ロシアの北都 サンクトペテルブルク紀行

2005年秋から留学する、ロシアのサンクトペテルブルク(旧レニングラード)での毎日を記します。

ブログ開設から3,650日

2015-08-23 11:22:59 | Weblog
久々にこのブログにログインしたら、ブログ開設から3,650日、ちょうど10年の表示に気付いた。
前回の記事から7年ほど放置していたが、その後2008年4月就職→2010年12月モスクワ駐在→2014年3月帰任、帰任後もプライベートのみならず
出張でもロシアとは縁がある。
何をどこから書いたら良いものか。開設3,650日に偶々ログインしたのも何かの縁かとも思ったので、少しずつ気まぐれに、近況を綴っていこうか
と思っている。


シベリア鉄道の旅、終了

2007-09-10 12:04:27 | Weblog
10.09.2007

昨夜予定通りウラジヴォストークに到着し、ホテルに1泊。
今駅前のインターネットコーナーからブログを更新しています。

今は時間も限られているので多くは書けませんが、列車でシベリアを横断した1週間、周囲の席の人と毎日のようにウォッカを飲みながら交流し、退屈する暇がないほど本当に楽しい日々でした。
シベリアや東部に住む人々との話を通して、ペテルブルク、モスクワなど西部だけでは分からない、ロシアの別の姿を見ることができたように思います。

まだ往路の旅行記も書き終わっていないのですが、復路も含めて、必ず完結させるつもりです。
シベリア鉄道、時間がないという方は一部分だけでも、是非乗車されることをおすすめします。

ペテルブルク滞在最終日

2007-09-02 19:16:20 | Weblog
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ペテルブルク滞在中はロシア語の勉強や友達、知り合いとの会合などを優先したため、結局シベリア旅行記は完結できず、続きは日本に帰国してからになります。なお、今日から9日まで列車での移動になるため、4日の朝、エカテリンブルクでインターネットを使う(予定)時を除いて、メールなどがチェックできなくなります。関係の方、あらかじめご了承ください。
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02.09.2007
 
 7月末から1ヶ月ちょっとのペテルブルクでの生活も今日で終わり。今回も1日1日が良い意味で忙しく、充実した留学だった。

 今日でペテルブルクを離れるが、去年日本に帰るときよりも寂しい気はあまりしない。こうしてまたペテルブルクに来たし、これからも、いつでも来られると思うから。
 今日から再びシベリア鉄道でウラジヴォストークへ向かい、ロシアを出るのは10日。
 今回はエカテリンブルクでのみ乗り換え、エカテリンブルクからウラジヴォストークまでは丸5日以上続けて列車に乗る。
 乗る列車は
 072 ペテルブルク発9月2日17時4分 スヴェルドロフスク着9月4日6時22分
 240 スヴェルドロフスク発9月4日9時26分 ウラジヴォストーク着9月9日15時37分
 (いずれもモスクワ時間)

 往路は周りの人々と話をしながら、楽しい旅だった。復路はどんな出会いがあるか、楽しみである。


初ロシアから2年

2007-09-02 19:15:18 | Weblog
01.09.2007
【写真:1日のネフスキー大通り、ガスティニードヴォル前。すっかり寒くなり、道行く人々の服装も秋モードに変わった。】

 今日、9月1日はдень знанийといって、ロシア全国で学校の新入生を祝う日だが、私にとっても9月1日はちょっとした記念日。2005年、私が初めてロシアに到着したのが9月1日で、その日から今日でちょうど2年になる。

 思えば2年前、来たばかりの頃は思い通りにならないことばかりだった。空港からのタクシーの車内、話しかけてくれる運転手のロシア語が分からず沈黙、気まずい時間が流れた。5までしか数字を知らず、ホストファミリーに「明日8時」と言われたときは単語帳を引いてようやく理解した。ホストファミリーに日記の添削を頼んだ時、「2」の生格を教えられ、数字にまで格変化があるのかと卒倒しそうになった。フィンランド駅で、窓口のおばちゃんの言っていることが理解できず、3度目には怒鳴られた。
 似たようなことは、列挙すれば本当にきりがない。

