やま建築研究所

私が感じたこと、気になった建築などを書き留めたノートです。

建築の歩き方は、福島県会津若松の「さざえ堂」です。

2010年10月01日 01時13分55秒 | 建築の歩き方

「東北」 そこは最後のフロンティア。
・・・なんて書くと怒られそうですが、関西出身の私にとっては、東北地方は遥か遠くの地だという印象がありました。

きっかけは、約一年ほど前にみた朝日新聞の記事。
そこにはおせじにも綺麗とはいえない、傾きかけた建物の写真がありました。

アンバランスな大きさの屋根に黒ずんだ材木。
廃材の寄せ集めか、それとも蓑虫か?

いえいえいとんでもない!これでも立派な国の重要文化財です。



一見きたならしい塔、でも正統派の五重塔とは違った体験ができそうな予感。
そんな第六感に誘われて、東京から夜行バスで約5時間。
福島県会津若松市にある「さざえ堂」に行ってきました。
2009年12月16日の事です。

会津盆地を見渡す飯盛山。その中腹に建つのがさざえ堂。


      飯盛山から会津盆地をのぞむ

有料のエスカレーターに乗っていくのが、楽で早いのですが、日ごろの運動不足解消、そして何か新しい発見を期待して徒歩で回り道して行きました。

その甲斐あり、まず着いたところが「戸ノ口堰洞穴(とのぐちせきどうけつ)」

          戸ノ口堰洞穴

飯盛山を越えたところにある猪苗代湖から、会津盆地に水を引くためにつくられたトンネルです。
流れ強く、水量も豊富、長さは約150m。
江戸時代初期に作られたことを考えると、土木技術の高さに驚愕です。

          戸ノ口堰洞穴

今をさかのぼること約140年前の幕末。
会津藩の少年兵「白虎隊」の一員が、城に帰る際にこのトンネルを通って戻ってきたそうです。
しかし、目の前に現れた光景は、燃えさかる城。
絶望と失意の中、19名が自害。
そんな悲劇の舞台となったのが、ここ飯盛山です。

悲しい話に涙をぬぐい、建築のレポートを進めます。

この洞穴から少し登ったところにあるのが、「さざえ堂」。
江戸時代の1796年建立。今はひっそりとたたずんでいます。

            さざえ堂

失礼ながら、おせじにも綺麗とは言えません。朝日新聞の記事で見た時と同じ汚らしくいびつな印象そのままです。

塔と言えば京都や奈良でよく見る、地面に垂直に建ち、空を突き刺すようなスマートで伸びやかなイメージでしたが、目の前の塔は、そんなイメージとはかけ離れていました。

    東寺 五重塔

傷んだ木材に、つぎはぎのような納まり。
アンバランスなスタイルに、傾きかけているようにも見えます。
                 

入場料を払った時にもらったしおりによると、3層で高さは約16mとなっていましたが、見る角度によっては4層ともとれそうです。

唐破風のひさしが付いた部分が入口で、入ってすぐに滑り止めのついたスロープが始まります。
  
                入口

勾配が急なうえに、棒状の滑り止めに足をとられてかなりの歩きにくさです。
天井高は1m80cmほど。スロープの勾配にそって、窓が連続して設けられている割には薄暗く、圧迫感に拍車をかけています。

            建物内部

平面形状は六角形。らせん状に上へとつづく回廊の中心には、おそらく「芯柱」と思われる耐震のための柱が塔を貫くように立っています。
芯柱の向こうに、反対側のスロープが見えていますが、それは下りです。

       芯柱

この建物の最大の特徴は「二重らせんスロープ」であること。
「二重らせんスロープ」とは、二つのらせんが決して交わることがなく、上へと上っていくスロープのこと。
わかり易く例えると、DNAのモデルのようなイメージです。

       DNA

さざえ堂の最上部はドーム型の天井のもと、二つのらせんを「太鼓橋」でつなぎ、行きと帰りが交わらないように上り下りできるようになっています。

             天井


      太鼓橋

どこにも部屋はなく、上って下りるだけの機能に特化した、スロープを壁で囲っただけの空間構成です。

巨匠建築家 コルビジュエ曰く「外部は内部の結果である」。
同じく巨匠建築家 ライト曰く「形は機能に従う」。
構造がむき出しの外観は、巨匠の言葉どおり、中が形を表しているようで、「不細工だけど中身が気になる」そんな印象の建物です。

この日は、冬至間近の12月16日。
薄っすらとした雪化粧の中、小雪が舞っています。
窓もらせんに沿って設けられているため、風がストレートに入ってきます。
夏は涼しいのかもしれませんが冬はとても寒い、まさに四季を肌で感じることができる建物です。

もともとは上って下りるだけで遠く離れた「西国三十三観音」を拝礼したことになるといううたい文句で、江戸時代の庶民の信仰を集めた仏堂でした。
このアイデアと、形にする実行力。当時の住職によるものですが、なかなか大した人だったんだなとと感心させられます。

さっきまでグロテスクに見えていたさざえ堂。
改めて全体をみると、中の特異な空間を支えるために試行錯誤で組み立てられた骨組みであることが感じられ、雄々しく隆々しく見えました。