国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

中高生のための内田樹(さま) その41

2020-03-16 13:28:04 | 中高生のための内田樹(さま)
●教育系の小論文。問題のみ。



次の文章を読んであとの問いに答えなさい。

 誰だって教師になれる。そうでなければ困る
 人間たちが集団的に生き延びてゆくためにほんとうに重要な社会制度は「誰でもできるように」設計されている。そうでなければ困る。例外的に卓越した資質を持っているに人間しか社会制度の枢要な機能を担い得ないという方針で社会制度が設計されていたら、とっくの昔に人類は滅亡しているだろう。
 以前、大相撲の力士をしていた方から不思議な話を伺ったことがある。彼は「相撲取りというのは、ある程度身体が大きければ、誰でもプロになれるのです」という驚くべき事実を教えてくれた。
 「サッカーや野球であれば、生得的に高い運動能力を持っていなければプロにはなれません。でも相撲は違う。生得的資質が凡庸であっても、プロになれる。とてつもなく強くなれる。そうなるように相撲の身体技法は合理的にプログラムされているのです。」
 私は驚き、そののち深く納得した。
 確かにその通りである。そうでなければ困る。
 もし、十万人に一人というような例外的にすぐれた身体能力を持ったものしか相撲の力士になることができなかったら、それが1500年続くということはありえなかったはずだからである。相撲が例外的天才しか習得にできない特殊な技能であったら、一世代だけでも「例外的に卓越した身体能力の保持者」が相撲の道に入らなければ、その時点で相撲の伝統は断絶してしまったであろう。
 相撲において最優先するのは「たとえ凡庸な身体能力しかもたないものについてでも、そのポテンシャルを爆発的に開花させることのできる能力開発プログラム」を次世代に継承することである。ある時代に伝説的な力士がひとり出現して、その人が人間の身体には「これほどのこと」ができることを示せれば、それで「終わり」というのでもよいなら、ある意味話は簡単である。だが、相撲は一人の天才のパフォーマンスを神話的に語り継ぐことよりも、力士養成プログラムを「存続させること」を最優先した。それは相撲という呪鎮のための神事であり、大衆芸能であり、格闘技であり、見世物である複素的なこの技芸が日本列島から決して失われてはならないという強烈な使命感を力士たちを貫いていたからである。
 私自身はなぜ相撲が世代を超えて継承されなければならないのか、その理由をみなさんに向かって説得力のある言葉で語るだけの用意がない。だが、「決して失われてはならぬ制度については、『その気になれば、誰でも十分にそれを担う資格がある』ように構造化されていなければならない、という人類学的知見には深く同意する。
 学校教育もまた、そのような意味で「決して失われてはならない制度」である。それなしでは人間たちが集団的に生き延びてゆくことができない制度である。
学校教育の行われない社会集団を想像してみればわかる。そこでは幼い成員たちは成熟への道筋を示されることなく、遊興に耽り、怠惰に過ごしても咎められない。子供たちは生きるための基本的な技術も知恵も教わらないままに無能な成人になり、いずれ餓え死にするか、他の攻撃的な部族に襲われて奴隷になるか殺されて終わる。
 学びのシステムを持たない集団は存続することができない。
 だとすれば、学校教育については、「誰でも、一定の手順を覚えさえすれば、教える仕事は果たせる」ように制度設計されていなければならないはずである。例外的に知的であったり、洞察力があったり、共感性が高かったりする人間でなければ、そのような仕事は務まらないというルールを採用していれば、人類はとうに消滅していただろう。



問一 傍線部「誰だって教師になれる」のはなぜですか。200字以内で述べなさい。

問二 傍線部「決して失われてはならない制度」とあるが、それはどういうことか。また、それに対してあなたの意見を書きなさい。


●全文は『教育の奇跡』



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