 あれから早2年。最初の留学は1年で終わり、日本に帰国したがその後もロシア語を続けた。多くの人のおかげで、ロシア語はだいぶ上達した。今回は2度目のロシア、ペテルブルク滞在。日常生活で自分の言いたいことが言えない、あるいは相手の言っていることが分からないということはまずない。言葉だけではなく、ホストファミリー、友達、知り合いなどたくさんのロシア人と接する中で、ロシアの人々の考え方を多少なりとも理解することができた。

 私が知っているロシアは、ロシア全体を100とすれば1にも満たないかもしれない。貧富の格差、人種差別、汚職など、問題を多く抱えた国ではあるが、それでも私はこの国と、人々が好きだ。

16 「ロシア人と結婚したら?」

2007-08-30 02:23:36 | Weblog

【写真:夕暮れ。5日夜、ジマЗима駅で。】
05-06.07.2007
 
 イルクーツクからの列車はチタ始発だが、イルクーツクではかなり乗客の入れ替えがあった模様。私と向かい合う席のおばちゃんも、イルクーツクから乗車で、モスクワまで行くという。イルクーツク在住のこのおばちゃんの名は、ガリーナ=アレクサンドロヴナ。座席の下に収まらない私のスーツケースを見て、「良いスーツケースは座席の下には入らないものだ。」と褒めてくれた。
 旅は道連れというが、長時間の車内では周囲の人々とのつきあいが大事。エカテリンブルクまでの道中は、このおばちゃんとの会話がメインとなる。
 最初の話題は、今日ソチでの開催が決まったばかりのオリンピック。彼女は、「7年後是非見に行こう。」と言っていた。1980年のモスクワオリンピックも見に行ったそうで、そういうイベントが好きなようだ。7年後、どこで何をしているか自分自身全く分からないが、このおばちゃんと連絡をとってソチで会うのも面白いかもしれない。

 発車から約2時間後、夕食を食べ始める周囲の人につられ、私も食事。今回はインスタント食品ではなく、イルクーツクで買ってきたパンにチーズとサラミをのせ、ホステル近くの路上で買ったいちごとともに食べる。インスタント食品ばかり食べていた頃はまだ慣れない旅行者っぽかったが、こうして周囲の人とそう変わりないものを食べると、より一歩この人たちに近づいた気がして嬉しくなった。
通路の寝台の若い男性は、レストラン車両に行った模様。それを聞いた隣の老夫婦2人連れの旦那は、骨付き肉を食べながらぼそっと一言。「レストランは高いだろうに。」私たちプラツカルトの車両からレストラン車両へ行く人はほとんどいない。経費を節約しようと思えばいくらでも安く行けるが、金をかけようと思えばリッチな旅ができるのも、シベリア鉄道の魅力の一つといえよう。

 この日の夜は、窓が開いていたためかやや寒かった。
 6日朝、8時過ぎ頃に起きる。隣の女性が、1時間ほど列車が遅れていると教えてくれた。彼女に時差を尋ね、イルクーツク時間から1時間ずれていることを知ったので時差修正をする。

《以下の記述のうち、時刻はGMT+7、МСК+4》
 
 午前中はガリーナ=アレクサンドロヴナと、隣の寝台のおばちゃんと3人で話をする。
そのおばちゃんは年金生活者。ガリーナ=アレクサンドロヴナ同様イルクーツク在住で、夫とともに、クラスノヤルスク近郊で働いている息子に会いに行くという。本当はもう少し早く出発したかったのだが、年金が入るのを待っていたため出発が遅れたそうだ。

 今日の話題は結婚について。ガリーナ=アレクサンドロヴナによると、多民族国家ロシアでは、バルト3国や中央アジアの国々などとの混血が進み、純粋なロシア人は少なくなっているという(もっとも、純粋なロシア人とはどういう人を指すのかということからしてあいまいであるが)。私は初めて知ったのだが、以前ロシアの国内用パスポートには「民族」という項目があり、「ロシア人」、「ウクライナ人」など、パスポートを見れば民族が分かるようになっていたという。現在、民族の項目は廃止されているそうだ。もはや意味をなさなくなっているということだろう。
 私がロシアを気に入ったと言うと、ガリーナ=アレクサンドロヴナは「将来はロシア人と結婚してここに住んだら良い。」と勧めてくれた。外国人とつきあうのは、時に困難が伴う。言語や文化が全く違うのだから、ある意味当然だし、私自身の経験からもそれは分かる。だが時間をかけて理解しあうことは可能だし、相手がどんな国のどの民族であっても同じこと。少なくとも私は、多少なりともロシアの人々、文化への理解は持っているつもりである。

