国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

中高生のための内田樹(さま) その30

2018-12-31 14:35:30 | 中高生のための内田樹(さま)
●今年、最後の記事は(私としては)力を込めて掲載し続けた「中高生のための内田樹(さま)」にした。

●中高生以外にも刺激となっている面があるといいなと思っている。

●来年はご著書からも引用して掲載を続けていきたいと考えている。

●ウチのブログは教育目的だよね(念押し)。



 
次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。


 大衆社会にはさまざまな特徴があるが、その一つは「視野狭窄」である。
 どうしてそうなるのかというと、大衆の行動基準は「模倣」だからである。
 オルテガが看破したように、「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」(『大衆の反逆』)
 彼らの行動準則は、「他人と同じであるか、どうか」だけである。
 何らかの上級審級に照らして正邪理非を弁ずるということをしない。
 「みんながやっていること」は「よいこと」で、「みんながやらないこと」は「悪いこと」というのが大衆のただひとつの基準である。
 これはある意味では合理的な判断である。
 上位審級(法律とか道徳とか宗教とか哲学とか)だって、ある程度までは「みんな」の支持を取り付けないと実効的には機能しない。
 少数の人間が「絶対これがいい」という選択肢と、多数の人間が「別にこれでもいいけど」という選択肢があった場合には、後者を選んでおく方が安全、というのはたしかな経験則である。
 だから、大衆社会の人々がほんとうに「みんな」がやっていることを是とし、「みんな」がやらないことを非としているのであれば、(オルテガ先生に逆らうようで申し訳ないけれど)、実は大衆社会というのはかなり住みよい、条理の通った社会なのである。
 では、なぜ大衆社会がこれほどあしざまに批判されるのかというと、問題は「みんな」という概念のふたしかさに起因するのである。
 るんちゃんが子供の頃、おもちゃを買って欲しいと言ってきたことがあった。
 「どうして?」と訊くと、「みんな持ってるから」と答えた。
 「みんな、って誰?」と重ねて訊くと、「うーんとね、なっちゃんとね・・・なっちゃんとね・・・なっちゃんとね・・・」
 そのときの「みんな」は一名様だったわけである。
 問題は「みんな」がどれほどの個体数を含むのかが「みんな」違うということなのである。
 ある程度世間を見てきて、世の中にはいろいろな人間がおり、いろいろな価値観や美意識や民族誌的偏見やイデオロギーや臆断があるということを学んできた人間はめったなことでは「みんな」というような集合名詞は使えないということがわかってくる。
 逆に、世間が狭い人間は軽々に「みんな」ということばを使う。
 彼の知っている「みんな」が考えていることは、その事実により「常識」であり、「みんな」がしていることは、その事実により「規範」たりうるのである。
 大衆社会がそこに住む人間にとって必ずしも安全でも快適でもないのは、「みんな」ということばの使い方がひとりひとり「みんな」違っており、それゆえ、「みんな」の範囲が狭い人間であればあるほど、おのれの「正義」とおのれの判断の適法性をより強く確信することができるからである。
 無知な人間の方がそうでない人間よりも自分の判断の合理性や確実性を強く感じることができる。
 それが大衆社会にかけられた「呪い」である。



問い 最終行 大衆社会にかけられた「呪い」 なのはなぜか。












【解答例】
範囲の狭い「みんな」に基づき行動・判断するという無知で幼稚な「大衆」の方がいろいろな人間がいると学んで範囲を広くとる人々より多いと、無知であるはずの大衆は自分の判断の合理性や確実性を信じて行動するので安全でも快適でもない社会になるから。




・「大衆」の部分と対比になっている人々を説明する
・「呪い」というマイナス表現を本文から探し出す
・いろいろと知っている人の反対語として「無知」を、また、るんちゃんの例から「幼稚」を使用した
・他にも「視野狭窄」などの語句を用いるのも可。



 全文はこちら「みんな」の呪縛より
コメント
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