ロシアの北都 サンクトペテルブルク紀行

2005年秋から留学する、ロシアのサンクトペテルブルク(旧レニングラード)での毎日を記します。

明日から出かけます

2006-07-21 20:09:55 | Weblog
21/07/2006
【写真:7月29日、ヴォログダからペテルブルクまでの夜行列車のきっぷ。(一部加工)ロシアの長距離列車のきっぷはこのように立派なもの。列車番号、発車、到着時刻、料金の内訳、割引区分、指定席、購入年月日、時刻、購入場所、パスポート番号などが一目で分かるしくみ。印字部分の5行目にはちゃんと名前も書いてあります。】
 インターネットカフェからの更新です。
 今日も青空が広がるペテルブルクですが、気温は高くなく、涼しくて過ごしやすい天気です。
 さて、明日から1週間、ホストファミリーとともにまたヴォログダ州に旅行に行ってきます。行き先は2月末にも行った工業都市チェレポビェッツと3月に行った田舎町ボジェガ。今回はホストファミリーの夏の休暇で一緒に行こうと誘われ、外国人にはあまり有名でないヴォログダに私が行くのはこれで3度目。
 ホストファミリーは8月第1週くらいまでいる予定らしいですが、私は小さなバイトがあるのと、8月1日に友達がペテルブルクに来るため、一足早く29日夕方ヴォログダを出て30日朝にペテルブルクに帰ってきます。その間コメント、メールの返信ができなくなりますので予めご了承下さい。


海へ

2006-07-18 17:42:11 | Weblog
15/07/2006
【今日の写真:セストロレツクの砂浜から眺めるフィンランド湾。ペテルブルク方面。】

 今日は昨日までの暑さが一段落し、涼しいというか、ぬるいというか、どうも中途半端な気温。夕方から海へ出かけてみた。
  
 サミット初日の今日、彼女と待ち合わせたモスクワ駅の正面には、G8各国の国旗が飾られていた。日本好きの彼女は日本の国旗、私はもちろんロシアの国旗の前でそれぞれ記念撮影をし、メトロでフィンランド駅へ向かう。

 フィンランド駅を17時5分に出発した近郊電車は、ヴィバルクやフィンランドへ向かう通りと並行する線路を走る。ペテルブルク郊外の海へまだ行ったことがない私は、どこで降りるかなど全く考えず全て彼女任せだったが、実は彼女もあまり電車で海へ行ったことがないらしく、よく分からないという。珍しくフィンランド駅の窓口で時刻表を売っていたので、きっぷと一緒に買ったその時刻表を見ながらどこで降りるか考えてもらう。
 近郊電車の停車時間は非常に短い。日本の通勤電車よりも短いのでタイミングを逃すと乗り降りできなくなる。
「次で降りよう。」
「ここ?降りるなら早くしないと!」
「やっぱり次にしよう。」
 といった会話が数回。
 結局降りたのはフィンランド駅から1時間ちょっとのセストロレツク”Сестрорецк”という駅。
 駅から海まで歩くと結構距離があるように思えたが、20~30分ほどで緑の木々に囲まれた遊歩道が開けて、突然ぱっと目の前にフィンランド湾が現れた。

このままダッシュで海に飛び込めれば良かったのだが、風が強くて泳ぐには寒く、泳ぐ気Maxだった私も諦めざるを得なかった。それ以前に、そもそもここで本当に泳げるのかという疑問がわいてきた。というのも、海の水があまりきれいではないように見えたから。水に手を入れてなめてみると、全然しょっぱくない。彼女は「これは海じゃなくてフィンランド湾。」と言うのだが、湾も海の一部。フィンランド湾とバルト海の間に堰があるわけでもないのに、しょっぱくないというのは驚きだった。波も海らしくなく、まるで湖。
 砂浜を散策したり、流木に腰を下ろして心地よい海風にあたったり、のんびりとした時間を過ごす。海岸線は緩やかなカーブを描き、海に向かって右の方に陸地がせりだしてくる。彼女が「あれはゼレノゴルスクかな?その向こうはフィンランド。」というその方角にはホテルのような建物がいくつかあり、ハンググライダーをしている人達も見えた。