 ちなみにロシア語で「混血」という言葉には、どうやら「近親婚」という意味もあるらしい。少なくともここでの会話では、これら2つに同じ言葉が用いられており、私は時々混乱した。ガリーナ=アレクサンドロヴナが、「近親婚は良くない」旨発言した際、はじめ私は「混血により純粋なロシア人が減ることは良くない」と解釈したため、自分から私にロシア人との結婚をすすめておいて何事かと思ったが、実はとんだ勘違いだったようだ。 ガリーナ=アレクサンドロヴナの意見では、ロシア人は誰とでも結婚するし、それは決して悪いことではないという。ただ、ロシア人の血は弱いから、私がロシア人と結婚したら「子どもはあなたに似ることでしょう。」と言われた。それって喜ぶべきなのか悲しむべきなのか。
 私にとって結婚なんてまだ早いが、ロシア人との結婚も本気で考えたくなる今日この頃である。
 
 

15 さらばイルクーツク

2007-08-28 19:42:47 | Weblog
【写真:イルクーツク駅のプラットホーム。左に停車しているのはウラジヴォストーク発モスクワ行き1列車「ロシア号」。52773】
05.07.2007
  
 リストビャンカからマルシュルートカを乗り継ぎ、ホステルに向かう。途中、イルクーツク水力発電所の堤防を通った。こういう人工の施設も含めて、イルクーツク市内も観光したかったが、残念ながら今回は時間がなかった。

 ホステルに到着後、近くの店にパン、お茶、ジュース、サラミなどを買いに行く。ウラジヴォストークからの移動中、車内販売や停車駅の売店でインスタント食品などを適当に買って食べていたが、多くの人々は自分でパンや野菜、肉などを持ってきて食べていたので、私もそれに習おうと思ったのだ。ここで買っておけば、車内で買うより安くすむ。
 
 ホステルの台所で遅い昼食を食べる間、スタッフと話をする。彼らの話によると、今日、2014年のオリンピック開催地がロシアのソチに決まったという。ソチといえば黒海東岸の保養地。私もいつか行ってみたいと思っている場所である。7年後というまだだいぶ先の話のことだが、ロシアでオリンピックと聞いて、私も嬉しくなった。

 17時15分過ぎ、ホステル前からタクシーに乗って駅へ向かう。スーツケースを持っているせいか何なのか、バスへの乗車を拒否されたため。時間的に結構ぎりぎりだったので、次のバスを待たずタクシーに乗った。
 アゼルバイジャン出身だという運転手は、私に「日本人か?韓国人か?」と聞いてきた。韓国人は余計だったが、いつもだいたい「中国人か?」と聞かれてうんざりしていたため、日本人という選択肢を持ち出しただけでだいぶ好感度が上がった。「日本は美しいか?」「日本は電子技術が優れている。」など、彼は日本に興味を持っているようだった。
 10分ちょっとで駅に到着。乗車の際、タクシー料金を150ルーブルから130ルーブルにまけてもらうというちょっとした交渉をしたのだが、財布には50ルーブル札しかなく、結局150ルーブル支払った。

 ロシアの鉄道は、日本と違ってぎりぎりまで発着番線が表示されない。駅に入ると巨大な電光掲示板があり、私がこれから乗る339列車も表示されていたが、番線が表示されていないため行き場のない人々でごった返していた。
 偶然、339列車よりちょっと先に発車する1列車の表示を見つけたのでホームに見に行く。1列車「ロシア号」といえばシベリア横断鉄道の代表格のように言われているが、プラツカルト車両がないため値段が高く、所要時間も他の列車とそんなに変わらない。それでも、ロシア国旗の色に塗り分けられた車両と、モスクワ-ウラジヴォストークの表示を見ると、なんとなくいいなあ、と思う。

