山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

桜の道:南禅寺から銀閣寺へ 2(南禅寺)

2024年04月22日 | 寺院・旧跡を訪ねて

★2024年4月5日(金曜日)
金地院のすぐ傍が南禅寺。三門、法堂、水路閣、方丈を巡る。南禅院は修理中のため拝観停止でした。

 三門  



金地院から南禅寺の参道に戻ると、目の前に南禅寺の勅使門(重要文化財)と中門が見えている。
南禅寺公式サイトに「勅使門は、寛永18年(1641)明正天皇より、御所にあった「日の御門」を拝領したものです。古くは天皇や勅使の来山の折に限って開かれる門でした。現代では住持の晋山に限って開かれています。その勅使門の南にある中門は、慶長6年(1601)松井康之より、伏見城松井邸の門を勅使門として寄進されたものです。日の御門の拝領に伴い現地に移建され、幕末までは脇門と呼ばれていました。」とあります。

秋を思わせる情景ですね。南禅寺は春よりも秋の紅葉の方が映えます。

(境内図は公式サイトより)中門を潜り境内に入る。真っすぐのびる参道の突き当りが方丈で、その参道の右手に水路閣、左手に三門、法堂があります。

★★~ 南禅寺の歴史 ~★★
鎌倉時代、この地には亀山天皇が文永元年(1264)に造営した離宮の「禅林寺殿」があった。名前は近くにあった禅林寺(永観堂)に由来する。出家して亀山法皇となり禅林寺殿を、正応4年(1291)に開山を無関普門(大明国師)として寺に改め、「龍安山禅林禅寺」と名付けた。これが南禅寺の創建です。さらに正安年間(1299 - 1302)に「太平興国南禅禅寺」(たいへいこうこくなんぜんぜんじ))という寺号に改めた。これが現在まで南禅寺の正式名称です。南禅寺は、京都・鎌倉の禅刹「五山」の最上位に位置づけられ、別格として「五山之上」とされた。

その後、二度の火災(1393年、1447年)、さらに応仁元年(1467)に始まった応仁の乱により伽藍をことごとく焼失し、衰退していった。南禅寺の復興は、第270世住職となった以心崇伝(いしんすうでん、1569―1633)によって行われた。鷹ケ峯にあった金地院を南禅寺境内に移して居住し、応仁の乱によって荒廃した南禅寺の伽藍の復興に努め、三門、法堂や大方丈、小方丈、庭園などが造られていった。
明治時代になると、上知により境内は3分の1ほどに減らされ、塔頭も半分以下に減ってしまった。それでも主要伽藍は残され、現在では京都でも有数の観光名所となっている。平成17年(2005)、南禅寺境内全体が国の史跡に指定されました。

三門は永仁3年(1295)に西園寺実兼の寄進によって創建されたが、文安4年(1447)の南禅寺大火で焼失。現在の門は、以心崇伝による南禅寺復興時の寛永5年(1628)に、津藩主・藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るために寄進再建したもので、別名「天下竜門」と呼ばれる。
公式サイトに「三門とは、仏道修行で悟りに至る為に透過しなければならない三つの関門を表す、空、無相、無作の三解脱門を略した呼称です。山門とも書き表され、寺院を代表する正門であり、禅宗七堂伽藍(山門、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、東司、浴室)の中の一つです」とあります。

構造は「五間三戸二階二重門」(?)、入母屋造、本瓦葺で高さ約22メートル。両側に山廊をもつ。知恩院・久遠寺(山梨県)とともに「日本三大門」、知恩院・仁和寺とともに「京都三大門」とされる。国の重要文化財。

太く、重量感のある円柱に圧倒される。何本あるんだろう。高くてデッカイ敷居は、おばあちゃんが跨ぐのは大変だ。腰掛けて美しい境内を眺めるのにはちょうど良いが。


三門の斜め前に大きな石灯籠が置かれています。寛永5年(1628)の三門落慶の際に佐久間勝之が供養のために奉納した石灯籠で、俗に佐久間玄藩の片灯籠と呼ばれている。高さは6メートルあり、三門があまりにデカイので目立たないが、東洋一の大きさです。

