やま建築研究所

私が感じたこと、気になった建築などを書き留めたノートです。

映画「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を観ました。

2011年01月27日 04時04分12秒 | 映画

ツタヤの「100人の映画通が選んだ本当に面白い映画」キャンペーン。
最近はいつもこのコーナーからDVDを借りています。前回の西部劇もしかり。

今日は「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を観ました。
私にとって初めてのスウェーデン映画。1985年公開作品ですが、古さを感じさせないすっきり淡い映像でした。

学校ではいじめられ、家では兄のいたずらの標的となり、大好きだったママは不治の病に冒されて・・・。
主人公はまだ年端もいかぬ少年だが、天は容赦もなく不幸を降り注ぐ。
でも、観ていて気が沈むような暗さは感じない。それは少年が運命に振り回されるのではなく、いたしかたないものと受け止めながらも、明るく生きる力を持っていたから。

冒頭にながれる「人工衛星に乗せられていったライカ犬より、僕の人生のほうがまだ幸せだ。」という少年の心の声。
「自分よりもっと不幸なことがこの世に起こっている。自分はまだましなほうだ。だから落ち込まずにに生きよう。」前向きにはなれないが、悲観的になることもない。消極的な理由だけど、どこかで優越感も持っている。
つらい時、悲しい時、人間の生きる原動力は「優越感」となるというのが、この映画のテーマじゃないかなと思ってしまいました。

主人公のイングマル少年。
さえない生活を送っているわりには女性にモテます。それも同世代だけでなくお姉さん、おばあちゃんにまで。
誰であっても分けへだてなく付き合い、相手の話を気のすむまで聞いてあげる。どんなに不幸でも人としてのかわいらしさをもっている。
そんな姿勢に女性のハートはいちころ。だけでなく、まわりの子供や大人たちまでもイングマルの魅力にひき込まれていきます。

そして仲が良かった友達から、自分は女だと打ち明けられ・・・。
少年は「大人」への階段をのぼっていきます。

弱さに泣かなくとも、境遇に嘆かなくても幸せはつかめる。
人生を冷めた目でフカンすると、運命に振り回されることはない。
イングマルが教えてくれました。

    


「夕陽のギャングたち」を観ました。

2011年01月05日 04時57分56秒 | 映画

映画では西部劇が好きです。
なぜ好きなのか、はっきりした理由はないのですが、郷愁のようなものを感じます。
とはいっても、西部劇が映画として隆盛を誇っていたのは1960年代初頭。まだ私の生まれる前のこと。

小学生の頃、土曜の夜といえば「8時だョ!全員集合」。待ちに待った1週間。笑って、こらえてあっという間に1時間が過ぎ去ります。
祭りの後の静けさか、さびしさ漂う夜の9時。当時は深夜のような感覚でした。
土曜の夜のみ、夜更かしでテレビを見ることが許されていた我が家では、「ゴールデン洋画劇場」にチャンネルが移ります。
1980年代前半はテレビで流れる映画といえば、カンフーや戦争、刑事ドラマ、そして西部劇が主流でした。
そんな中でも、威張らない、つるまない、媚びない。頼れるのは自分の腕。そんなダンディズムな男の生き様を描いた西部劇が大好きでした。

しばらく遠ざかっていたのですが、久々に観た西部劇が「夕陽のギャングたち」
「真昼の決闘」や「荒野の七人」といった有名作品ではないけれど、ツタヤのオススメコーナーで見つけて、つい借りてしまいました。

荒野を疾走する駅馬車とそれを乗っ取る強盗団。西部劇らしいシーンではじまったのもつかの間、バイクが突っ走るは、ダイナマイトをぶっ放すは、戦車も出るはで、今まで観てきたものとは一線を画した、ハチャメチャ西部劇でした。
「なんか違うな」と違和感を感じながらも、借りてしまったDVD。特に忙しくもないので、最後まで観ることにしました。

時代設定は20世紀前半。ストーリーはメキシコ革命が舞台。
一族で旅人を襲い、生計を立てている山賊の首領と爆薬使いの風来坊。
出会った時から互いに利用し、利用されながらも時代のうねりに巻き込まれていきます。

革命という国をあげての大きな戦いが繰り広げられる中、銀行強盗という悪事を働くつもりが、政治犯の解放という結果となり、英雄にまつりあげられる主人公たち。

BGMに「シェン、シェン、シェーン」という怪しく奇妙な歌が流れる回想シーンは、ぼかした映像が甘酸っぱい恋愛映画のワンシーンのよう。

橋をふっ飛ばし、機関銃をぶっとばし、最後は機関車大衝突。

そして、互いに対立していた者同士が友情で結ばれる。


見方によってはコメディ映画。西部劇の枠を超えた新ジャンルの作品でした。