ロシアの北都 サンクトペテルブルク紀行

2005年秋から留学する、ロシアのサンクトペテルブルク(旧レニングラード)での毎日を記します。

ペテルブルクの誕生日

2006-05-28 18:59:08 | Weblog
28/05/06

【写真:昨日、ネフスキー大通りで行われたカーニバルの一つ。】

 西方見聞録が未だに完結しておりませんが、ちょっとペテルブルクの出来事を一つ。
 昨日5月27日はペテルブルク303周年の誕生日。ネフスキー大通りで大規模なカーニバルが行われ、この週末街はお祭り騒ぎです。
 このペテルブルクの誕生日と、私がロシアにいて最も感激した5月9日の戦勝記念日の様子は、西方見聞録を完結させた後に詳細に記述する予定です。

西方見聞録18 大聖堂の街-ケルン16/04-

2006-05-25 21:06:23 | Weblog
【写真:ケルン大聖堂(16/04)】 

旅程
《16/04/06 ユトレヒト→ケルン(続き)》

 短かったオランダ観光を終え、ユトレヒトの駅へ。Nはバス乗り場まで見送りに来てくれた。「ケルンくらいまでだったら一緒に行っても良かったね。」などとNは話すが、今日はここでお別れ。次にNと会うのは日本でということになるかもしれない。
 実は昨日、ロシアにも是非と誘ったのだが、即座に一言、「えーっ、こわーい!。」と言われてしまった。ロシアはやっぱり怖いと思われてるのかなと一瞬とても残念に思ったが、どうやらロシアだからということではなく、Nは大きい街を恐れているようであった。昨年パリのIをNが訪れた際も、パリが怖かったのだという。
 なるほど、ユトレヒトのような静かな、小さな街で暮らしていればパリやペテルブルクのような大都会をおそれるのも無理はないが、オランダではいろいろとお世話になったことだし、是非ペテルブルクにもきてほしいなと思う。

 バスは定刻よりも遅れて到着し、25分遅れでユトレヒトを発車した。
 時折現れる、なかなかまともに読めない道路標識を見ながら、Iと、「どこでパスポートコントロールなのかな?スタンプもらえるかな?」「さすがに国境では停車するくらいするでしょう。」などとパスポートコントロールを心待ちにしていたが、期待は見事に裏切られた。
 バスはオランダ・ドイツ国境を素通り(そもそも、国境がどこだったのかすらおよそ見当がつかなかった)し、いつの間にかドイツに入国。パスポートにはスタンプなど「ス」の字ももらえなかった。そういえばスイスからフランスに入ったときも、フランスからオランダに入ったときも(スイス側出国で、スタンプなしでパスポートをチェックされたのを除いて)パスポートコントロールはなかったわけで、改めてEUの国境感覚には度肝を抜かれた。

 途中で1カ所休息地に寄り、ユトレヒトから4時間弱でケルンに到着。私は昨年12月にイタリアのヴォローニャからフィンランドのヘルシンキへ行く途中ここで一泊しており、今回が2回目のケルン訪問。とはいえ、前回は夜到着して翌朝出発だったから観光らしい観光をするのは今回が初めてとなる。

 今回の私の旅行、ロシアを出発して以来エストニアではロシア語が通じたし、スイスではスティーブン、クリスに、フランスではIにそれぞれ現地語に通訳してもらった。そのためあらゆる場面で問題なく英語が通じたオランダを除いて、このケルンが唯一、現地語を話せる人がいないという、コミュニケーション面で不安がある場所。Iと私で計4カ国語(フランス語、ロシア語、英語、日本語)が使えるとはいえ、うち3つは明らかに「エリア外」。
 やむを得ず駅では唯一通じる可能性がある英語で、空港までの一日乗車券のようなものがあるかと聞いてみたがいまいち分かってもらえず。ここは英語が通じなくても腹を立てる場所ではないということは重々承知しているが、言葉が通じないと言うのはやはり不便。ドイツエリアをカバーするベルリンのHの登場(明日)が待ち遠しいところ。
 
 