南側の山廊に階段が設けられており、二階に上がることができる。山廊内に受付(拝観料600円)があり、履物はビニール袋に入れ持って上がる。傾斜45度の急階段で、両側のロープを頼りに、這うようにして登ります。

「五鳳楼(ごほうろう)」と呼ばれる楼上は四周が廊下で囲まれ、東西南北全方向を眺めることができます。しかし楼上内陣は塞がれ見ることは出来ない。ただ正面に一過所だけぞき窓が開けられ内陣を見ることができる。撮影禁止なので、公式サイトから紹介すると「山門楼上内陣の正面には仏師左京等の手になる宝冠釈迦座像を本尊とし、その脇士に月蓋長者、善財童士、左右に十六羅漢を配置し、本光国師、徳川家康、藤堂高虎の像と一門の重臣の位牌が安置されています。また天井の鳳凰、天人の極彩色の図は狩野探幽、土佐徳悦の筆とされています。」とあり、内陣写真も掲載されています。

絶景かな、と叫びたいのだが、樹木に遮られ京都市内が少ししか見えないのが残念。大泥棒・石川五右衛門がこの三門上で見得を切り「絶景かな、絶景かな。春の眺めは値千金とは小せえ、小せえ」といったセリフが有名です。しかし五右衛門は三門が建てられる30年前の文禄3年(1594)に捕らえられ、京都三条河原で子とともに釜ゆでの極刑に処せられている。歌舞伎「楼門五三桐」の芝居上の演出にすぎません。

反対の山側に周ると、春と秋が同時に訪れたようで、絶景かな、絶景かな。正面に見えるのは法堂です。

 法堂(はっとう)  



三門を降り、法堂へ向かう。三門と法堂を真っすぐ結ぶこの道が、私にとって南禅寺で一番お気に入りの場所です。春の桜、夏の新緑、秋の紅葉と四季ごとに彩りを変え、派手さは無いが何か落ち着きを与えてくれる参道です。後ろに三門がそびえ、緩やかな坂道を歩きながら振り返るごとにその表情を変えてみせてくれる。

南禅寺の中心となる法堂(はっとう)は法式行事や公式の法要が行われる場所。創建当時のものは、応仁、文明の乱で焼失したが、慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建された。しかしこれも明治28年(1895)にこたつの火の不始末で焼失した。現在の建物は、明治42年(1909)に再建されたもの。

堂内には入れず、また外から見ることもできない。ただ径10センチほどの丸穴が開けられ、そこから覗き見れるようになっている。カメラを突っ込み撮ってみました。床は一面の敷瓦で、正面須弥壇上には中央に本尊の釈迦如来坐像、右側に獅子に騎る文殊菩薩、左側に象に騎る普賢菩薩の三尊像を安置している。天井には明治から大正にかけて活躍した画家・今尾景年による幡龍が描かれている。


 水路閣(すいろかく)  



左が法堂、正面の白壁は方丈への入口になる庫裏、右の小橋を渡れば水路閣へ。
禅宗様式の伽藍配置は、勅使門、三門(山門)、法堂、方丈が一直線になっている。勅使門と三門の間に池が置かれることも多い。

初めて見た時、お寺にコレはなんだ!、と非常な違和感を覚えたものです。しかし何度か訪れて見ているうちに、古さび渋くなったレンガ構造物が周囲の環境にとけ込み違和感は感じなくなった。ピカピカのレンガでないのが良い、周りが庭園化されてないのが良い。木立越しに佇む水路閣のある一帯は、南禅寺境内だということを忘れさせてくれる異空間となっている。

