえる。

 偶然声をかけた女性が少しでも日本語を知っていたり、インターネットで日本語が使えたりする。ウラジヴォストーク、日本海を隔てて対岸にあるロシアの街は、本当に日本に近い街なのだということを感じた。

6 モスクワから9288km

2007-07-14 16:39:19 | Weblog

【写真:ウラジヴォストーク駅のホームにある、シベリア鉄道終点の碑。 52180】
01.07.2007
 ホテルに泊まらず、今日すぐにウラジヴォストークを発つ私は荷物を駅に預け、ジャスと銀行、レストランを探しに行く。ロシアのどこにでもある銀行、スベルバンクは駅からそう遠くなかった。ATMで現金を引き出す。
 駅から離れるとレストランは意外と少なく、道で人に聞きながらたどり着いたレストランは韓国料理の店。ジャスにとってロシアでのはじめての食事がロシア料理でないのはいかがなものかと思ったが、船でロシア料理は食べたことだし、今回の昼食は韓国料理にすることに。量は十分でおいしかったのだが、私にとって韓国料理の問題点はとにかく辛いこと。辛くないようにと頼むべきであったか。

 昼食の後ジャスの両替のためにもう一度銀行により、2人で駅へ向かう。シベリア鉄道終着の碑がホームにあるらしいので、それを見てから別れようということになったのだ。窓口で記念碑の場所を尋ねるついでに、インターネットで予約していた列車の切符をもらうことに。インターネット予約のきっぷを発券できる窓口は限られているらしいが、予約票のプリントアウトを見せると、ちゃんと切符が発券された。間違いなく予約したとおり。クレジットカードで支払いは済ませてあるので、ここで現金のやり取りは不要。
 切符はもらったものの、窓口氏は忙しそうなので、記念碑の場所はホームで駅員に尋ねた。その記念碑は、ホームの、どちらかといえばモスクワに近い方に立っていた。モスクワからの距離9288(km)の数字の下には、こんな碑文があった。

ЗДЕСЬ ЗАКАНЧИВАЕТСЯ
ВЕЛИКАЯ ТРАНССИБИРСКАЯ
ЖЕЛЕЗНОДОРОЖНАЯ
МАГИСТРАЛЬ
РАССТОЯНИЕ ОТ МОСКВЫ
 9288 КМ
 
(偉大なるシベリア横断鉄道 ここに終わる モスクワからの距離 9288KM) 

 往路、私の旅は碑文のとおり「ここに終わる」ではなくてここから始まる。9288kmといわれても、この鉄の道が、はるかモスクワ、ペテルブルクまで続いているという実感は今の私にはまだもてなかった。この先、どんな旅が私を待っているのだろうか。

5 ウラジヴォストーク入港

2007-07-14 16:38:01 | Weblog

【写真:右からキャプテン、私、ジャス 52149】
01.07.2007

 いよいよウラジヴォストーク入港の日。
 8時半過ぎ、お湯をもらいに行ったジャスが、船が停止していると言う。2人でデッキへ見に行くと、もう陸地が見えた。
 部屋に戻った直後、船員の男性が部屋にやって来た。キャプテンの部屋に案内してくれるという。実は昨日の午前中、キャプテンに会いたい旨受付に伝えておいたのだが、昨日は悪天候のためキャプテンは忙しく、会えなかった。半ば諦めていただけに、これはありがたい機会。ジャスを誘って案内の男性についていく。
 案内してくれた男性とはそれまでロシア語で話していたのだが、実は彼、日本語も話せた。食事の案内など、3ヶ国語で流れる放送は彼がやっていたようだ。
 キャプテンの名はセルゲイ・アレクサンドロヴィッチ。2003年からこの船に乗っているという。日本に何度も出入りしている彼も、やはり日本語を少し話せた。しばし話を聞き、いくつか質問してみた。富山からウラジヴォストークまでは、急げば最短30時間(所定約40時間)、この船の最高速度は80ノットだそうだ。キャプテンとジャスと、3人で撮った写真は良い記念になった。

 キャプテンに会った後、そのまま朝食へ。船が停まっているので実に快適な朝食だった。ウラジヴォストークで展覧会を開く日本人芸術家一行が、近くのロシア人たちに展覧会の案内をしたいというので、通訳を頼まれた。彼らは明日2日から、7日まで展覧会を行い、来週日本に帰国するのだそうだ。