西方見聞録17 静かな時間が流れる街-ユトレヒト16/04-

2006-05-25 21:03:23 | Weblog
【写真:街の中の水路と岸辺のカフェ(16/04)】 

旅程
《16/04/06 ユトレヒト→ケルン》
昼ユトレヒト観光
15:25 ユトレヒト駅前発 EUROLINESのバス
19:18 ケルン駅前着

 昨夜はどういうわけかNの同室の先輩と4人でホラー番組を見ていたため寝るのが遅く、ために起きるのも遅くなり、午前中は寮でゆっくりする。

 お昼からNの案内でユトレヒト2時間観光を敢行。
 Nは学校の勉強が忙しく、あまり観光に出かけることはないという。そのため街の中には、Nも初めてだという場所があるらしい。その一つ、大きな時計台の側の教会に入った時のこと、出口でおばちゃんが私達に、"Happy Easter!!"と声をかけてくれた。そういえば、今日はちょうどキリスト教のイースターの日にあたるのだということを思い出す。それにしても、このおばちゃんといい、街の路上のアイス売りといい、カフェの店員といい、皆英語を話す。一応ここは非英語圏のはずなのに、英語を話すことに罪悪感を感じなくなってしまった。

 2時間で観光できるのかと心配だったが、ユトレヒトはそんなに大きな街ではなく、街の雰囲気をつかむには十分だった。街中に水路があり、そこを小さなボートが行き来し、岸辺のカフェで人々が休息し...。規模こそは違うが、わがロシアの第2の都(私にとっては第1の都)ペテルブルクに通じる風景がそこにはあった。
 天気は最高に良かった。青空の下、既に公園の木の花や道路沿いの小さな花は咲き始めていた。春に足を踏み入れたユトレヒトには、上品さと静けさがあった。この街の雰囲気とおっとりとしたNの性格が調和しているようで、ユトレヒトはNにはぴったりの、Nらしい留学地だと私は思う。Nもこの街をとても気に入っているようで、Nの留学生活も充実しているようだ。
   

西方見聞録16 Nの手作りカレー-ユトレヒト15/04-

2006-05-25 21:01:38 | Weblog
【写真:Nの寮にてカレーを食べる(15/04)】 

旅程
《15/04/06 アムステルダム→ユトレヒト(続き)》

 夕方、アムステルダムから列車でユトレヒト入り。Nはこの街で国際法を勉強している。
 Iと私はNの寮に泊めてもらうことに。彼女の部屋は2人部屋で、同室の人は同じ大学の、NとIのゼミの先輩。驚いたことにその人は私と同じ山形の出身で、私の母の実家の近くに住んでいたという。そのため今はなきローカルスーパー「みつます」や、近所の高校のことなどが話題に上り、世の中狭いものだなと感じた。まさかオランダのど真ん中で初めて会う人と地元トークで盛り上がるとは思わなかった。

 夕食はNがカレーを作ってくれるという。キッチンはフロアで共用で、フランス人、ベルギー人など各地からの留学生が集う場になっている。Iや私と違いここの人々はオランダ語を学んでいるわけではないので、言語が違う人どうしでの会話はもっぱら英語。留学生どうし皆中が良さそうで、Nもその留学生コミュニティーの中に自然にとけ込んでいた。共同生活を営みながら、こうして皆気軽に接することができる環境は本当に素敵だと思う。
 ちなみにIはフランス語が話せるベルギー人などをつかまえて、ここでもフランス語会話を実践していた。もしかしてロシア人もいるかなと私は期待したが、残念ながらロシアからは来ていないらしく、私のロシア語はお呼びでなかった。

 そうこうしているうちに出来たカレーは、まさに日本にいたときに食べていたのと同じ味。いったい何カ月ぶりに食べたことか。諸外国でも日本の味を再現できるなんて、Nは素敵な料理人だ。およそ料理というものが極めて苦手な私には、こんなにおいしいカレーを作れるNが神様のように思えた。
  
  

ロシアへ来てくれるみんなへ

2006-05-24 19:47:41 | Weblog
24/05/2006

今日は雨のペテルブルクです。
(今日の記事はロシア訪問者向けです。)

夏休みを利用して留学先や日本からロシアへ来てくれるみんな、本当にありがとう。

今回はビザについて一般的な情報を記述しておきます。質問に応じて個別にメールもしていますが、ロシアを訪れたいという読者の方の参考になればと思い、ブログにも載せておくことにしました。