「水路閣(すいろかく)」の名称で、今では有名な観光スポットとなっている。南禅寺を訪れて、三門を見上げこの水路閣で写真を撮っただけで帰る人が多い。特に古さびたレンガ造りのアーチ橋を背景に、着物姿で撮った写真が映えるそうです。
平成8年(1996)に日本を代表する近代化遺産として国の史跡に指定された。
琵琶湖疏水の分水を北へ流すため「当初は塔頭南禅院の南側にトンネルを掘って水路にする予定であったが、それでは南禅院にある亀山法皇廟所の裏を通ることになり、南禅寺が反対した。そのために現在の形を取ることになった。建設当時は古都の景観を破壊するとして反対の声も上がった一方で、南禅寺の三門には見物人が殺到したという。」(Wikipediaより)。
設計・デザインしたのは琵琶湖疎水工事の主任技師だった田邉朔郎で、明治23年(1890)に完成した。全長93.2メートル、高さ約9メートル。
当時景観論争がわき起こり、苦悩した田邉朔郎がだした結論が、古代ローマの水道橋を思わせるレンガ造りのアーチ橋だったのです。

この通し穴が絶好の撮影スポットだが、邪魔が入るのでなかなか難しい。橋を潜った先に階段が見え、登ると水路閣の上面が見られ、また蹴上インクラインへの近道ともなっている。

階段を登った正面が、南禅寺発祥の地・南禅院です。現在、改修工事のため塀で塞がれ拝観できない(令和7年(2025)3月まで)。

水路閣の上。この疎水の分流は北へ流れ、哲学の道に沿って流れる小川となり、爽やかな風景を演出してくれている。
「近代化遺産」とされたが、現在でも琵琶湖からの水を流し続ける現役なのです。





 方丈とその庭園  



水路閣のすぐ東側が方丈です。これから方丈とその庭園を見学するのだが、やや複雑な構造をしているので、自分の居場所が分からなくなってくる(数年前に経験)。そこで方丈の図面を入手したので掲載しておきます。この図面は南禅寺の庭園を手がけられた植彌加藤造園(株)の公式サイトからお借りしました。庭園も素晴らしいが、この図面も素晴らしい、ありがとうございます。

方丈の入口の横に唐破風の大玄関が見える。特別な行事の時にのみ使用され、通常は通れない。真っすぐ伸びた石畳の両側に、玉砂利を敷き詰め、樹木と植栽、景石を配置した美しい庭園で、植彌加藤造園さんによるもの。この石畳の敷石は京都市市電伏見線が廃止になった時に軌道敷の板石を払い下げられたものだそうです。

禅宗寺院特有の姿を見せる庫裏。ここが方丈への入口で、拝観受付があります(方丈庭園600円)。履き物を脱ぎ、置かれているビニール袋に入れて持ち歩く。使用済みの袋は(お土産に?、記念に?)「お持ち帰り下さい」とのこと。
南禅寺の正式名は「瑞龍山 太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)」。禅宗は、インドから中国へ渡った達磨大師を初祖とし、6代目の時に南宗(なんしゅう)禅と北宗禅に分裂した。「南宗禅の法を伝える寺の意から南禅寺の寺名になりました。南宗禅とは達磨大師より6代目の大鑑慧能禅師の法系をいいます」(公式サイトより)

玄関を上がったすぐ右手が「滝の間」で、抹茶(有料)を味わいながら滝を眺められる。滝水は琵琶湖疏水より取り込んでいる。板戸が開放されているので、抹茶を頂かなくても十分滝を鑑賞できるよ。
滝に覆いかぶさるように枝を広げるのはモミジ。滝に遠近感をつけるための仕掛けのようです。紅葉時期には、赤毛氈に座り抹茶を頂くべきです。



板張りの廊下が方丈へと続いている。右手の書院の部屋では、「南禅寺 歴史と美」と題した約10分の映像を流していました。








書院の北側に、「還源庭」(げんげんてい)と札の立つ小さく簡素な庭があります。左が大方丈で白壁は蔵。涵


書院の西側に、大方丈の建物とその庭園が見える。

大方丈は内陣と六部屋からなる。仏間を除く各部屋には桃山前期の狩野派絵師筆により障壁画計124面(重要文化財)が描かれていた。「描画により400年が経過して、彩色の剥落などの傷みがみられるため、平成23年(2011)12月に124 面中の84面を収蔵庫に保管しました。現在は、デジタル撮影した画像を元に、江戸初期から中期の色合いで描画復元した、84面のあらたな障壁画を補完して公開しております」(公式サイト)