 朝食の後、10時36分に接岸。港では家族や友人の帰りを待っているとみられる人々が、船の到着を待ちわびていた。ロビーには下船する人々の行列が出来ていた。急ぐ必要はないだろうと、ジャスと部屋でのんびり待つ。
 12時19分に船を下りる。船から近くの建物で行われたパスポートコントロールは一人約5分程度かかり、ここもあせらずのんびり待つ。私のパスポートコントロールもだいぶ時間がかかったが、聞かれたのは前回の出国先と、このビザでの入国は何回目かといった質問くらい。ビザの貼られたページの後ろに、船のマークと日付、ВЛАДИВОСТОКの地名が入ったスタンプが押された。昨年パリでとった今のビザでの入国は4回目。ロシアに入国するのは計6回目だが、船でのロシア入国はこれが初めてだ。

 ジャスも私も、無事パスポートコントロールを通過。青空の下、ウラジヴォストークの街が私たちを迎えてくれた。 

4 子供たちの遊び

2007-07-14 16:36:37 | Weblog

【写真:遊びに集まった子供たち 52121】
30.06.2007
 午後、一つ上の階のサロンで船に乗っている子供たちのためにゲームが行われるという放送があった。窓のない船室で寝転がってばかりいるのももったいないので、どんなものだか、私も見に行ってみた。
 日本で言えば小学生から中学生くらいまでの子供たち、15人くらいが集まっていた。私が行ったときはクイズをやっていたが、なぞなぞのようなクイズで、なかなか難しい。子供たちとは言え、私よりロシア語歴ははるかに長い人たちばかり。
 クイズの合間には、ギターの演奏に合わせて歌を歌う。私が聞いたことのある曲もあったが、歌詞までは知らない。子供たちはといえば、きれいなロシア語で皆元気よく歌っていた。
 その様子を見ながら、私には子供たちが幼い頃に学ぶようなロシア語の素養が欠けていると感じた。ロシア語を学び始めて4年目、文法や日常生活に必要な語彙は一通り身につけ、ロシアでの生活には困らないつもりである。しかし、ロシア人が使う独特の表現が、聞いて分かっても自分からは出てこないことが未だに山ほどある。
 後からいわば人工的に習得する外国語は、ある程度時間と苦労を惜しまなければ文法をマスターし、難しい語彙もかなり覚えることが出来る。だが自然な言葉を話せる基礎は、幼少時代にあるのだろう。ロシアの子供たちと同じ歌を歌ったり、なぞなぞに答えたりするのは、今の私にはまだ難しい。本当に言葉をマスターしたければ、新聞を読んだりラジオを聴いたりするのもいいけれど、子供たちのおしゃべりを聞いたり、子供向けの本を読んだりすることも実は非常に重要なことなのかもしれないと感じた。

 そんな重要なことを気づかせてくれた子供たちに、写真をとってもいいかいと聞くと、笑顔でポーズをとってくれた。ゲームを主催していた女性は、私を子供たちに紹介してくれ、一緒にどうかと席を勧めてくれた。ロシアの子供たちは、知らない人にもとてもフレンドリー。これはペテルブルクに留学していた頃から感じていたことである。

 子供たちの遊びを見学した後、部屋で休憩。起きていてもあまり問題なかったので夕食は大丈夫かなと思ったが、サラダとスープ、パンを食べてやはりリタイヤ。食事の席が近かった日本人のグループも、一人を除いて皆気分が悪いらしい。

 20時を過ぎてもまだ外は明るく、ロシアに近づいていることを感じる。夜、バーに行ってみると昨日知り合ったアメリカ人の2人組がトランプをしていた。そのうち一人が、私に、「隔てられた感じがする(I feel separated.)」と言ってきた。アメリカ人だからじっと見られるような感じがするのだという。
 バーは音楽あり、踊りあり、ゲームありで実ににぎやかだったが、全部ロシア語。彼は外国人というだけでなく、言葉が通じないこともあって、この船では孤独な感じがするのかもしれない。まだロシアへの旅は始まったばかりだから、ロシアを旅行する中で、そんな感覚はきっと変わる。そんなようなことを、私はその男性に言った記憶がある。バイクでロシアを走りぬけた頃には、きっとロシアを気に入るはず。この人にも、素敵なロシアとの出会いがありますように、そう願わずにはいられなかった。