これまでも何度かこのブログで触れてきた通り、ロシア入国、滞在にはビザが必要です。ロシアビザには目的(観光用、業務用、留学生用など)、期間(30日、90日、1年以上など)、入国可能回数(シングル:1回のみ入国可、ダブル(2回まで入国可)、マルチ(無制限))の組み合わせによって様々なパターンのものがありますが、通常旅行者が取得するのは「シングル」の「観光ビザ」になります。

「シングル」ということについて念のため解説を加えておくと、このビザでは1回のみ出入国が可能なので、ペテルブルクに来てからちょっとフィンランドへ1日観光に出てまたロシアに再入国して帰るということはできません。そのような旅行日程を組む場合は、「ダブル」または「マルチ」のビザが必要となります。(このような旅程の人は今のところいませんが...)

さて、ビザ取得の方法ですが、残念ながらロシアビザは各国駐在のロシア大使館、領事館へ行けばすぐに取れるというものではありません。

観光ビザを取得するには、原則として旅行代理店などを通して事前にロシア国内の移動手段、ホテルを全て予約し、その予約証明書を持参しなければなりません。が、ロシア内務省発行の招待状があればバウチャーは必要なく、招待状記載の期間、目的のビザが取得でき、事前にホテルなどを予約するより安く、自由に旅行が出来ます。(ロシア国外の旅行代理店でも招待状を取り扱っているところがあるらしいですが、私は利用したことがないので正確にはわかりません...)。
ロシアを個人旅行される方は、事前に旅行代理店に相談するなどしてバウチャーor招待状を取得することが必要です。

今回来てくれるみんなには、私の方では当地の旅行代理店を通して招待状を手配しますので、招待状(短期の観光ビザの場合、FAX、スキャナ画像のカラープリントなどでも可)を大使館に持参してビザを取得するという流れになります。

招待状の取得、ビザの取得にはそれぞれ手数料がかかります。
ビザ取得の手数料は大使館によって異なりますので、自分がビザを申請しようとする大使館で予め確認しておくことをお勧めします(例えば、日本なら2週間待てば無料など)。ビザはパスポートの査証欄のページに貼られるシール状のものです。ビザの申請期間中はパスポートを大使館に預けるため、申請中は当該の国から出国できなくなります。ビザ申請期間が国外旅行の日程と重複しないよう十分ご注意ください。

ビザの種類によってはエイズテストの結果を持参しなければならないものもありますが、短期の観光ビザには必要ありません。
(なお、今回来てくれる人向けに私が手配する招待状の期間(=ビザの期間)は旅行期間を含む30日を設定していますが、審査が厳しいといわれる大使館(パリなど)の場合にはより正確な期間と、(場合によっては招待状があっても)旅行日程の提示を求められるとの情報があり、そのような大使館へ申請する場合には個別に設定を変えることになります。)

ビザを入手できたら手続き上ロシアへの入国準備は完了ですが、入国後にはロシア国境通過から休業日を除いて72時間以内に外国人登録が必要です。(ただし、列車で入国する場合であって、72時間以内に目的地に到達できない(要するに3日以上列車に乗りっぱなし)ため外国人登録が出来ないときはその列車の乗車券があれば72時間を過ぎても問題なく登録できます)。

外国人登録を行なわなくても偶然出国できたという例はたまに聞きますが、パスポートコントロールが比較的易しい場所(鉄道や道路の国境)ではそんなこともあるのでしょう。しかし原則として無登録では出国の際に罰金が科されることになっています。この外国人登録は宿泊先のホテルやホステルで出来ますが、列車に泊まったり、ホームステイをしたりする場合は旅行代理店などで行ないます。

旅行代理店で登録を行なう場合には手数料がかかりますが、72時間以内に出国する場合や、間に土日を挟んで4日間のみ滞在する場合など、外国人登録が必要ない場合もあります。逆にいえば、このことを考慮して外国人登録の必要が無い日程を組むというのも一つの方法といえます。