大方丈の建物は、豊臣秀吉が天正年間(1573年 - 1593年)に建てた女院御所の対面御殿を慶長16年(1611)に下賜されたもの。昭和28年(1953)国宝に指定されました。

大方丈庭園は、江戸時代初期の以心崇伝による南禅寺復興の際に、小堀遠州によって作庭されたと伝わる。東西に細長く、全体を最高格式の五筋塀で囲い白砂を敷き詰め、左奥に石を並べサツキの刈り込みを中心に松とモミジを配置している。通常、石組みを立てて須弥山・蓬莱山などを表現し仏教観を示すのだが、ここではそれがなく、大小の石を寝かして並べているだけです。観念的意味を持たせず、ただ調和美だけを意識した庭園のように思えます。私はこうした庭園の方が好きです。
ところが明治以降、「虎の子渡しの庭」と意味づけされるようになる。左の大きな石が母虎で、小さな石の子虎を従え川(白砂)を渡っているそうです。私には、そんな風には見えないのですが・・・。

江戸時代初期の代表的な枯山水庭園として、昭和26年(1951)に国の名勝に指定された。

大方丈の廊下を進み角を曲がると、さらに廊下が続いている。この廊下の一番奥が、大方丈に接続して伏見城の小書院が移設され、「小方丈」と呼ばれている。

(庫裏前に掲載されていた写真より)小方丈の部屋は「虎の間」と呼ばれ、狩野探幽筆の「群虎図」40面がある。中でも「水呑の虎」の図(上の写真)は、猛々しい虎が生き生きと描かれていて有名です。Wikipediaは「小方丈の障壁画は狩野探幽の作と伝えられるが、作風上からは数名の絵師による作と推測されている」といっています。

小方丈前の庭園は「如心庭」と呼ばれている。「小方丈庭園は別名「如心庭(にょしんてい)」と呼ばれます。昭和41年(1966)に当時の管長柴山全慶老師が「心を表現せよ」と自ら熱心に指示指導されて植彌加藤造園に作庭されました。その名のごとく、「心」字形に庭石を配した枯山水の石庭で、解脱した心の如く、落ち着いた雰囲気の禅庭園となっています」(公式サイトより)

小方丈の北へ周ると「六道庭(ろくどうてい)」です。天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六つの世界をさまようという六道輪廻の観念を表したという。バラバラに置かれた石は、煩悩に迷い彷徨う姿を表したものでしょうか。
白壁の左脇に少しだけ見えるのが「大筒垣(おおづつがき)」と呼ばれ、南禅院の竹藪から孟宗竹を切ってきて太めの鉄砲垣を創作したもの。

大方丈の北、小方丈の東、中庭のような小さな庭がある。大方丈の「鳴滝の間」に接しているので「鳴滝庭」と呼ばれる。北西隅に、岐阜県で採取された大変貴重な紅縞(めのう)で作られたという大硯石が置かれている。

渡り廊下を挟んで六道庭の東側に、昭和59年(1984)に作庭された「華厳庭(けごんてい)」がある。白砂で見立てた大海に浮かんでいるのは、島か舟か?。囲いは「南禅寺垣」というそうです。南禅寺垣の奥に見えるのが、昭和43年(1968)に寄進された茶室「窮心亭(きゅうしんてい)」。修学院離宮にある後水尾天皇命名の「窮邃軒(きゅうすいけん)」の趣を慕って名付けられたという。

渡り廊下の北の端は、昭和59年(1984)に造られた「龍吟庭(りゅうぎんてい)」。中央に「涵龍池(かんりゅういけ)」を置き、周辺に白砂、巨石を配する。この辺り、春よりは秋が見頃か。池の奥に見えるのが昭和29年(1954)の寄進された茶室「不識庵(ふしきあん)」。

中央が三門、左は法堂。こちらの通りは人が少ない。皆、水路閣のほうへ引き寄せられて行きます。
国の史跡に指定されている境内は24時間無料開放されている。拝観料が必要なのは、(大人個人)方丈庭園600円、三門600円、南禅院400円。拝観時間は午前8時40分~午後5時(年末12月28日~31日は休みだが、年始は休まない)
南禅寺公式サイト



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