3 船酔い

2007-07-14 16:34:57 | Weblog

【写真:船の食事(30日の朝食) 52109】
29-30.06.2007    
 夕食の時間は1時間と限られているため、乗客が一同にレストランに集まる。乗客の多くはもちろんロシア人で、日本人は予想以上に少なく、10人から15人程度のようだった。ジャスと私が昼と同じ席へ行くと、客の一人が係の女性と何かもめていた。係は私に、座席は固定であることを説明してくれと言う。最初何語を話す人か分からず、英語で話したところ初めて日本人と分かるという滑稽な事態に。
 彼はウラジヴォストークに展覧会を出しにいく芸術家一団の一人。席が空いているのにばらばらに座るよう言われたためもめていたらしいが、既にランチに来た人から席が決まっている旨説明すると納得してもらえた。その人たちは夕食がこの船での初めての食事だったため、戸惑うのも無理ないこと。

 部屋に戻った後、時計を2時間進め、ウラジヴォストーク時間に合わせる。ウラジヴォストークは日本よりも西にあるのに、不思議なことに時差は日本よりもプラスになる。船の中はウラジヴォストーク時間が基準。
《以下の記述はウラジヴォストーク時間。(GMT+10、モスクワ時間(МСК)+7)》

 深夜にちらっとバーをのぞきに行ったりしてみたが、夜行バスの疲れもあり、あまり騒がずに寝た。

 30日の朝は8時半頃の放送で目が覚めた。朝の放送や食事の案内など重要な放送のみ、ロシア語、英語、日本語の3ヶ国語がある。
 9時過ぎ、朝食へ。カーシャというロシアのおかゆに、グレーチャというそばの実を入れた珍しい料理だった。昨日の夕食のときは何ともなかったが、今朝は船がだいぶ揺れて若干気分が悪い。前回船で海外へ行ったときも船酔いがひどかったが、今回もそうなのだろうか。いや、そうはなりたくないものだと思い、朝食は全部食べて早々に退散した。

 船酔いは、部屋で寝転がっている分には問題ない。一眠りすると気持ち悪いのはおさまり、船酔いを克服したかと思ったが甘かった。
 昼食へ行ってみると、レストランの位置も関係しているのか、レストランでの揺れは結構激しく感じる。せっかくの食事だが、ボルシチの途中でリタイヤ。ジャスも船酔いにやられたらしく、私と同様、ボルシチの途中で先に帰った。

 明日の今頃はウラジヴォストークに着いている。船酔いに長く苦しめられることはないわけだが、何とも残念。ちなみに、例のアメリカ人2人組のうち1人は、海軍での経験があるため船酔いはないらしい。羨ましい限りである。

2 出港

2007-07-14 16:31:01 | Weblog

29.06.2007
【写真:出港から5分くらい。伏木港の様子。 52101】
 受付の係員が案内してくれた部屋は4人部屋だったが、イギリス人と私の二人だけだった。彼の名はジャス(ニックネーム)。彼もシベリア鉄道でモスクワへ向かい、その後イギリスへ帰るのだと言う。ロシア語、日本語をほとんど知らないというので、彼との会話は英語。せっかくロシアに来たのにと思ったが、ウラジヴォストークまでの2泊3日をともにする道連れ。言語が何であれいいじゃないかと気を新たにする。

 日本時間の14時、早速ランチが出された。船の料金には全ての食事が含まれている。ジャスと2人でレストランへ行き、食事をしながら話す。ランチのメニューはサラダ、ボルシチ、チキンとライス、それにコンポート(果物のジュース)。ライスは日本風で、粘性がある作り方だった。レストランの女性が、航海中はここがあなた方の席になる旨私たちに伝えた。

 食事を終えても、まだまだ車の積み込みは続いていた。客の呼び出しなどの放送が頻繁に流れ、なんとも慌しい様子。

 15時20分、ジャスと一緒に部屋の上の階へ行き、出国手続。受付の人によると、出国審査は急がなくて良いそうだが、もう早く手続きを終えたいらしいロシア人たちが列をなしていた。私たちもその列に並ぶ。手続きは実に簡単で、パスポートに出国のスタンプが押されて終了。船で出国するなんて、小学6年の冬以来。そのスタンプをよく観察する間もなく、パスポートはそのまま船の係に回収された。

 パスポートコントロールの後、ジャスと一緒に船を散策する。プールのところで、船員のおっちゃんに出会った。彼の名はアレクセイ・ミハイロヴィッチ。プールの中にまで車は積み込まれており、一体何台積むのかとたずねると、300台以上だと教えてくれた。
 船の中にはバーがいくつかあり、いろいろな飲み物が用意されている。日本円、ルーブルともに使えるが、私もジャスも日本円を使った。ビールは日本円で300円、ルーブルだと70ルーブルというから、今のレートでは日本円の方がちょっとお得な感じがする。ジャスとビールを飲んでいると、アメリカ人の中年から初老くらいの男性2人組が声をかけてきた。コロラド出身で、バイクでロシア、モンゴル、中央アジアを経てトルコまで行くのだそうだ。世の中にはすごい人がいるもんだと感心した。
 