 339列車ともう一つ、近郊列車の着発番線が確定すると、掲示板の前にいた人々は一斉に階段を下り、地下通路経由でホームに向かった。339列車はロシア号の隣、昨日到着したのと同じ5番線からの発車。シベリア鉄道2本目のこの列車で、イルクーツクから3000km以上西のエカテリンブルクを目指す。

339列車(チタ発モスクワ行き)
乗車区間:イルクーツク→スヴェルドロフスク(3375km)
発車時刻:7月5日18時02分(モスクワ時間13時02分)
到着時刻:7月7日23時14分(モスクワ時間21時14分)
所要時間:56時間12分
料金(予約料金込み):1926.0ルーブル

 思えば、昨日乗ってきた7列車は約2000km先でまだ同じ線路上を走っている。7列車から丸一日遅れて、再び西へ向かう。
 18時7分、所定より5分遅れて列車はイルクーツク パッサジルスキーを発車。
 今回のイルクーツク滞在では、限られた時間の中バイカル湖へ行くことが出来ただけでも満足だったが、次回は是非市内観光もしてみたい。ただ、ペテルブルクやモスクワと違って日本から行くのは飛行機の便数が少なかったり、乗り継ぎが面倒だったりで、距離的には日本に近いにもかかわらず行きにくい所。それでもイルクーツクはモスクワとの時差が5時間で、実は日本時間と同じなのである。日本よりはるかに西なのに不思議な感じ。次回はいつになるか分からないが、これを最後にしたくはない。必ず、また来よう。そんな思いとともに、イルクーツクを後にした。 

14 バイカル湖へ

2007-08-28 19:39:49 | Weblog

【写真:バイカル湖と夏の雲。リストビャンカにて。52670】
05.07.2007
   
 イルクーツク滞在は1泊で、今日夕方にはイルクーツクを出る。インターネットで予約したエカテリンブルクまでの切符をまだ受け取っていなかったため、まず駅へ行って切符をもらい、その後バイカル湖岸の町リストビャンカへ行くというのが今日の日程。
 昨日、ホステルのナターシャという女性からリストビャンカへの行き方を詳細に教えてもらったので、教えられたとおりマルシュやバスを乗り継ぐだけ。
 
 朝9時過ぎにホステルを出て、マルシュで駅へ向かう。ペテルブルクはじめロシアの西側では、私の知る限り乗車したときに運賃を運転手に支払うが、ここでは下りるときに支払うことになっていることを知った。
 イルクーツク駅の切符の窓口は駅舎の2階にあった。ロシアでは珍しい番号札制で、空いた窓口から案内されるため効率が良い。窓口氏は、きれいなロシア鉄道の台紙つきの切符をくれた。

 切符を受け取り、リストビャンカへのバス、マルシュが出るバスターミナルへ向かうため駅前でバスを待っていると、タクシーの運ちゃんが「どこへ行く?」と私に声をかけてきた。私が「バスターミナルまで。」と答え、64のバスに乗る旨伝えると、左の方を指差し、「あそこの大きなバスが停まっているあたりに(バスは)来る。」と教えてくれた。私がそっちへ行こうとすると、そばにいたおばちゃんが、「バスはこっちに来るから急がなくていいよ。」と私に言い、タクシーの運ちゃんと言い合いになった。何もそんなことで争わなくていいのにと、原因を作った私は申し訳ない気分だったが、何かとおせっかい焼きで、ちょっとでも違うことを言われると徹底的に反論するロシア人のこと。そういう性格を知っていたから、心の中では笑ってすませた。

 バスターミナルでは、運良くすぐにリストビャンカへ行くマルシュを発見。最後の1席が埋まるのを待っていたらしく、私が行くと「やっと(出発)だ。」と乗客の一人。
 マルシュは市内を出るとガンガン飛ばす。時には時速100kmを超えることも。 

 イルクーツクから東へおよそ60から70kmほど離れたリストビャンカには、出発からちょうど1時間後に到着した。
 夏の雲の下、真っ青なバイカル湖、澄んだ湖水。湖岸の通りにはホテルやお土産の店が並び、少なからず旅行客もいたが、道路から離れて岸辺へ下りると聞こえるのは湖の小さな波の音だけ。時間が止まったかのような静寂。時折行き来する大小の船さえも大自然の一部に見えた。
 本当はバイカル湖で泳いでみたかったのだが、1分も足をつけていられないほど水は冷たく、泳ぐ水温ではないようだった。湖の水をちょっと口に含んでみた。もちろん淡水で、冷たくきりっとした水だった。

