山登り・里歩きの記

主に関西地方を中心とした山登り、史跡巡りの紹介。要は”おっさんの暇つぶしの記”でんナァ!。

「西の京」から大和郡山へ(その4)

2014年06月21日 | 寺院・旧跡を訪ねて

 大和郡山城  



薬師寺から南へ30分くらい歩いただろうか、やっと大和郡山城が姿を現した。城といっても、現在残っているのは櫓と石垣だけで、天守閣な残こっていない。
奈良県のほとんどは幕府の直轄地(天領)だったので、県内の城郭は大和郡山城と高取城の二つだけ。現在は、どちらも取り壊され城址だけが残るのみ。やはり”ミカド”発祥の地・大和には城は似合わないのでしょう。

追手門の脇に立っている案内板によれば、郡山城は以下の歴史を持つ。
織田信長の支援を得た筒井順慶(1549~1584)が大和国守護職となり、城を築いたのが始まり。その後、秀吉の異父弟・豊臣秀長(1540~1591)が入る(1585年)。秀長は,大和・和泉・紀伊の三国百万石の領国を任され,その中心となる郡山城の城郭の拡張や城下町の整備を急いだ。「箱本十三町」の自治制度もこの時作られる。
1600年関ヶ原の戦い以降、徳川家の譜代大名が歴代城主を務める。
享保9年(1724年)に柳沢吉里(よしさと)が甲府城から移り入城し、以来明治維新まで、柳沢15万石の居城となった。安政5年(1858年)の大火により城郭の多くが焼失する。再建に着手するが、明治維新政府により郡山城は廃城と決定され,破却されることになる。櫓・門・塀などの建築物は入札によって売却され、運び去られた。

長らく荒廃していた郡山城であったが、1960年(昭和35年)7月28日、本丸と毘沙門曲輪が奈良県指定史跡となり、昭和58年(1983)に梅林門、1983年(昭和58年)に追手門が、翌1984年(昭和59年)追手東隅櫓が、1987年(昭和62年)には追手向櫓が市民の寄付などにより復元された。内堀に沿って進むと追手門が現れ、そのすぐ左には追手門を守るための追手向隅櫓が、右方に追手東隅櫓が見える。お城らしい建物はこれだけです。

天守閣は無くなっているが,残された城石の上に立つと大和盆地の四方が見渡せ,景観が素晴らしいという。ところが天守台は柵で囲われ、「立ち入り禁止」となっていた。「郡山城天守台の石垣修復及び展望施設整備事業の実施に伴い、平成25年10月21日~平成29年3月下旬の期間立ち入り禁止」だという。残念です。
先日TVで紹介していた「逆さ地蔵」の石垣を見たかったのだが,天守台の裏側なので入れない。案内所で写真を出してくれたが,現地まで来て写真では・・・。
大納言秀長は郡山城の築城にあたって奈良中の石を集めたらしい。当時大和は石材に乏しかったために、石垣に利用できる石類は何でも利用した。寺院から集めた礎石,墓石や石仏(地蔵),仏塔など。中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている。石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれているお地蔵さんを確認することができ、これが「逆さ地蔵」と呼ばれているものです。大火や大地震による倒壊は,これらの祟りだというウワサもあるが。

さっき城址会館(大和郡山市民会館)の近くで,遠くながら天守台の裏側の城石がよく見える場所があったので,引き返す。掘り越しながら石垣がよく見える。大石垣があり、その上に二段の石垣でできている。遠目なので地蔵さんや墓石などの転用石は確認できない。

「郡山城址公園」は,平成2年「日本桜名所100選の地」に選定され,毎年3月下旬から行われる「お城まつり」には多くの花見客で賑わう。この日は平日だったが、桜の最盛期だったので多くの露店が並び見物客で混雑していた。現在、城郭の目立った建物が残っていないので、公園全体に花開く桜が唯一の見所のようです。堀に覆いかぶさるように並ぶ桜並木は圧巻です。
配布されたパンフによれば,「天正16年(1588年)に,豊臣秀長が多武峰談山神社を郡山に遷座した時に桜も城内に移したといわれる。その後,柳沢吉里が郡山に入城した時(1724年)多くの桜を補植し,花の時期には藩士や町民たちの楽しみとなり,御殿桜と呼び親しんでいた」と書かれている。

詳しくはホームページ
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