国語屋稼業の戯言

国語の記事、多数あり。国語屋を営むこと三〇余年。趣味記事(手品)多し。

中高生のための内田樹(さま) その26

2018-12-20 14:27:50 | 中高生のための内田樹(さま)



次の文章を読んで後の問いに答えなさい。

 アスリートのパフォーマンスを数値でしか語れないというのは、現代日本を覆い尽くしている「幼児化」の端的な徴候である。
 スポーツメディアが書くのは「数字」と「どろどろ人間模様」だけである。
 アスリートについて書かれていることは、記録や順位や回数について、ローカルな人間関係についてか、ほとんどそのどちらかである。
 ベースボールプレイヤーについて書くときに、打率や打点や本塁打数や出塁率やにしか言及できないというのは、喩えて言えば、バレーダンサーのパフォーマンスについて論じるときに、ピルエットの回数とかジュテの高さとかリフトしたバレリーナの体重だけを書き、「舞踊そのもの」については何も書かないようなものである。
 野球もまた身体的パフォーマンスであり、それが与える喜びはダンスを見る場合と変わらない。
 それは卓越した身体能力をもった人間に「共感する」ことがもたらす快感である。
 長嶋茂雄という選手はもう記録においてはほとんどすべてを塗り替えられてしまったけれど、彼がプレイするときに観客に与えた快感に匹敵するものを提供しえたプレイヤーはその後も存在しない。
 長嶋茂雄はただ「守備しているときに来たボールは捕って投げる。攻撃しているときに来たボールはバットで打ち返す」ということだけに全身全霊をあげて打ち込んだプレイヤーである。
 長嶋のプレイを見ているときに、私たちは彼の身体に想像的に嵌入することを通じて「野球そのもの」に触れることができた。
 その意味で長嶋は一種の「巫者」であったと思う。
 長嶋がそうであったように、卓越したパフォーマーに私たちが敬意を払うのは、その高度な能力を鑑賞することを娯楽として享受できるからではない。
 そうではなくて、私たちの日常的な感覚では決して到達できない境位に想像的に私たちを拉致し去る「involveする力」に驚嘆するからである。




問い 傍線部「幼児化」とはどういうことか。











【解答例】
本来は、卓越したアスリートがくれる、日常的な感覚では私たちが到達できない「スポーツそのもの」に共感し、驚嘆し、想像しなくてはいけないのに、日常的な感覚でわかる数字やどろどろ人間模様にしか興味を持てないということ。



【ポイント】
「幼児化」と対比になっている部分を読み取ることが重要。

それは卓越した身体能力をもった人間に「共感する」ことがもたらす快感である。
私たちの日常的な感覚では決して到達できない境位に想像的に私たちを拉致し去る「involveする力」に驚嘆するからである


具体例の長嶋茂雄の「野球そのもの」を「スポーツそのもの」に抽象化した

あとは「幼児化」の内容として「数字」と「どろどろ人間模様」の部分を活用した。そして「幼児」は「本来」ができていないということと「日常」にしか興味が持てないことで表現した。

なお、「A逆説B」で対比・二重性を表現している。


コメント
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