 その後訪れた近くのバイカル博物館の展示によると、バイカル湖の深さは最大1637m(世界最深)、幅27から80km、長さ636km、2万3千立方キロという湖水の量は、世界の淡水の20パーセントを占めるという。バイカル湖は、私たちの想像を絶する大自然の造形だ。
 シベリア鉄道がバイカル西岸に達したのは1900年。バイカル湖岸を迂回する鉄道の建設は非常に困難だったため、当初は列車を船に積んでバイカルを横断し、東岸との連絡をはかったという。
 今でこそシベリア鉄道はバイカル南岸を迂回し、あっという間にバイカル湖を越えてしまうが、かつてこの湖はシベリアの交通をさえぎり、そして結ぶ役割を果たしていたようである。シベリアを行き来する人々にとって、バイカルの存在感は今よりずっと大きかったに違いない。横断に使われたという船の模型を模型を見て、そんなことを思った。  

13 ホステルでパーティー

2007-08-28 19:32:39 | Weblog
【写真:ホステルでの、親戚(または友達?)の誕生日パーティーの様子。52636】

04.07.2007
 イルクーツク駅に到着したものの、私はホステルの電話番号と、何番のマルシュ(=マルシュルートカ。乗り合い路線タクシー。)で行けばよいかだけしか知らず、下りる場所が分からない。駅前の公衆電話からホステルに電話しようとするが、うまくつながらず。何度か試みていると、駅前のカフェにいた若いグループの一人が英語で、何か手伝おうかと申し出てくれた。彼らはポーランドからの旅行者で、その中の少なくとも一人はロシア語も出来た。
 結局公衆電話からの電話には失敗し、とりあえず72番のマルシュへ行く。マルシュの運転手のおっちゃんに尋ねると、自分の携帯電話でホステルに電話をかけて場所を聞いてくれた。72のマルシュに乗り、おっちゃんが教えてくれたところで下車したものの、ホステルの看板も何もなくてどこへ行けばよいかさっぱり分からない。近くにあった電話センターのようなところからホステルにかけると、建物の色などと、歩いてくる方向を指示された。言われた方向へ歩いていると、一人の女性が私に話しかけてきた。ホステルから私を迎えに来てくれたという。彼女の名前はカーチャ。日本語を勉強しているそうで、少しは日本語も話せた。マルシュを下りたところからホステルまではすぐだったが、小規模なホステルで看板も小さく、自分で探していたら相当時間がかかったことだろうと思った。
 このホステルはインターネットで見つけ、日本から電話で予約したが、その際の対応がとても良かった。友達、家族で運営しているような小規模なホステルだからこそ対応も良いのかなと、実際に訪れて感じた。料金は1泊朝食つきで490ルーブルと適当。ホステルにはイギリス人らのグループも宿泊していた。ホステルのスタッフは英語も話せるほか、カーチャのように日本語を勉強している人、ドイツ語をやっているという人もいた。
 
 私はロシアを旅行する際、基本的にガイドブック(少なくとも日本のもの)は持ち歩かないことにしている。日本のガイドブックには、いかにロシアが旅行しづらい国かということが長々と記述されていて、たまに悪口があったりするため極めて不快である。初めてロシアを旅行する人には不便と感じるところもあるのは事実だろうが(私も最初はそうだった)、ガイドブックたるもの、いかにその不便を克服し、簡単に旅行するかを解説してほしいもの。「ロシア個人旅行は難しい」が結論では人々の足が遠のくのも当然だ。
 やや余談になったが、そんなわけで私はガイドブックのかわりに、初めての街では現地の駅員やタクシー運転手、ホテルのスタッフなどにおすすめの場所を教えてもらって観光をする。
 日本からこのホステルを予約した際、1日の滞在ならばイルクーツク市内よりもバイカル湖へ行くことを勧められたので、詳しい行きかたを教えてもらった。