今回ペテルブルクに来てくれるみんなには以上のようなビザの手続も含めて個別に案内していますが、一般的なこととして知っておいてもらえたらなと思います。

そして何より、ビザが必要な国なんてそんなに多くないので、自分のパスポートの1ページに堂々ときれいなロシアビザが貼られることを楽しみにしておいてください。

最後にもう一つ、みんな留学先でそれぞれの言語を学んでいるので、さらに「ロシアに来る以上はロシア語も!」とはさすがに言いませんが、キリル文字の読み方だけでも覚えておいたら駅名や商品名くらいは読めて、大変便利かと思います。(ロシア語をやっているNは別だけどね!)英語のガイドブックがあったとしても、キリル文字から発音が分からなければ読めません。街の看板はもちろん、メトロの案内表示にも英語表記はまずありませんので、知っているのと知らないのとでは大きな違いがあります。

そういえば、4月に来たパリのIもキリル文字はしっかり読めてましたね。

何かと準備段階での面倒が多いロシア旅行ですが、ロシア、特にペテルブルクはその苦労を1万倍以上上回る満足を与えてくれること間違いなし。
ロシア旅行を計画中のみんなにペテルブルクを案内するのを楽しみにしてます!

ロシアブーム到来

2006-05-22 18:36:42 | Weblog
22/05/2006
 白夜が始まったペテルブルクは夜遅くまで明るく、街は日毎に活気を増しているようです。ここのところ旅行の記述ばかりですが、旅行の記述が終わり次第、ペテルブルクでの主な出来事を遡って記述したいと思います。

 西方見聞録の合間に、ちょっとだけ昨日の出来事を...

* * * * *
 日付が変わる直前の23時50分過ぎ、携帯電話が鳴った。画面を見ると、発信者の番号が+42で始まっており、国外からの電話であると分かった。
 42なんて国番号あったかなと思いながらも出てみると、男の声で日本語が聞こえてきた。電話の相手はなんとチェコのM。ちょうど1,2時間前にインターネットカフェでアムステルダムでのMの様子について記述した「西方見聞録15」をアップしてきたところだったから、何とも絶妙なタイミング。

 彼は、「ちょっとロシア行こうと思ってさ。」と話し始めた。チェコでの授業が終わりに近づき、かなり時間が出来たらしい。夏休みにはロシアにも来たいと言うので、それはもう大歓迎。

 最近私の周囲でロシア訪問希望者が急増中。
 既にフランスのI(4月)と祖父母(今日帰国)の3名はペテルブルク、モスクワを観光した。7月に訪問予定(ほぼ確定)の人は3名。うち現在1名が招待状の手続き中、2名が日程調整中、さらに今日メールで同じゼミの人から「夏休みにロシアに行きたい」と相談を受けたばかり。これにMも加わり、今のところ夏休みには大学の同級生ら合計5名がロシアを訪れる予定である。となると、同期の約1割がロシア経験ありという計算になり、それはそれで素敵なことだ。
 私の方では招待状の準備や旅行アドヴァイス、案内など旅行代理店モードになるが、ロシアに来てくれるという人がいるだけでとてもありがたいこと。ビザや諸手続が他の諸外国より若干面倒なためロシアは旅行ルートから外されがちだが、ロシアを見ないのは本当にもったいない。「ナポリを見てから...」という諺があるが、ナポリを見なくても、ペテルブルクは多くの人に見てほしい。
 Mのように「ちょっとロシアに」という感覚で気軽にロシアに来てくれる人がもっと増えたらなと思う。

* * * * *

 夏休みはどこか海外にと考えている方、ロシアはとても素晴らしい国なので一生に万度訪れる価値はあります。白夜のペテルブルクに来たければ今からでもまだ間に合いますよ!!
 と宣伝しておきます。
  


西方見聞録15 珍メンバーでの観光-アムステルダム15/04-

2006-05-22 02:38:59 | Weblog

【写真:Heinekenのビール試飲コーナーにて、その場にいた観光客とノリで記念撮影。(15/04)】 

旅程
《15/04/06 アムステルダム(続き)》
 
 アムステルダム観光のはじめに行ったレストランで、Iがいきなり「4人で写真を撮ろう」と言い出した。私が記念写真を撮影するのは日常茶飯事だが、Iが自ら言い出すなんて珍しい。店員に頼んで写真をとってもらい、彼は満足した模様。後でIが語ったところによると、このメンバーがオランダで顔を合わせたことに感激したのだという。確かに私達4人はそれぞれ異なる国で留学しているものの、同じ学類の仲間。Iはフランス・パリから、Mはチェコ・プラハから、Nはユトレヒトから、私はロシア・ペテルブルクからそれぞれやって来てこうしてアムステルダムで一緒になるなんて、なんだか夢のようである。