 そうこうしているうちに、いつの間にか船は動き出していた。日本時間で17時30分頃。予定時刻より約30分早い出港だ。  

シベリア鉄道旅行記1

2007-07-14 16:27:55 | Weblog
シベリア鉄道旅行記
14.07.2007

昨日朝キエフに到着。ここに留学している後輩の寮に滞在しております。

エカテリンブルクまで来て、ようやく旅行記に着手できるようになりました。
今後、旅行記を書ける時間的、場所的余裕を見つけ次第、順次更新していきます。
このブログは1つの記事に1つの写真しか掲載できないので、旅行記の連番、見出しの順にタイトルをつけ、それぞれに関連する写真を載せたいと思います。

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1 日本の中のロシア 【写真:ルーシ号 52063】
29.06.2007
 昨年8月に留学から帰国して以来、この日をどれだけ待ちわびていたことか。これから乗るウラジヴォストーク行きの客船ルーシ号Русьを見て、ようやくまたロシアへ行けるという喜びがこみ上げてきた。
 
 日本からシベリア鉄道の始発、終着地であるウラジヴォストークまで行く客船は、唯一富山・伏木港から発着するルーシ号のみ。28日の夜、大学の同期と後輩に見送ってもらいながらつくばを発ち、東京から夜行バスで高岡入り。高岡は朝から大雨だったが、一時止んだのを見はからって瑞龍寺というお寺を見学してみた。お昼、普通列車で伏木へ。ルーシ号の出港時刻は18時だが、出国審査の関係で、14時までには乗船しなければならない旨案内を受けていた。そのため、かなり余裕を持って、13時前には伏木に到着した。

 ウラジヴォストークへ行く唯一の客船の出港地とあってはさぞ栄えているだろうと思ったが、そんなことはなかった。スーツケースがあるのと、港までどれだけ離れているか分からなかったためタクシーに乗る。そのタクシーも、駅前に1台待機していただけ。
 運転手のおっちゃんの話によると、この町はロシア人の出入りはあるが、住んでいるロシア人は少ないらしい。
 タクシーは2,3分で港に着いた。案外近かったようである。船から少し離れたところには有刺鉄線が張られ、制限区域である旨の表示があった。タクシーはその中には入れず、船の少し手前で下りた。
 
 船の周囲では、これから積み込むとみられる車やタイヤなどの準備をする人が多数いた。
クレーンでどんどん車が積み込まれていく。1台ずつ、タイヤの部分を固定してクレーンで吊り上げる。その手際の良さは職人技。噂には聞いていたが、客と一緒にこうして車も輸出されていくのだ。

 船に横付けされた階段を上がって乗船すると、そこはもうロシアの匂いが漂っていた。ロシア人、周りでとびかうロシア語、船のつくり(トイレ、シャワー、鍵など、大きなものから小さなものまで何もかも)、全てが、日本の港でありながら日本の空気を一切遮断するようだった。
 受付の人や周囲の人々とロシア語で話す喜び。もうロシアに来たんだ。出港する前から、懐かしさを感じた。
  

ウラジヴォストークに到着

2007-07-01 15:45:32 | Weblog
01.07.2007

今朝ウラジヴォストーク港に到着。
駅前のインターネットカフェは日本語も入力できるので、そこからブログを更新しています。

時間も限られているので、何から書いたら良いものか...。

おととい富山の港から船に一歩足を踏み入れた瞬間、そこはロシア。放送も船員との会話もロシア語、部屋もトイレも何もかもがロシア風。日本を発つ前からもうロシアに来た気分を味わえる最高の船でした。
最高の航海だったと言いたいところですが、天候が悪いためか船が揺れ、私も含めて多くの人が船酔い。なかなか食事を食べることができませんでした。
船酔いになった以外は、同室のイギリス人、知り合いになったアメリカ人らとバーに行ったり、偶然出会った日本人一行と話したり、楽しい船旅でした。

今日のウラジヴォストークは晴れて暑いくらい。たまたまウラジヴォストークの誕生日と重なり、町は賑やかです。
詳しくはまた後で追加する予定です。
これから再び町を散策し、今夜21時35分(モスクワ時間14時35分)発の列車でイルクーツクへ向かいます。