 今日はこのホステルのスタッフの親戚(または友達?)のヤナという女性の誕生日だそうで、私も飛び入りでパーティーに招待された。誕生日はたくさんの料理で盛大に祝うのがこの国の習慣。私はたった今パーティーに招待されたばかりで何も用意してなかったが、こんなこともあろうかと思って日本から持ってきていた日本酒をプレゼントした。
 パーティーの参加者は、私以外は皆ロシア人。どこまでがホステルのスタッフでどこからが招待客なのかよく分からなかったが、皆話をしていて面白く、明るい人たちだった。お客には、私のような外国人にでさえ最大限のもてなしをしてくれる。開放的でおおらかなロシアの人々の性格は、シベリアの真ん中でも西部同様、変わることはないようだ。


12 バイカルは海

2007-08-25 23:34:35 | Weblog

【写真:列車は約200km近く、バイカル湖の東岸に沿って走る。4日午後。52588】
04.07.2007
    
 3日の夜、昨晩同様にゾーヤ=ミハイロヴナのお世話になり、シャワーを浴びる。シャワーを浴びているうちに日付が変わり、列車はカリムスカヤкарымская駅に到着。ゾーヤ=ミハイロヴナは接客のためホームに出ていた。シャワーを浴びた車両から自分の車両まで、ホームを歩いて戻ろうと思ったので発車時刻を尋ねると、遅れているため分からないが、ホームを歩いて行って間に合うと言われた。
 ちょうど隣のホームからはチタЧита発エロフェイ・パヴロヴィッチ行きの長距離列車が発車。ずっと列車に揺られていたので、隣の列車が動き出すと、自分らが揺られている感じがした。外は日中の暑さが嘘のようにおさまり、すっかり涼しくなっていた。
 午前2時頃、チタ駅に到着。機関車交換があったようで、新しい人も結構乗ってきた。私の上の寝台に来たおっちゃんは、出張でクラスノヤルスクまで行くという。彼の名はピョートル=ヨーセファヴィッチ。深夜だったので、周囲の人との会話もそこそこに、寝台に横になる。日付が変わっているので、今日の夕方にはイルクーツクに着く。この列車で眠るのも今夜が最後だ。

 8時50分頃、ペトロフスキー=ザヴォートПетровский Завод駅を発車すると列車はチタ州を出てブリヤート共和国Бурятияに入る。この両州、共和国の境界で時間が1時間ずれる。
 
《以下の記述のうち、時刻はGMT+8、МСК+5)》
 
 10時頃、ウランウデУлан Удэ駅(5641km)に到着。この駅がロシア東部、ウラジヴォストーク方面と、モンゴル、中国方面への旅客線の境になっている。そのためか駅構内や周辺にはモンゴル系の顔の人がたくさんいた。
 
 12時41分、進行方向右側にバイカル湖が見えてきた。列車はモスクワ起点約5500km地点から約5310km地点までおよそ200km、バイカル湖の東岸をなぞるように走る。
 クスーシャは「海だ!」と喜んでいるが、彼女の言うとおり、これがバイカル湖だと分からなければ、風景はまさに海そのもの。クスーシャは、「バイカル湖を見るのは初めてだが、ウラジヴォストークで毎日日本海を見ている。」と言い、こういう風景は見慣れているようだった。
 昨日チタから乗ってきたおっちゃん、ピョートル=ヨーセファヴィッチは、「こんな美しい光景を見たことがあるか?」と私に尋ねてきた。その後しばし彼と世間話をする。
 彼は1962年生まれ、ハカシヤ共和国Хакасияに住むガス電気溶接工で、ブルトーザーも運転するらしい。3人の息子がいるが、妻は娘が欲しかったそうだ。ハバロフスクに1つ年上の姉がいて、彼女は中国に服を買いに行き、ロシアで売って儲けているらしい。彼は自分の携帯電話から電池を取り出し、私たちに見せてくれた。その電池は中国製。中国では35ルーブルだが、ロシアではその10倍の350ルーブルするという。これも姉が中国から買って来てくれたものだという。ロシアの特に東部は、良くも悪くも中国と関わらずにはいられない。ロシアでの留学経験があるとはいえ、ペテルブルクを中心として西部にしか行ったことがない私にとって、中国との関係が身近な彼との会話は新鮮だった。