 Mについて簡単に記述しておきたい。彼は同じクラスであるばかりでなくゼミまで一緒で、日本にいた頃はよく話をした。分野を問わず様々な話題について議論するのが好きで、話していて大変面白いが、私の行動や発言のさっぱり面白くないところに突っ込みを入れて一人で喜んでいるあたりは、私の理解の及ぶところではない。
 彼は私と同じくスラヴ語系の言語(チェコ語)を学んでおり、ロシア語との単語や文法事項の共通点についてよく話題となる。たまにロシア語とチェコ語で会話を試みるが、意志疎通はやはり難しい。チェコ語はかなり難しそうで、そんな言語に挑戦しているMはすごいなと思う。昨年12月にイタリア旅行に行った時のこと。フィレンツェのアパートでIも参戦し、当時第二外国語をあまりやっておらず、どこでも英語で通していたアメリカ留学中のM原K太を「英語支配の権化」とみなしてそれぞれの言語で集中攻撃したことは記憶に新しい。それぞれの言語と言ってもフランス語、チェコ語、ロシア語ではお互い通じ合えるわけもなく、英語支配に異を唱えながら結局皆が理解できたのは、皮肉なことにK太が発する英語だけだった。それでもどういうわけかI、Mと私の3人には妙な連帯感が生まれていたのだった。

 さて、半日観光のメインはHeinekenのビール工場。入場料は10ユーロと一見高そうだが、実はビール(0.25リットル)3杯まで試飲ができ、さらにおみやげ(Heinekenオリジナルグラス)つきだからかなりお得。入り口で白、オレンジのプレートを各1枚、緑のプレートを2枚もらう。これらのプレートがビールとおみやげの引換券がわりとなる。
 中にはいくつかアトラクションがあったが、中でも記述しておきたいのは踊りのコーナー。1杯目のビールコーナーでビールを試飲した後には、踊りのコーナー(スクリーンの映像と音楽に合わせて踊りを踊り、自分たちが踊っている映像を電子メールで配信されたアドレスをクリックすることでネット上からダウンロードできるサービス。一度に4人くらいが一緒に踊れる。)があり、それに参加するかどうかが問題となった。人々が結構並んでいたが、いつでもノリが良いNはやる気Max。そんなNにつられて私もやる気上昇。IとMは引き気味だったが、せっかくの機会に踊ることに。
 いざ始まってみるとNは調子よく踊ってくるくる回る。彼女につられて私と、最初はやる気なさげだったIも何だかんだで映像に合わせて踊ってみたが、Mは最後までやる気なしだった模様。彼は最初はニヤニヤしながら踊る真似をしていたが、後半は映像に何やら突っ込みを入れていた。わずか50秒間だったが、4人の性格がよく現れた、とても良い思い出になる映像が残った。

 その後さらにビールを2杯ずつ飲んだ頃には皆適度に調子良くなり(Mは既に顔が真っ赤であった)、付近にいた観光客に手当たり次第に声をかけて話をしたり、写真を撮ったりする。向こうも同じくらい既にビールを飲んでいるから、かなりフレンドリーで良い雰囲気だった。

 ビール工場を出て次は「アンネの家」へと向かう。ビールを飲んでからアンネの家を見に行こうなんて、不謹慎極まりない。普通順番が逆だろうなどとみんなで話したが、幸か不幸かそれは杞憂だった。あろうことかアンネの家の入り口にはずらっと2時間待ちくらいの行列ができていたのである。中に入るのは断念し、外側から家を見る。
 美しい運河沿いの、何の変哲もない住宅街にアンネの家はあった。そこがあまりに平凡な住宅街だったので私達は拍子抜けしたが、側には"ANNE FRANK 1929-1945"と文字が浮き出た台座の上に立つアンネの像があり、16歳の少女がこんな所でナチスから逃れる生活を送っていたのかと思うと心痛まずにいられなかった。その像と一緒にビール工場帰りの観光客4人組が記念撮影をするというのには、一抹の後ろめたさを感じないでもなかったが、ここを訪れた記念を残しておく。

