●ふと、思い出したが、私がこのカテゴリー「中高生のための内田樹(さま)」をはじめるときにこう書いていた。
「そこで中高生に読んでほしい部分を抜き出して、内田樹入門、現代思想入門などなどにしていきたいのである。
いわば他人のふんどしで相撲をとるわけだが、その通りだ。
時に設問や解説をつけるかもしれないが、蛇足と思っていただければ幸いである。」
●「時に設問や解説をつける」である。
「時に」である。忘れていた。
ちょっと設問がつく記事が多すぎた。
●また、せっかく「中高生のための」と書いてあるんだから、入試を意識するだけでなく、「大人」になるとか、「大学生」になるとかの部分を紹介していくべきではないのか。
●とまあ、初心を思い出したのである。
●これからも設問やら解説をつけていくことがあるやもしれぬが、蛇足と思ってほしい。
●ついでの話だが、以下は私が手品=マジック=奇術を下手にもかかわらず、病人であるにもかかわらず、続けている理由を考えてほしい文章である。
経験的に言って、一人の「まっとうな学者」を育てるためには、五十人の「できれば学者になりたかっ た中途半端な知識人」が必要である。非人情な言い方に聞こえるだろうが、ほんとうだから仕方がない。
一人の「まともな玄人」を育てるためには、その数十倍の「半玄人」が必要である。別に、競争的環境に放り込んで「弱肉強食」で勝ち残らせたら質のよい個体が生き残るというような冷酷な話をしているわけではない。「自分はついにその専門家になることはできなかったが、その知識や技芸がどれほど習得に困難なものであり、どれほどの価値があるものかを身を以て知っている人々」が集団的に存在していることが一人の専門家を生かし、その専門知を深め、広め、次世代に繋げるためにはどうしても不可欠なのだということを申し上げているのである。
私は仏文学者として「裾野」の拡大に失敗した。そして、先人たちが明治初年から営々として築き上げてきた齢百年に及ばない年若い学問の命脈を断ってしまったことについてつよい責任を感じている。今、日本の大学には専門の仏文学者を育てるための教育環境がもう存在しない。個人的興味から海外留学してフランス文学研究の学位を取る人はこれからも出てくるだろうが、それはもう枯死した学統を蘇生させるという集団的責任を果すためではない。
能楽の場合でも事情は変わらない。一人の玄人を育てるためには、その数十倍、数百倍の「半玄人」が要る。それが絶えたときに、伝統も絶える。
私が「旦那」と呼ぶのは「裾野」として芸能に関与する人のことである。余暇があれば能楽堂に足を運び、微醺を帯びれば低い声で謡い、折々着物を仕立て、機会があるごとに知り合いにチケットを配り、「能もなかなかよいものでしょう。どうです、謡と仕舞を習ってみちゃあ?」と誘いをかけ、自分の素人会の舞台が近づくと、「『お幕』と言った瞬間に最初の詞章を忘れた夢」を見ては冷や汗をかくような人間のことである。
私はそういう人間になりたいと思う。そういう人間が一定数存在しなければならないと思う。技芸の伝承は集団の営為だからである。全員が玄人である必要はないし、全員が名人である必要もない。玄人の芸を見て「たいしたものだ」と感服し、おのれの素人芸の不出来に恥じ入り、それゆえ熟達し洗練された技芸への欲望に灼かれる人々もまた能楽の繁昌と伝統の継承のためになくてはならぬ存在なのである。
私たちの社会は「身の程を知る」という徳目が評価されなくなって久しい。「身の程を知る」というのは自分が帰属する集団の中で自分が果すべき役割を自得することである。「身の程を知る人間」は、おのれの存在の意味や重要性を、個人としての達成によってではなく、自分が属する集団がなしとげたことを通じて考量する。
それができるのが「大人」である。
私たちは「大人」になる仕方を「旦那芸」を研鑽することによって学ぶことができる。私はそう思っている。同意してくれる人はまだ少ないが、そう思っている。
●要は私は「『大人』になる仕方」としてマジックの「旦那」を目指しているのである。底辺がひろがるほど、上質の玄人が誕生し、その玄人たちが食べていけるためにも、下手でも病人でもマジックを続けていくのである。
●そのあたり、無料で簡単にマジックを習得できるコンテンツには疑問を持っている。本でもDVDでもマジックグッズでもその購入が玄人を食わせていくならそれはそれでいいことだし、まして「苦労」のあげくマジックを理解する楽しみや、実演する楽しみがあるのだから、上質の趣味である。
上質の趣味であると各自、自分の趣味について思っているだろうし、そうでなくてはいけない。
むろん、他の趣味も「『大人』になる仕方」を教えてくれるだろう。
●以前生徒に言っていたのが
「生徒の経験を作る3要素」である(また、「3」にこだわっているね)。
それは
「学校・地域・趣味」である。
部活・学級活動、友人を含めた学生生活では、スマホ(現実の一部だけしか付き合えないからね)に頼らず現実100%で向き合ったり、身近な大人である先生と交流したりするといいね。おそらく一番具体的な経験となるであろう。
祭り、ボランティア、散歩などを総合した地域と関連した経験(意外なほどない生徒さんが多いのよね)を通して地元の意外な価値を実感していくことも大事だ。私の場合、以前は散歩を趣味にしていたが、由緒ありそうな神社の跡地やら立派な意匠をこらした蔵やらその地域の歴史的暗部をあらわす何か(ここには書けないよ)とか、いろいろと見つけたもんだ。
地域もそうだが、年齢に関係なく存在する「趣味」も良い。学校は学年やら部活やらの縛りが多すぎる。
私はどれほど年上の著作に感動し、年下の存在に刺激を受けたことか。今でも野島信幸氏(彼が中学生時代から知っているような気がする)には多くの影響を受けているしな。はっ、師であるゆうきとも氏も年下ではないか。それに一流ないし、玄人の存在が色々なことを教えてくれるだろう。
これらが生徒の良質の経験つながるのである。自己推薦に書くことがないという3年生は多いがこの3要素を充実させなかったか、気づいていないだけのことだ。
また、この3要素は小論文でも身近な具体例としてつかえることもあるから大切にしよう。
●とりあえず、君たちに「趣味」はあるだろうか。ある人はおめでとうである。よい「旦那」になるといい。
むろん、「玄人」になっても全然かまわないんだけどな。
●また、余計な解説もどきをつけてしまった。
●原文は
こちら「旦那芸について」について」より。