 16時30分頃、私たちの車両に魚売りがやって来た。クスーシャらによると、この魚は「オームリ」омульといい、バイカル湖にしかいないという。クスーシャは80ルーブルで1匹買い、ターニャとともに食べ始めた。通路側の男性もビールとともに魚を食べている。私も買おうと思ったが、時刻表上イルクーツク到着まで1時間を切り、なんとなくせわしい気がして買えなかった。
 
 イルクーツク到着まで、クスーシャ、ターニャ、ピョートル=ヨーセファヴィッチと話をする。ロシアの人々と話をすると、必ずといっていいほど日本車について質問される。日本の自動車メーカーくらいはかろうじて分かるが、私はそんなに車に詳しくないので、値段や車種などを問われたらお手上げ。そんなときは申し訳ないが、最近祖父が購入した新車の値段を参考に、ある程度推測で答えるしかない。
 ロシアでは、当然日本よりも値段が高くなるわけだが、ターニャの家にもスズキの車があるという。なぜロシアで日本車が人気なのか、私も正直あまり良く分からないが、ここまで評判が良いのなら、富山から出港したときあれだけ船に車が満載されていた理由も分かる。

 クスーシャ、ターニャとは大学の話もした。国立大学の学生にも高額の授業料を課す日本と違い、ロシアでは成績優秀な学生に対する奨学金の制度があり、だいぶ多くの人が対象になるようだ。そのため、クスーシャは「ロシアでは勉強する刺激がある。」と言っていた。ターニャは学校であまりよく勉強しなかったため、有料の大学に入学したが、大学で成績優秀なので奨学金をもらっているという。日本にも奨学金の制度はあるが、対象者がごくわずかだったり、条件が付されたりして面倒。授業料免除は主に家計が貧しい人が対象で、結局成績優秀でも国からの金銭的な支援は何もない。ロシアや他の国と比べて、日本は高等教育をおろそかにしていると思われても仕方ないように思う。

 話をしながらイルクーツク到着を待っていたが、時刻表上の発車時間を過ぎてもまだ停車しない。私が、「もしかして停車しないのかもね。」と冗談を言うと、「じゃあこの先もうちらと行くか?」とクスーシャ。それもありかなと一瞬思ったが、やはりイルクーツクも見てみたい。
 
 17時44分、27分遅れで列車はイルクーツク パッサジルスキー(=旅客)Иркутск-пассажирский駅(5185km)に到着。ウラジヴォストークから約70時間をともにしたターニャ、クスーシャとはここでお別れ。私の重たいスーツケースを、ピョートル=ヨーセファヴィッチが手伝ってくれた。ホームを歩いて、シャワーでお世話になったゾーヤ=ミハイロヴナにも一言挨拶。
 
 ウラジヴォストークからここまで4106kmの距離は、モスクワまで全線約9300kmの半分にも満たない。 
 17時58分頃、私がお世話になった7列車は予定されていた停車時間を短縮し、5番線から発車していった。7列車が終着、ノヴォシビルスクに着くのはモスクワ時間で明日の18時43分。あと30時間余りの道のりである。汽笛を鳴らし、ゆったりと、堂々とホームを去る20両編成の列車の姿は、シベリアの動脈を担う者の風格を感じさせた。


11 地球を走る

2007-08-19 19:33:49 | Weblog
19.08.2007

16日木曜日にペテルブルクに帰ってきました。途中、テロの現場を朝7時過ぎに通過したときは、脱線して横転したレストラン車両など2,3両がまだ残っており、事件の激しさを物語っていました。昨日、一昨日は雨も降って若干涼しく、夏も一休みのようです。勉強や人との会合などの合間を見て、少しずつ旅行記を更新していきます。

