ロシアの北都 サンクトペテルブルク紀行

2005年秋から留学する、ロシアのサンクトペテルブルク(旧レニングラード)での毎日を記します。

ロシアブーム到来

2006-05-22 18:36:42 | Weblog
22/05/2006
 白夜が始まったペテルブルクは夜遅くまで明るく、街は日毎に活気を増しているようです。ここのところ旅行の記述ばかりですが、旅行の記述が終わり次第、ペテルブルクでの主な出来事を遡って記述したいと思います。

 西方見聞録の合間に、ちょっとだけ昨日の出来事を...

* * * * *
 日付が変わる直前の23時50分過ぎ、携帯電話が鳴った。画面を見ると、発信者の番号が+42で始まっており、国外からの電話であると分かった。
 42なんて国番号あったかなと思いながらも出てみると、男の声で日本語が聞こえてきた。電話の相手はなんとチェコのM。ちょうど1,2時間前にインターネットカフェでアムステルダムでのMの様子について記述した「西方見聞録15」をアップしてきたところだったから、何とも絶妙なタイミング。

 彼は、「ちょっとロシア行こうと思ってさ。」と話し始めた。チェコでの授業が終わりに近づき、かなり時間が出来たらしい。夏休みにはロシアにも来たいと言うので、それはもう大歓迎。

 最近私の周囲でロシア訪問希望者が急増中。
 既にフランスのI(4月)と祖父母(今日帰国)の3名はペテルブルク、モスクワを観光した。7月に訪問予定(ほぼ確定)の人は3名。うち現在1名が招待状の手続き中、2名が日程調整中、さらに今日メールで同じゼミの人から「夏休みにロシアに行きたい」と相談を受けたばかり。これにMも加わり、今のところ夏休みには大学の同級生ら合計5名がロシアを訪れる予定である。となると、同期の約1割がロシア経験ありという計算になり、それはそれで素敵なことだ。
 私の方では招待状の準備や旅行アドヴァイス、案内など旅行代理店モードになるが、ロシアに来てくれるという人がいるだけでとてもありがたいこと。ビザや諸手続が他の諸外国より若干面倒なためロシアは旅行ルートから外されがちだが、ロシアを見ないのは本当にもったいない。「ナポリを見てから...」という諺があるが、ナポリを見なくても、ペテルブルクは多くの人に見てほしい。
 Mのように「ちょっとロシアに」という感覚で気軽にロシアに来てくれる人がもっと増えたらなと思う。

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 夏休みはどこか海外にと考えている方、ロシアはとても素晴らしい国なので一生に万度訪れる価値はあります。白夜のペテルブルクに来たければ今からでもまだ間に合いますよ!!
 と宣伝しておきます。
  


西方見聞録15 珍メンバーでの観光-アムステルダム15/04-

2006-05-22 02:38:59 | Weblog

【写真:Heinekenのビール試飲コーナーにて、その場にいた観光客とノリで記念撮影。(15/04)】 

旅程
《15/04/06 アムステルダム(続き)》
 
 アムステルダム観光のはじめに行ったレストランで、Iがいきなり「4人で写真を撮ろう」と言い出した。私が記念写真を撮影するのは日常茶飯事だが、Iが自ら言い出すなんて珍しい。店員に頼んで写真をとってもらい、彼は満足した模様。後でIが語ったところによると、このメンバーがオランダで顔を合わせたことに感激したのだという。確かに私達4人はそれぞれ異なる国で留学しているものの、同じ学類の仲間。Iはフランス・パリから、Mはチェコ・プラハから、Nはユトレヒトから、私はロシア・ペテルブルクからそれぞれやって来てこうしてアムステルダムで一緒になるなんて、なんだか夢のようである。

 Mについて簡単に記述しておきたい。彼は同じクラスであるばかりでなくゼミまで一緒で、日本にいた頃はよく話をした。分野を問わず様々な話題について議論するのが好きで、話していて大変面白いが、私の行動や発言のさっぱり面白くないところに突っ込みを入れて一人で喜んでいるあたりは、私の理解の及ぶところではない。
 彼は私と同じくスラヴ語系の言語(チェコ語)を学んでおり、ロシア語との単語や文法事項の共通点についてよく話題となる。たまにロシア語とチェコ語で会話を試みるが、意志疎通はやはり難しい。チェコ語はかなり難しそうで、そんな言語に挑戦しているMはすごいなと思う。昨年12月にイタリア旅行に行った時のこと。フィレンツェのアパートでIも参戦し、当時第二外国語をあまりやっておらず、どこでも英語で通していたアメリカ留学中のM原K太を「英語支配の権化」とみなしてそれぞれの言語で集中攻撃したことは記憶に新しい。それぞれの言語と言ってもフランス語、チェコ語、ロシア語ではお互い通じ合えるわけもなく、英語支配に異を唱えながら結局皆が理解できたのは、皮肉なことにK太が発する英語だけだった。それでもどういうわけかI、Mと私の3人には妙な連帯感が生まれていたのだった。