 海から駅へ向かう途中の道には、別荘と見られる建物がたくさんあった。一戸建ての別荘群の中には、塀に囲まれた立派なものも。それを見て、「あ、ロシアでみんなダーチャ(別荘)を持ちたがるわけが分かった。ロシアの都会では集合住宅が普通だからでしょう?」と私が言うと、「それだけじゃなくて、空気がきれいで緑が多いから。」と彼女がつけ加えた。確かに、このような郊外に別荘を持って休日にのんびりできれば、都会で働くエネルギーを充電できそうである。

 初めて来た郊外の町セストロレツクは静かできれいで素敵な所だったが、素敵な思い出だけでは終わらなかった。
 電車に乗る前、トイレへ行きたくなり、駅で尋ねるがなんと駅にはトイレがないという。もちろん駅の周りには小さな売店や軽食の店などがたくさんあるのだが、ここでは日本と違って客にトイレを貸してくれない。トイレに行きたくなったのは私だけではなく、二人であちこち探し回る。が、別荘群の中に公衆トイレがあるわけがなく、トイレ探しは断念してペテルブルクまで我慢することに。
 そんなわけで、私はこの町をこう名付けた。”город в котором нет туалетов”(トイレのない町)。彼女もこれには賛成のようだった。フィンランド駅の地図の駅名表示の下に、こう大書しておいた方が良さそうである。
 
 トイレ探しのために列車を1本見送ったこともあり、メトロの駅がある最寄りの駅に到着したのは22時過ぎ。それでもまだ十分明るいのが嬉しかった。

サミット厳戒-市民の大迷惑-

2006-07-14 19:57:50 | Weblog
14/07/2006
【写真:街中のあちこちにあるサミットの横断幕。市民には全く無縁なのだが...(08/07撮影)】

 明日からペテルブルクでサミット(先進国首脳会議)が開催される。ロシアが議長国をつとめる初めてのサミットとして注目されているが、各国の首脳が集まる開催地は厳戒態勢。

 7月11日付The St. Petersburg Timesはこう報じている
「サミットは外国人による旅行ブームなど後で効果をもたらすと期待されているが、逆に交通機関から裁判、バレーボールの試合から葬式に至るまで、市民生活の多くの側面に悪影響を及ぼしている。」
 その市民生活への「悪影響」のほんの一部を同記事から紹介してみよう。
・バスやマルシュなど交通機関の運休、経路変更
・空港は一般向けのサービスを全面停止(専用機発着のため)
・運河クルーズ中止
・外交官、報道関係者、居住者は訪問客を制限しなければならない
・国際ビーチバレーボール大会延期
・高速道路沿いの葬儀場閉鎖
・被告人の警備ができないため裁判延期

 などなど、多くの不便を強いられる3日間が明日から始まる。
 空港が閉鎖されるため、その前に帰国を急いだ知り合いもいる。

 ペテルブルクにやって来るのは先進国首脳だけではない。アンチグローバリストなどよく分からぬ集団がデモなどを計画しているほか、国境が厳しくなっているとはいえテロリストが入ってこないとも限らない。ペテルブルクではないが、ロシア国内でサミット中のテロを計画したとして、首謀者が暗殺されたという報道も先日目にした。

 サミット中の治安維持のため、ペテルブルクにはモスクワやプスコフなど、周辺から応援の警備要員が続々到着し、街中には異様なほど多くの警官がいる。ネフスキー大通りにも監視カメラが設置され、警戒が強化されているが、どちらかといえばこれらは何か事件が起こった後に役に立つ可能性があるに過ぎない。
 例えばテロリストに狙われやすいとされるメトロ。入り口に空港のようなセキュリティゲートがあるわけでもなく、警備が厳しくても警官の隣を堂々と通過し、誰にも分からずに爆発物や拳銃などを持ちこむことが可能だ。世界一深いペテルブルクのメトロでテロでも起こったらと思うとぞっとするが、それもあり得ないとは言い切れない。現に昨年のロンドンの実例がある。

