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雨にも負けず~そういう者に私はなりたい!

2011-07-07 16:34:48 | 日記・エッセイ・コラム

「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、欲は無く、決して怒らず、いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べあらゆることを自分を勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、そして忘れず 

野原の松の林の陰の小さな藁ぶきの小屋にいて、

東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い、
南に死にそうな人あれば、行って怖がらなくてもいいと言い、
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い、
日どりのときは涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、みんなにでくのぼうと呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず

そういう者に私はなりたい.」

3行前は「日照り」と解釈する事もあるが実際の日記には「ヒドリ」とあり当時東北では日雇い労働を「日取り」と呼んでいた、当時賢治も営業のサラリーマンをしており「ヒドリ」が正しいと思われる。

この詩はみんなが知っている岩手県花巻市の有名な東北県人の宮澤賢治が死の2年前、35歳の時に病床で彼の日記に書き残した有名な詩ですが

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最近この詩の文献を調べ、最後に書かれている 「そういう者」に実在のモデルが居たことを知り感銘を受けました、その人の名は斎藤宗次郎といいます。

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宗次郎は1877年岩手県花巻市のお寺に生まれました。
成人して彼は小学校の教師になり、ふとしたきっかけで、聖書を読むようになりそして洗礼を受け、花巻市ではじめてのクリスチャンになりましたがこの時代、キリスト教がまだ「耶蘇教」(やそ)となどと呼ばれ人々から迫害を受けていた頃でしたので、クリスチャンになった日から親から勘当されまた町を歩いていると「やそ」「ヤソ」とあざけられ、何度も石を投げつけられたそうです。
彼はいわれのない中傷を何度も受け、ついには小学校の教師を辞めさせられるはめになります。

また、宗次郎の長女はある日「ヤソの子供」と誰かに罵られ腹を蹴られたため腹膜炎を起こし、
数日後9歳という若さで亡くなったのです。それでも、彼は花巻を離れず信仰を捨てずに、そこに生き続けました。

教師を辞めることになった彼は新聞販売店を起こし朝の三時から大風呂敷を担いで毎日40キロメートルを歩き牛乳や新聞配達をして生活をするようになりました。
重労働の中、肺結核を患い何度か血を吐きながら、それでも毎朝三時に起きて、夜遅くまで働き、聖書を読み、祈ってから眠るという生活を続けましたが、みんなから木偶の坊(でくのぼうー木彫りの人形で何の役にも立たないものの意味)と呼ばれていました。

しかしこのような厳しく苦しい生活が二十年も続いたにもかかわらず、91歳で亡くなるまで生まれつき丈夫だったのか、彼の身体はもちこたえていたのです。

(賢治より18歳年上の宗次朗は賢治が憧れた丈夫な身体を持っていたのです、賢治は22歳の時に肺結核、当時は肋膜と呼ばれた病にかかり愛する妹も同じ病で26歳の時に亡くし、その時彼は妹に「なぜお兄ちゃんと一緒に連れて行ってと泣きながらでも言ってくれなかったんだ」と非常に悲しんだとのことです。

そして賢治自身も22歳の時にあと15年は持たない事を悟りましたが彼の予測どおり奇しくも享年37歳で亡くなりました。)
また、宗次郎は自分の娘を暴行されて失ったにもかかわらず、冬に雪が積もると、彼は小学校への通路を雪かきをして道を作り彼は雨の日も、風の日も雪の日も休む事なく、地域の人々のために働き続けました。

有名な話に配達の時も10m歩くごとに神に感謝し、配達や集金の際には病人を見舞い、子どもたちには菓子を分け、貧困の者には小銭を与え、出会った人々の悩みに耳を傾け、土地の人たちに慕われた。
画家の中村不析は、そんな宗次郎を「花巻のトルストイ」と評した。

やがて彼は師事する内村鑑三に勧められ、繁盛する新聞販売店を畳んで、東京に引越しする事になりましたが駅に着くと彼を見送るために迫害していたはずの町長や、学校の先生や、たくさんの生徒、また、町中の人々が集まり大変驚いたという事です。

人々は宗次郎がいつもしていた事を見て感謝し、別れを惜しんでやってきたのでした。

そしてその人々の中に宮沢賢治もいたのでした。

そして宗次朗は東京で百姓をしながら内村鑑三のキリスト教伝道に従った。

宗次郎は迫害されていたのにもかかわらず、どうして日々このようなことが出来たのでしょうか?

普通人ならその地を離れるか、いや、仕返し位したいと思うものでしょう、私ならそのような事は及びも出来なかった事でしょう!
宗教に心酔するが故に自分を迫害する者をさえ憎まず、恨まず愛を持って優しさで受け入れ事を成しうる人は幸せだろうな、羨ましいなとさえ思うのは私だけだろうか?

賢治は仏教徒でしたが宗次朗の噂や所作を見聞きし、キリスト教徒である斉藤宗次朗のような人間に憧れたに違いありません。

ですから賢治の詩や作品にはどこかキリスト教徒の匂いがすると言われています。
いやー今日は久しぶりに詩を読み返し、涙し、自分が一時的にも優しい気持ちになれたことを感謝~感謝!
この詩に書かれているようなそういう者に私もなりたい!

「雨にも負けず」宮澤 賢治 (今野 東さん東北弁朗読URL、いいですよー!

https://www.youtube.com/watch?v=JaQHufacSOI

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