 さて、半日観光のメインはHeinekenのビール工場。入場料は10ユーロと一見高そうだが、実はビール(0.25リットル)3杯まで試飲ができ、さらにおみやげ(Heinekenオリジナルグラス)つきだからかなりお得。入り口で白、オレンジのプレートを各1枚、緑のプレートを2枚もらう。これらのプレートがビールとおみやげの引換券がわりとなる。
 中にはいくつかアトラクションがあったが、中でも記述しておきたいのは踊りのコーナー。1杯目のビールコーナーでビールを試飲した後には、踊りのコーナー(スクリーンの映像と音楽に合わせて踊りを踊り、自分たちが踊っている映像を電子メールで配信されたアドレスをクリックすることでネット上からダウンロードできるサービス。一度に4人くらいが一緒に踊れる。)があり、それに参加するかどうかが問題となった。人々が結構並んでいたが、いつでもノリが良いNはやる気Max。そんなNにつられて私もやる気上昇。IとMは引き気味だったが、せっかくの機会に踊ることに。
 いざ始まってみるとNは調子よく踊ってくるくる回る。彼女につられて私と、最初はやる気なさげだったIも何だかんだで映像に合わせて踊ってみたが、Mは最後までやる気なしだった模様。彼は最初はニヤニヤしながら踊る真似をしていたが、後半は映像に何やら突っ込みを入れていた。わずか50秒間だったが、4人の性格がよく現れた、とても良い思い出になる映像が残った。

 その後さらにビールを2杯ずつ飲んだ頃には皆適度に調子良くなり(Mは既に顔が真っ赤であった)、付近にいた観光客に手当たり次第に声をかけて話をしたり、写真を撮ったりする。向こうも同じくらい既にビールを飲んでいるから、かなりフレンドリーで良い雰囲気だった。

 ビール工場を出て次は「アンネの家」へと向かう。ビールを飲んでからアンネの家を見に行こうなんて、不謹慎極まりない。普通順番が逆だろうなどとみんなで話したが、幸か不幸かそれは杞憂だった。あろうことかアンネの家の入り口にはずらっと2時間待ちくらいの行列ができていたのである。中に入るのは断念し、外側から家を見る。
 美しい運河沿いの、何の変哲もない住宅街にアンネの家はあった。そこがあまりに平凡な住宅街だったので私達は拍子抜けしたが、側には"ANNE FRANK 1929-1945"と文字が浮き出た台座の上に立つアンネの像があり、16歳の少女がこんな所でナチスから逃れる生活を送っていたのかと思うと心痛まずにいられなかった。その像と一緒にビール工場帰りの観光客4人組が記念撮影をするというのには、一抹の後ろめたさを感じないでもなかったが、ここを訪れた記念を残しておく。

 アムステルダム中央駅に向かう途中、いつも突っ込み役のMの口数がいつもよりやけに少ない。どうやら先ほどのビール3杯がきいているらしかったが、ある通りにさしかかった時、ニヤニヤしながらおもむろに、「ねえ、あの店エロティックだよ。」と一言。果たしてMの指さした先には...確かにエロティックな店があったが、いきなり口を開いたと思ったらそんなことを言うので皆大変面白がった。さすがM、寡黙だったのはこの発言を際立たせるための準備だったのか。
しかし今日のMは明らかに普段とは違っていた。トランバーイの中でポカンと口を開けて寝てしまったのである。Mがどんな旅行をしてきたのか知らないが、相当お疲れだったらしい。
 
 あっという間に半日観光は終わり、アムステルダム中央駅でMと別れる。(実はここでちょっとしたハプニングがあったのだが、それは4人だけの秘密ということで...。)
 Iと私はNの持っていた割引カードのおかげで4割引で鉄道の切符を購入し、3人で次なる目的地、Nの街ユトレヒトへと向かう。