 このように何かと不便や不安が多いサミット期間。中にはペテルブルクを離れて旅行に出かけたり、ロシアから出国したりという選択をする人もいる。その選択も悪くないと思うが、私には特にペテルブルクから離れる予定はない。
 当地の総領事館から滞在している日本人向けに「サミット期間中はなるべく外出を避け」るよう安全対策が記された一斉送信のメールが来たが、まさかずっと引きこもっているわけにもいかないので、自分の安全は自分で守りながら行動するほかない。少なくともサミット期間中は大衆が集まりそうな場所や、メトロなどを極力避けた方が良さそうだ。
 そういえば、私のメトロのカードは今日でちょうど期限が切れる。

 サミットというと響きは良いかもしれないが、単なる政治パフォーマンス。私達のように、開催地に住む一般市民にとって良いことは皆無。市民に大迷惑を強い、膨大な税金をかけてまでこんな会議を開催する意味がどこにあるのか理解しかねる。一堂に会して話し合おうなんて、まるでウェストファリアやヴェルサイユの時代のようだ。どうしても会議が必要なら主要国を結んでテレビ会談をするとか、もっと現代に即したやり方で時間もコストも削減できるはず。そんなことが議題になったらサミットも進歩したなと思える。

 サミットの成否など私達には関係ない。明日からの3日間、ペテルブルクの市民生活を脅かすことが起きないことだけを祈っている。  
  

ペテルブルク案内記14(終)-3日目:運河クルーズ-

2006-07-13 20:08:25 | Weblog

【写真:ファンタンカ川上の船から見たネフスキー大通り、アニチコフ橋(29/06)】

 ペテルブルク観光の締めくくりは運河クルーズ。夏場には人気のこの運河クルーズ、運河だけを回るコース、ネヴァ川にも出るコース、夜間クルーズなどコースや時間帯設定は様々だが、日中のクルーズの相場は1時間で200ルーブル~300ルーブル前後。外国人料金という制度はないのが嬉しい。

 イサク聖堂の見学を終えた私達は19時頃、イサク聖堂の近く、モイカ川からのクルーズに参加した。1時間のコースで1人200ルーブル(学生料金)。

 モイカ川をネフスキー大通り近くから出発した船は、エルミタージュの横を通ってネヴァ川に出る。ネヴァ川からはエルミタージュ、バシレフスキー島のストレルカ、ペトロパブロフスク要塞などが一望できる。ガイド付き(もちろんロシア語)で、丁寧に説明をしてくれるのがありがたい。トロイツキー橋をくぐりファンタンカ川に入った船は、アニチコフ橋付近まで行って折り返し、ミハイロフスキー城の側から再びモイカ川に入る。
 運河クルーズに参加したのは私も実は初めてだったが、船の上からはこの3日間でまわった場所を眺めることができ、それらの位置関係を含めてペテルブルク観光の総復習になる。市内観光の最後にクルーズに参加するのがおすすめ。

 Hのペテルブルク観光は3日間と短かったが、案内してみて思ったことは、意外と多くの場所をまわれるということ。Bのおかげもあり、主要なところはほぼ網羅したコースだった。もう一度今回訪れた主要な場所を振り返ってみる。

1日目:ペテルゴフ、スパス・ナ・クラーヴィー聖堂、カザン聖堂
2日目:モスクワ広場、戦勝広場、プーシキン、アレクサンドルネフスキー修道院、芸術広場、夏の庭園、ピョートル大帝の家、ペトロパブロフスク要塞、バシレフスキー島、デカブリスト広場、跳ね橋
3日目:エルミタージュ美術館、(警察署)、モスクワ駅、ペトロパブロフスク大聖堂、イサク聖堂、運河クルーズ

 観光地めぐりはツアー客でもできるが、今回のようにペテルブルクの人々が利用するのと同じメトロやバス、マルシュに乗ったり、同じ店で買い物をしたり(Hは最後にウォッカを買っていった)など、人々の生活の一端を見ることが出来るのは個人旅行ならではの楽しみといえる。
 日本のガイドブックには未だに「ロシア個人旅行は難しい」などと書いてあるが、私は全くそうは思わない。個人旅行が難しい理由として、ビザが必要、街で英語が通じないなどといったことがよく挙げられるが、果たしてそれは個人旅行を阻む理由になるだろうか。 ビザは本来必要なもので、日本のパスポートではビザが免除される国が多いから、それに慣れた旅行者にとってはビザ取得が非常に面倒に思えるだけ。
 言葉にしても、そもそも外国で言葉が通じないのは当たり前。ロシア語しか通じないのを不便だと思うのは、どこでも英語で通じようと思う傲慢な態度の裏返しでしかない。旅行者全てがロシア語を勉強してくるべきとまでは言わないが、最低でもキリル文字と簡単な挨拶さえ覚えてくれば、ロシア旅行の楽しみは2倍、3倍になる。4月にパリから来たIは、1月からロシア語も勉強し始めていた。Hも旅行直前にたった1日でキリル文字を覚えてきたそうだが、文字が読めるだけで、ロシア語の世界がまた違って見えたことと思う。