 アムステルダム中央駅に向かう途中、いつも突っ込み役のMの口数がいつもよりやけに少ない。どうやら先ほどのビール3杯がきいているらしかったが、ある通りにさしかかった時、ニヤニヤしながらおもむろに、「ねえ、あの店エロティックだよ。」と一言。果たしてMの指さした先には...確かにエロティックな店があったが、いきなり口を開いたと思ったらそんなことを言うので皆大変面白がった。さすがM、寡黙だったのはこの発言を際立たせるための準備だったのか。
しかし今日のMは明らかに普段とは違っていた。トランバーイの中でポカンと口を開けて寝てしまったのである。Mがどんな旅行をしてきたのか知らないが、相当お疲れだったらしい。
 
 あっという間に半日観光は終わり、アムステルダム中央駅でMと別れる。(実はここでちょっとしたハプニングがあったのだが、それは4人だけの秘密ということで...。)
 Iと私はNの持っていた割引カードのおかげで4割引で鉄道の切符を購入し、3人で次なる目的地、Nの街ユトレヒトへと向かう。
 

西方見聞録14 「「こんにちは」は「ハロー」だよ!」-アムステルダム15/04-

2006-05-20 23:00:23 | Weblog

【写真:Nと合流し、パリから乗ってきたTGV「タリス」と記念撮影。(アムステルダム中央駅にて。ちなみにこの写真、昨年9月に新しいデジカメを買って以来ちょうど5000枚目となった。)15/04)】 

旅程
《15/04/06 パリ→アムステルダム》
06:55 TGV「タリス」9309列車でパリGARE DU NORD発
11:15頃 アムステルダム中央駅着
   オランダ留学中のN、チェコ留学中のMと合流
   ビール工場などアムステルダム市内観光
夕方 Mと別れてユトレヒトへ

 パリからIと私が乗ったタリスの車内では、フランス語、オランダ語、ドイツ語、英語の4カ国語で放送が流れた。フランス語はやっぱりきれいな言語だなと思いながら外を眺めていると、列車はぐんぐん速度を上げていく。7時19分に検札係がまわってきた頃には日本の新幹線と変わらない速度になっていて、諸外国にもこんな高速鉄道があることに改めて感心させられた。

 約4時間ちょっとのタリスの車中、Iと言語の話や、「なっちゃん(これからオランダで会うNのこと)はオランダ語覚えたのかな?」などと大学の友達の話をする。

 オランダのユトレヒトに留学しているNと私は、大学一年の時英語上級のクラスで知り合った。彼女はカナダ留学の経験もある国際派。明るくて大変面白い人である。ユーラシア大陸の比較的西部に留学している同じ学類の同期は、既に帰国した人も含めて7名(6カ国)いるが、Nはその中で唯一語学ではなく、国際法を学びに来ている。授業は英語のためオランダ語をほとんど知らないらしいが、今回の旅行ではIとともに、いろいろな言語のしくみについてそれぞれの国に留学している人に聞きながら比較するのが大きな楽しみになっており、オランダ語についても、「いくら授業が英語でも、もうさすがにある程度はオランダ語も話せるでしょう。」「そうだよね、なっちゃんにオランダ語教えてもらおう!」ということを車内で話した。
 
 ブリュッセルを出てまもなく、車内放送の出だしがオランダ語に変わった。アントワープを経てオランダに入ると、車窓には川や水路が多くなった。中学の地理の資料集で見たのと同じ、想像通りの風景。いくつもの橋を渡り、列車はフランスの時より速度を落としてゆったりと走る。

 定刻より若干遅れてアムステルダム中央駅に到着すると、Nがホームに迎えに来てくれていた。彼女もとても元気だったが、些細なことにもリアクションがMAXでIと私はそっちのほうにびっくりさせられた。
 早速、「オランダ語で「こんにちは」って何て言うの?」と聞いてみると、即座に「ハローだよ!」という答えが。絶句するIと私。彼女曰わく「こんにちは」は英語と同じらしいが、にわかに信ずるわけにはいかなかった。何でも、街中で英語が通じるらしく、オランダ語を話す機会は滅多にないというので、おそらくNの勘違いではないだろうかとIと私は思った。
 せめてあいさつだけでも現地語でと思っている私たちとしては、オランダ語の「こんにちは」を知りたかったのだが、まもなく、どうやらその必要はなさそうだということを知ることになる。
 Iと私の荷物を預けようとコインロッカーに寄ったときのこと、ロッカーはほとんど一杯で空きがわずかだった。その際、Nは周囲の人と普通に英語で話し、それで通じていた。旅行客ならそんなこともあろうかと思っていたが、駅の両替所でも窓口の係は皆自然に英語を話す。あたかも英語圏に来たかのよう。これなら、「こんにちは」が「ハロー」だと言われてもひとまず納得。