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【写真:車窓の風景。3日夕方、チタ州チェルニシェフスク・ザバイカルスキーЧернышевск-Забайкальский- クエンガКуэнга間にて。52533】
03.07.2007
 8時25分頃、定刻より2分ほど早く列車はアムール州最後の停車駅、エロフェイ・パヴロヴィッチЕрофей Павлович駅(7110.9km)に到着。駅の看板から、夜のうちに鉄道の管轄の境界を越えていたことを知った。(Дальневосточная Железная ДорогаからЗабайкальская Железная Дорогаへ。)
 21分間の停車なので、駅のトイレへ行ってみる。駅舎は出来たばかりのようできれいだった。2階に上がって駅員らしい女性にトイレの場所を聞く。大きな駅のトイレは有料なのが普通だが、ここは無料だった。トイレもきれいで、乗客用ではなさそうだった。
 駅舎の周りを1周して車内に戻る。舗装されていない道路を歩く人々はまばらで閑散としていた。車内に戻ると、クスーシャ、ターニャも起きていた。この駅の放送はかなり早口。クスーシャも分からないと言っていた。
 Ерофей Павлович駅を出るとまもなく、20時間近くかけて1000kmあまりを横断したアムール州ともお別れ。
 今朝も天気は良く、ちょっと涼しい。昨日は低い木の草原が多かったが、朝の車窓には森が続く。

 10時40分頃、チタ州Читинская ОбластьアマザルАмазар駅(7003.6km)で20分間の停車。多くの人々はホームへ。私もちょっと散歩してみる。
 ホームにはいつものように、飲み物や手製の料理を売るおばちゃん達。駅前にはいくつか食べ物の店、携帯電話の料金支払いの店がある。駅の時刻表を見ると、近距離列車は1日わずか3往復で、1日約8往復程度の長距離列車の本数より少ない。私たちのようにホームや駅周辺で買い物をする長距離列車の乗客は、この小さな町の貴重な収入源になっているのかもしれない。10時57分、定刻にАмазар駅を発車。

 私にとって、何十時間も列車で移動するのはもちろん初めて。車内で退屈しないよう、日本からは本数冊だけでなく、時刻表、鉄道の路線図、ロシア語で書かれた世界地図のコピーなどを持ってきた。全停車駅が記載された時刻表や地図は周りの乗客にとっても興味の対象になるようで、斜め前の男性に、世界地図を見せてくれと頼まれた。私が地図を渡すと、隣のボックスの人々も地図を見たかったらしく、そちらにも回覧された。地図や時刻表がなければ、どこを走っているのか全く分からない。世界地図のコピーには、これまで走ってきた路線を蛍光ーマーカーで染めているのだが、世界地図から見れば列車の走る速度は1時間に針の先くらいで、なかなか先に進まない。

 今日の食事は、車内販売や駅で買ったインスタント食品が中心。ちょっと不健康なので、お昼に停車したマゴチャМогоча駅の売店でりんごを1つ買った。
列車は山の中を走り、川と並行してカーブが続く。どこまでも木の緑が広がる風景。

 18時10分頃、Чернышевск-Забайкальскийチェルニシェフスク・ザバイカルスキー駅。25分間の停車時間を利用して、ホームの店にシャンプーを買いに行く。今回はどの店にも行列が出来ており、私が並んだ店では前に並んでいる人々を「早く!」と後ろからせかす声も聞かれた。通常の買い物と違って、列車の発車時間というタイムリミットがあるホームでの買い物。後ろの人に迷惑をかけないためにも、必要なものだけを素早く買わなければならない。 
    
 午前中はそうでもなかったのだが、午後から夕方にかけては外も車内も暑い。昨日ほどではないにせよ、じっとしていると汗が出る。またシャワーの必要があるかなと思っていた矢先、昨日のゾーヤ=ミハイロヴナが後方から客を連れて歩いてきた。彼女は私を覚えてくれていたようで、「夜にいかがかな?」と進めてくれた。私はもちろんシャワーに行きたい旨答える。

シベリア鉄道というと、私はひたすら針葉樹林の間を進むのだろうと想像していたが、決してそれだけではない。
 確かに針葉樹林もあるが、鉄道の沿線だけあって大小の町や集落があり、シベリアのど真ん中にも確かに人々の生活の匂いが感じられた。
 ただ、ひとたび集落を離れて次の集落へ向かう間は、人間が足を踏み入れたことがないのではと思うほどの大自然のパノラマが広がる。あるときは山の険しいがけ、あるときは見渡す限りの草原、広い大地をたっぷりと占めて悠々と蛇行する川。ロシアの大地は、まさに地球を走っているのだという感覚を与えてくれた。