 ロシア個人旅行を楽しめるのはロシア語学習者だけの特権ではないということを、HやIは実感してくれたのではないか。彼らはむしろ、他の国に行くのと比べて準備が面倒だった分だけ、実際にロシアに来て良かったと言ってくれた。
 ロシアは準備をする能力がない旅行者には永遠に遠い国だが、HやIのように、ほんの少しの労を惜しまぬ人には身近な国。これはロシアに限ったことではないと私は思う。

 この街で生活していると集中的に観光地をまわることはまずないが、今回Hを案内した機会に初めての観光地へ行ったり、クルーズに参加したりすることができた。
 ロシアの北都の記憶を、ベルリン留学の1ページに刻んでもらえたらなと思う。好奇心を持ってはるばるベルリンからペテルブルクに来てくれたHに、心から感謝したい。

 白夜のこの時期、23時を過ぎても太陽は沈まない。
 夜行バスの出発とは思えない明るさの中、Hを乗せたバスはタリンヘ向けてバルト駅を出発した。

       -ペテルブルク案内記 完-
  

ペテルブルク案内記13-3日目:ペトロパブロフスク大聖堂とイサク聖堂-

2006-07-13 20:01:07 | Weblog

【写真:アレクサンドル2世とその后の石棺。ペトロパブロフスク大聖堂にて。(29/06)】

 警察署で証明書を受け取り、遅めの昼食はモスクワ駅構内で。今回ロシア出入国はいずれもバスを利用するHは長距離列車を見る機会がないので、昼食後ホームに案内し、ロシアの鉄道の雰囲気を見てもらった。構内に掲げられている巨大な長距離列車運行図は西端がベルリンになっており、Hは気に入ってくれたようだった。

 モスクワ駅からメトロに入り、次の観光地ペトロパブロフスク大聖堂へ向かう。この聖堂は昨日散策したペトロパブロフスク要塞の中にあり、要塞内で最も重要な建築物とされる。聖堂の上の尖塔の高さは122.5mあるが、聖堂の広さはそれほど大きくなく、意外とこじんまりとした印象を受ける。内部は歴代皇帝の霊廟となっており、ピョートル1世からニコライ2世まで、モスクワのクレムリンに安置されているピョートル2世を除く18世紀以降の皇帝がここに眠っている。
石棺はほとんどが白い大理石製のもの(写真奥)だが、その中にあってひときわ際立つのがアレクサンドル2世とその后の石棺(写真手前の2つ)。これらは、農奴制廃止(農奴解放令を発令=1861年)に対する感謝としてウラルの工場労働者が作ったもので、ウラル産の碧玉と薔薇輝石で出来ている。
 その真贋が一時期論争になったが、1918年にエカテリンブルクで銃殺された最後の皇帝ニコライ2世とその家族の遺骨は、1998年にここに埋葬された。
 近代にあって歴史を動かし、あるいは歴史に翻弄されながら皇帝という宿命を生きぬいた役者達が一同に会する神聖な場所が、ペトロパブロフスク大聖堂である。

 今回の観光最後の見学地はイサク聖堂。キューポラ(天井の円い屋根)を持つ聖堂の中では世界で4番目に大きいこの聖堂は、19世紀の最傑作建築物の一つとされ、かつてロシア帝国第一の聖堂だった。
 建築や美術について私は詳しくないのだが、建物の内外にある彫刻、絵画などの豪華絢爛な装飾を見れば、この聖堂の偉大さを理解することは難しくない。
 ここにもとんでもなく高い外国人料金(聖堂内部の入場料と展望台の入場料計450ルーブル)が設定してあり、最も安いロシア学生料金(同75ルーブル)と比べて6倍もの差があるのがナンセンスだが、ここは聖堂内部、展望台ともに観光客は必ず訪れるべき場所であろう。
 ここの展望台からは、ペテルブルク市内を360度見渡すことが出来るのだが、残念ながら今日は私達が訪れた時間が遅かったため展望台に上ることは出来なかった。