 今日は、チェコに留学中の同級生Mも偶然オランダ旅行でアムステルダムに来ており、駅で彼と待ち合わせた。彼は私を見るなりやっぱりバカにしてくれた。「つっちー、(観光に)それ(スーツケース)持ってくの!?」
 実は私のスーツケース、ロッカーに空きがなくて入れられなかったのである。そこで仕方なくウォッカなど重い物を取りだし、スーツケースを引きずって観光へ行くことにしていたのだ。昨年12月の旅行ではエクセスチャージの常習犯だった私がまたしても大荷物を持ってきたことが、Mには面白かったらしい。Mはいつでも私をバカにしてくれるが、その突っ込みがまた楽しく、旅行中の話のネタになることもしばしば。

 Iと私に加え、リアクションはやたら大きいがどこかとぼけた感じのNといつもマイペースなM、かつて経験したことがない組み合わせでアムステルダム半日観光が始まった。 

  

日本からの来客

2006-05-17 18:35:44 | Weblog
17/05/06
 今日は昨日に引き続きちょっと肌寒いペテルブルク。実は昨日夜から祖父母がペテルブルクに来ています。ツアーで来たから日中特に案内することはないけれど、朝晩の自由時間にホテルに行ったりして話をしています。

 滞在先のホテルはフィンランド湾に面した超高級ホテル。私も含めて大多数のペテルブルク住民には無縁の場所で、初めて入ってみましたが、朝食が384ルーブル、500ミリリットル入りペットボトルの水が50ルーブルという、とんでもなく物価が高いホテルです。滞在者はもちろんほとんどが外国人(ロシア人じゃないってこと)。このロシア、ペテルブルクにあって、そのホテルの中だけ異様な雰囲気が漂っておりました。
 
 

西方見聞録13 さらばパリ-パリ14/04~15/04-

2006-05-16 23:28:25 | Weblog

【写真:凱旋門の屋上から見たエッフェル塔(14/04)】 
旅程
《14/04/06 パリ(続き)》
《15/04/06 パリ→アムステルダム》

 パリ最終日の夜は初めて凱旋門へ上った。長いらせん状階段を上りきると、文字通り中心からパリの全てを見下ろすことが出来た。シャンゼリゼ大通り、エッフェル塔、モンマルトルの丘、ビジネスオフィスが入っていると見られる高いビル群...。360度の眺望を目に焼き付ける。Iの街パリは大きかった。Iも素敵な街で勉強しているのだなということがよく分かった4日間だった。
 パリを見ただけでフランスを理解したことにはならないが、普通の観光客と今回の私の違いは、パリで暮らしているIのおかげでフランス人やフランスの政治、社会について多少なりともそれまで知らなかったことを知ることが出来たという点。私がロシアについて考えるのと同様、彼もフランスについていろいろと考えることは多いようである。Iはまた、店やレストラン、ホームステイ先などあらゆる場面で通訳もしてくれて、大変心強かった。彼には本当に感謝している。
次回フランスに来る機会には、パリだけではなく周辺の町へも行ってみたいものである。その時は通訳なしでまともにフランス語が使えるように、今から努力しなければ。

*  *  *

 4月15日午前6時47分、まだ薄暗いパリGARE DU NORD14番線には真っ赤な車体のTGV「タリス」9309列車が入線していた。
 4日前列車でやって来たパリを、私はまた列車で去ろうとしている。私にとってのパリとの別れは、Iにとってロシアへの旅の始まりでもある。それぞれに異なる感慨があるに違いない。
 6時55分、次の目的地、オランダ アムステルダムへ向けて、列車はゆっくりとホームを離れた。