山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「西の京」から大和郡山へ (その 5)

2014年06月26日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 大和郡山「箱本十三町」  



近鉄・郡山駅とJR郡山駅との間は「箱本十三町」と呼ばれる古い町家やお寺が残され,歴史情緒を感じさせてくれる。
筒井順慶が郡山城を縄張りしたときに、本貫地の筒井から商人を呼び寄せて作ったのが「本町」で、これが最も古い。豊臣秀長が100万石大名として郡山に入城したとき、奈良での商売は郡山に限ると決め、各地の商人を呼び集めて町割りした。今井町・奈良町・堺町はその地から集まったものでしょう。魚町・茶町・綿町・雑穀町・豆腐町・紺屋町・材木町は取り扱いの商品名からのもの。各町の商人はそれぞれ商売の独占権が与えられ,地代免除などの特権が与えられていてた。また治安・消火・伝馬・徴税など、町政の一部を当番制で仕切る自治制度を与えられた。「箱本」というのは、当番の町が特許状の入った朱印箱を置き,「箱本」と染め抜いた小旗を立て,一ヶ月全町の治安・消火・伝馬などの世話をしたことからくるという。

 大和郡山 : 外堀緑地  



「箱本十三町」の東側,JR郡山駅側に細長い遊歩道のような,公園のような場所がある。これが「外堀緑地」と呼ばれ,郡山城の外堀の一部(常念寺~薬園八幡神社周辺)を利用し美しく整備された市民憩いの緑地公園です。堀が復元され、郡山名物の金魚や鯉が放されているそうです。



 大和郡山 : 紺屋町  


「箱本十三町」の真ん中辺りに紺屋町がある。豊臣秀長の時代(1585~1591)に藍染を職業とする人が集まった職人町で、かっては13軒の紺屋があったという。 中央には外堀へと続く幅1mほどの紺屋川が流れている。昔はここで染物を洗いながしたそうです。TVでは金魚が泳いると紹介していたが,見かけなかった。地元の人に尋ねたら,先日の大雨で流れてしまったんでしょう,ということです。

紺屋町に残るのが箱本館「紺屋」。かって染物屋だった奥野家を改装し資料館として公開している。
陶磁器から絵画・玩具,美術工芸品や生活用品などの金魚のコレクションや、染色の道具、染め場、クドの復元や箱本関係の資料などを見ることができます。大和郡山の金魚研究家・故石田貞雄氏が蒐集された、金魚をテーマとした美術工芸品・生活用具など約1,000点を所蔵。随時入れ替えて展示されているようです。

「藍染め体験コーナー」では、手作り体験することもできる。天然灰汁発酵建て(てんねんあくはっこうだて)という昔ながらの方法で仕込んだ藍で、本格的なハンカチやかばん、ストールなどの染め体験ができるという。

 大和郡山 : 本家菊屋   


大和郡山市の市役所前に、奈良を代表する老舗の和菓子屋さんがある。創業四百有余年という「本家菊屋 (ほんけきくや)」です。
江戸時代末期に建てられたという店構えも、古い商家の佇まいで時代を感じさせてくれます。往来の人通りは少ないにもかかわらず、菊屋さんへの来店客は絶えまない様子。
菊屋さんでは、最中・カステラ・羊羹・栗まんじゅうなど、様々な和菓子を製造・販売されていますが、やはり豊臣秀吉が名付けたという銘菓「御城之口餅(おしろのくちもち)」が有名です。その菓子箱の由来書きが全てを物語ってくれます。
「名物 御城之口餅(おしろのくちもち) 由来
弊店祖 菊屋治兵衛(きくやじへい)が豊臣秀吉公の弟君 豊臣秀長公に召され大和の国に参りましたのが天正13年(1585)でございます。
秀吉公をもてなす茶会に何か珍菓を作るように命ぜられ献上いたしましたのが、粒餡を餅で包み、きな粉をまぶした一口サイズの餅菓子でした。秀吉公は大層お気に召され「鶯餅」と御銘を賜りました。時が経ちいつの頃からか、弊店が御城の大門を出て町人街の一軒目に位置しますことから、「御城の入口で売っている餅」という意味で「御城之口餅(おしろのくちもち)」と呼ばれるようになり、その通称名が菓銘となって、今日に至ってあります。二十六代目 菊屋」

「御城之口餅」は、つぶあん入りの餅にきな粉をまぶしたいたってシンプルなお菓子です。太閤秀吉にとって美味だったようだが、美味しいものに慣れてしまった現在のわれわれにとっては普通のきな粉餅。歴史を味わう御餅のようです。1300円(15個入り)

 源九郎稲荷神社  



かっての遊郭街、洞泉寺町に源義経ゆかりの源九郎稲荷神社があります。案内板が立っている。
「祭神 源九郎稲荷大神
歌舞伎・文楽「義経千本桜」でおなじみの「源九郎狐」(白狐)を神の使いとしています。兄頼朝と仲たがいし、奈良の吉野山をへて東北の平泉へ落ちのがれるおり、この武運強い義経を影ながら守ってきた武将佐藤忠信は実は、この神社の「白狐」の化身だったのです。そこで義経は奥州に下るとき、この白狐と別れる際自分の名である「源九郎」の名を与え「源九郎狐」と名のることを許しました。その後豊臣の時代には豊臣秀吉の弟で郡山大伏城の城主である豊臣秀長は築城にあたって、この源九郎稲荷をお城の守護神と定めました。日本三社稲荷の一つとされています」

創立・由緒などは不詳であるが、次のような話が伝わっているという。長安寺村に草庵を結んでいた僧宝譽の枕元に、白狐が老翁の姿に化け「われを郡山城の巽に祀ってくれるならば、守護神となって、城を守るであろう」と告げたという。宝譽は城主豊臣秀長にこのことを語ると、秀長は城内龍雲郭に白狐を祀ったといわれている。その後享保4年(1719)に現在地に移され、地元の人から「源九郎さん」の呼び名で親しまれているという。
境内には「六代目中村勘九郎 襲名記念植樹 枝垂れ桜」(平成24年9月26日)と添え書きされた立派な枝垂れ桜が満開を迎えていた。また「六代目中村勘九郎 襲名記念植樹 枝垂れ梅」も植わっています。
歌舞伎「義経千本桜」でも演じたんでしょうか。



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