  

ペテルブルク案内記12-3日目:懐かしの警察署-

2006-07-11 20:56:15 | Weblog

【写真:地下鉄警察本部の看板。(29/06)】

 跳ね橋観光からの帰りが早朝になったため、午前中遅めに行動開始。
 11時半過ぎに出かけてまず最初に向かった先はエルミタージュ美術館。ペテルブルクを訪れる観光客ならほぼ全ての人が訪れるに違いない超有名美術館なのだが、私も全てを知っているわけではない。ごく一部の見所だけHに教えて、ここはH一人で見学。ちなみにこの美術館にも外国人料金はあるが、学生はロシア学生、外国人学生問わず無料だからありがたい。
 Hがエルミタージュを見学している間、私は今日見学するイサク聖堂、ペトロパブロフスク要塞の入場券を予め購入しに行く。
 
 Hのエルミタージュ観光には約2時間ほど時間をとった。エルミタージュは全部の部屋をくまなく見て歩くと20kmほど歩くことになるという巨大な美術館のため、いくら時間をかけて回ってもきりがない。一般のツアーも2時間程度で主要な展示品を見てまわるというのが通常らしい。本当はもう少し時間をとっても良かったが、出かけるのが昼近くだったことと、この後訪れる場所の時間配分も考え、14時過ぎにエルミタージュを出る。

 次に向かった場所は警察署。Hのデジタルカメラの盗難証明書を発行してもらうため。実は西方見聞録で既に記述したとおり、私は4月の旅行中にベルリンでデジタルビデオカメラを盗まれ、その時警察ではHに通訳してもらった。今回はこれと逆にHの届け出を私が通訳することに。このことに何だか不思議な因縁を感じたのは私だけではなかった。
 昨年9月に訪れたこの警察は、地下鉄警察の本部でもある。受付で11番の部屋に行くよう言われ、廊下を歩く。昨年来たときとちっとも変わらぬ風景、11番の部屋だけは部屋番号が表示されていないところも同じ。その部屋の前にある長椅子の側には、壁から手錠が5つほどぶら下がっている。あまりに露骨なその光景にはHも驚いていた模様。
 Hとここに座って待つ間、なんだか懐かしさがこみ上げてきた。昨年デジタルカメラを盗まれたのはロシアに来て3週間弱、まだほとんど意志疎通が出来ない頃だった。この椅子に座り、辞書を引きながら警官とコミュニケーションをとった。その様子を見て、廊下でたばこを吸いながら笑っていた警官もいた。ロシア語がほとんど分からないこの日本人にしびれを切らした担当者も辞書を引くのを手伝ってくれて、ここで覚えたのがцель「目的」という単語だった。
 今日は「あんた、ロシア語が分かるか?」から質問が始まり、万事スムーズにいった。証明書の内容をコンピューターに入力している間、別の警官らが「日本はワールドカップで負けてもう帰ってしまったな。」とか、「日本人はどうしてベッカムが好きなのか?」などと話しかけてきた。ロシアは出場していないワールドカップだが、彼らは興味を持って見ていたらしい。
 ある警官には、「どうしてカメラを盗まれてここに来たのだ?」と聞かれた。「証明書をもらって保険会社に...。」と答えると彼は「そしたら保険会社は金をくれるのか?」と聞いてきた。そんな当然のことをどうして尋ねるのか不思議だったが、次の彼の一言でその理由が分かった。「ロシアではカメラに保険金なんておりないぞ。貧しいから。」

 まもなくプリンタから出てきた証明書にスタンプが押され、届け出はあっさりと終わった。昨年同じ事を届け出るのに一体なぜあれだけ苦労したのか、今となっては全く分からない。あの時笑った警官に、今日のやりとりを見せてやりたかった。語学の上達というのは、後で振り返って初めて分かるものなのかもしれない。Hもドイツ語で、似たようなことを感じているのではないか。

 ペテルブルクの観光地めぐりで、まさか警察署案内までするとは思っていなかった。Hにとっては不運な出来事だったが、滅多に足を踏み入れない所に来られたというのをせめてもの慰めにしてもらえればと思う。
 観光客を狙った財産犯はペテルブルクでも頻発しているが、少なくともこのブログの読者から地下鉄警察、11番の部屋のお世話になる方が出ないことを祈るばかりである。



ペテルブルク案内記11-2日目~3日目:深夜観光の魅力-

2006-07-06 21:35:49 | Weblog

【写真:跳ね橋の一つ、トロイツキー橋。バックに見えるのはペトロパブロフスク要塞の塔。(29/06 午前3時02分撮影)】

 18時前に芸術広場をスタートしてから歩くこと約3時間。皆適度に空腹を覚えてきたところで夕食の場所を探す。Bはどこか良い場所を知っているかと思っていたのだが、「どこに行こうか?この辺どっか知ってる?」「知らない。そっちの方行ってみる?」こんな会話を繰り返しながらイサク聖堂周辺を物色。
 結局イサク聖堂近くの、”У тёщи на блинах”という店に入る。この店、同じのがいくつか市内にあり、私もたまに利用するのだが、おいしいロシア料理がお手頃価格で食べられるうえ、国際学生証(いわゆるISIC)でなんと会計が20パーセント引きになるという、学生には大変嬉しい特典がある。しかもどういうわけかロシアの学生証ではなく、ISICでないとこの特典は受けられない。観光先で頻繁に出くわす「外国人料金」という悪しき制度とはまるで逆。
 サラダ、スープ類、メインディッシュ、飲み物というのがロシア料理のオーダー。ボルシチ、サリャンカ、メインディッシュには肉、魚、ポテトなどという一般的なロシア料理がテーブルの上に並ぶ。ドイツでよくビールを飲むというHは、ここでももちろんビールを注文。今回はHというゲストがやって来たこともあり、いつもはビールをあまり飲まないBもちゃんと0.5リットルを飲み干したからびっくり。しかも彼女は自分のに加え、ちゃっかり私のさくらんぼジュースまで全部飲んでしまった。

 2時間ほど3人で語り、店を出る頃には既に日付が変わっていたが、夏場の観光はようやく暗くなり始めたこれからが本番。ペテルブルク名物の跳ね橋を見ずしてHにベルリンに帰ってもらっては私の手落ちになる。
 はじめはクルーズに参加して船の上から橋を見物しようと考え、運河沿いの船乗り場をあたってみたのだ。が、0時半が最後の出発だったため船には乗れず、ネフスキー大通りをファンタンカ川まで歩いて引き返す。

 宮殿広場を通って再びネヴァ川沿いに戻ると、既に宮殿橋は上がっていた。この宮殿橋の跳ね上がった部分の真ん中にペトロパブロフスク要塞の塔を入れた写真や絵は大変有名で、私もそれを撮影すべく下流の方へ歩く。が、あろうことかその写真が撮れる位置には大きな船が停泊しており、その船が邪魔で写真が撮れず。船を避けて写真を撮ったため、ペトロパブロフスク要塞の塔は跳ね橋よりも左に写ることになった。(ペテルブルク案内記0に掲載した写真はこの時撮影したもの。)
 ペテルブルクの跳ね橋、最初は観光用の飾りかと思っていたのだが、よく考えればそれだけの理由で毎晩橋を開閉するわけがなく、実際に橋が閉まっていては通れないほど巨大な船が次々に通過していく。歩き疲れて3人でベンチに座っていると、所定の時刻(2時45分)よりも30分ほど早く橋が閉まり始めた。この跳ね橋、見る人にとってはきれいだが、島と中心部、島と島を行き来する人々にとっては交通の障害となる。そのため、船の航行が終わればなるべく早く閉じてしまうのだろう。
 橋の中には1日2回上がるものもあり、宮殿橋もその一つ。宮殿橋は1:25~2:45と、3:10~4:55までが跳ね橋モードの時間帯。橋によって時間帯が異なるので、見に行きたい橋の開閉時間を事前に知っておくことが必要だ。
 
 私達はネヴァ川沿いをリテイニー橋まで歩く。途中のトロイツキー橋もリテイニー橋も跳ね橋になっており、それはそれは見事だった。たまにこの様子を、フラッシュをたいて撮影している人を見かけるが、いかにも素人臭い。この橋の様子をきれいに残したいと思うなら、少なくとも三脚か何かにカメラを固定して、シャッター速度の遅い夜景モードで撮るべきだろう。人物と背後の夜景をきれいに写すモードも、今ではほとんどのデジタルカメラに備わっているはず。
 
なお、この跳ね橋、公共交通機関が何一つ動いていない時間帯にしか見られないため、散歩感覚で見物できるのはネヴァ川から徒歩圏内に住む人々の特権だが、遠くに住む人々にもチャンスはある。旅行ガイドなどではあまり推奨されていないが、いわゆる「白タク」を使うのも一つだし、エクスクルシヤ(即席観光ツアー)に参加するという手もある。エクスクルシヤには船、バスのツアーがあり、中には「夜のペテルブルク観光」と称して23時から5時まで跳ね橋などを観光するものもある。
 夏にペテルブルクを訪れるならば、跳ね橋を見逃す手はない。

 私達の深夜観光が終わったのは午前3時半過ぎ。先にHを家に案内し、Bを家まで送った4時過ぎには既に明るくなっていた。
 

ペテルブルク案内記10-2日目:バシレフスキー島、デカブリスト広場-

2006-07-06 21:28:53 | Weblog

【写真:バシレフスキー島のストレルカからペトロパブロフスク要塞、ネヴァ川を眺める(28/06)】

 ペトロパブロフスク要塞からビルジェヴォイ橋(Биржевой мост=「取引所の橋」の意)を渡り、バシレフスキー島に入る。
 ネヴァ川の河口に位置するこの島は、ピョートル大帝の構想では、都の中心になる予定だった。Большой(大)、Средний(中)、 Малый(小)の3つの通りが島の中心部を貫通し、それらと直交する通りが1番通りから29番通りまであるというユニークな街路の配置は、古い都市計画の名残なのだという。私が留学しているサンクトペテルブルク大学はこの島にあり、私は毎朝メトロをバシレオストラフスカヤ駅で降り、中間通り、8,9番通りを経由して大学河岸通りにある大学まで通っている。他にもこの島にはロシア科学アカデミー、ロシア芸術アカデミーの建物があり、科学、芸術の中心地となっている。
 フィンランド湾と反対側にある島の先端は「ストレルカ」(стрелка=とがったものの先端)と呼ばれ、この付近ではよく催し物が開催される。正面にネヴァ川、左手にペトロパブロフスク要塞、右手にエルミタージュ美術館を望むここからの眺めは、ペテルブルクの中でも最も美しい光景の一つだと私は思う(写真参照)。

私達の散歩コースはストレルカを通り、大学河岸通りへ。河岸の建物についてBはいろいろと知っていて、詳しく説明してくれた。夏場の今は大小多数の船が航行しており、河岸通り付近にもたくさんの船が停泊しているが、冬、気温が-20度を下回るような寒さの頃には相対的に水温が高いために真っ白な湯気が立ちのぼる。夏と冬でがらっと表情を変えるネヴァ川をイサク聖堂、エルミタージュをバックに見ることが出来るのも大学河岸通りの魅力。

 現在工事中で臨時の橋となっているシュミット中尉橋を渡り、バシレフスキー島を出る。
バシレフスキー島とネヴァ川を挟んで対岸にある通りをエルミタージュ方面に歩いていくと、まもなく右手に見えてくるのがデカブリスト広場。
 背後にイサク聖堂という構図が美しく、今でこそ観光客の記念撮影スポットのようになっているが、ここは1825年、デカブリストの乱が勃発した場所。広場の中心にあるピョートル大帝の「青銅の騎士像」は足元で起こったこの事件をどんな思いで眺めたことか。ロシアのこうした広場や聖堂、教会などには、往々にして悲劇的な事件の記憶が刻まれていることがある。それらの美しさを鑑賞するだけでなく、その背後の歴史を知ることでロシア観光の深みが倍加する。
ここを訪れた頃には既に21時半を過ぎていたため、いつもたくさんいる観光客やカップルなどはまばらで、記念撮影にはちょうど良かった。