やま建築研究所

私が感じたこと、気になった建築などを書き留めたノートです。

建築の歩き方は、東京都三鷹市「山本有三記念館」です。

2012年04月20日 00時56分02秒 | 建築の歩き方

西荻窪在住の私にとって三鷹は近くて遠い場所。通勤時の通り道ですが、行きも帰りも素通りです。
休みの日も向かうは都心方面、逆は吉祥寺まで。なかなか三鷹には足が向きません。
三鷹市は東京都のほぼ中央にある閑静な住宅街。派手な歓楽街こそありませんが、「日本のディズニー」と言っても過言ではないスタジオジブリの美術館がある街です。
都心から遠すぎず、それでいて畑や雑木林がところどころに残る自然に癒される。バランスのとれた立地は住むにはいいかもしれません。
そんな雰囲気が作品づくりに適していたのか、山本有三や太宰治、武者小路実篤、瀬戸内寂聴などの大御所作家が居を構えました。
そのうちの山本有三氏が住んでいた家が現存し、公開されているとの情報を聞いて、普段は通り過ぎるだけの三鷹駅で下車。玉川上水沿いを歩くこと約12分。
この辺りはお金持ちが多いのか、どれも豪邸級の家が立ち並ぶ界隈。どこが目的地なのか迷いました。
  
                                 近隣の豪邸

道路に面した大きな広場、木々の間からのぞくクラシックな建物のシルエット、どうやらここが目的地のようです。

             北側前庭から

今回のテーマは「山本有三記念館」。蝉時雨が、かまびすしい2011年8月11日に行ってきました。

北入りの玄関なので、まず目にするのは北側外壁面。


北側は水回りや階段を配置することが多いので、小さな窓が不規則に並ぶパターンは昔も今も、高級住宅も一般住宅も同じようです。
折れ線グラフのような屋根と、岩石のような形をした煙突。現代アートのような不思議な組み合わせです。



オリジナリティーあふれる北面とは対照的に、南側正面はほぼシンメトリー。均整とれた形に風格が漂います。


でもこの形、どこかでみたような・・・。

そう、東京都北区にある洋館「旧古河邸」。両サイドに伸びる切妻のツインタワーは、うり二つ。

               旧古河邸

山本有三邸は大正15年竣工。その頃、すでに建っていた古河邸をモチーフにしたのかもしれませんが、設計者は不明とのこと。
もしかしたら、コンドルの弟子の作品かもしれませんな。


庭園までは無料ですが、入館料は300円ナリ。
メルヘンチックな玄関ドアをくぐると、木とレンガに白熱灯の光という暖色系に満たされた、洋館のイメージそのままです。

        玄関

まず目につくのは玄関ホールの暖炉。そういえば今まで見た中でも、明治大正期に建てられた洋館にはたいてい暖炉がありました。
旧岩崎邸も旧古河邸も、玄関ホールをはじめリビングやダイニングなど人が集まる部屋にずっしりと存在してます。
寒さ対策なのか装飾なのか。確かにこれだけ大きな家を温めるには、何カ所も必要でしょうが、機能性だけでもないような気がします。
一般住宅とはかけ離れた大きな家に住む人も当代一流の著名人。いろんな人が集まって、いろんな会話が繰り広げられるだろうし、時には静まり返る時もあるでしょう。
でもそこに炎があるだけで、会話が途切れても間が持つこともある。
火をつけるのも、燃やし続けるのも手間のかかる暖炉ですが、気まずさが漂わないようにとの配慮もあるのではないでしょうか。

         旧山本邸リビングの暖炉

リビングは、パーティーや演奏会など催し物ができそうな大空間。太陽の光に照らされて、フローリングがピカピカと光っています。
床、壁の大部分を木肌が占めていても重苦しい雰囲気がしないのは、天井まわりの漆喰の白が、木の圧迫感を消化しているおかげでしょう。
  
                                  リビング

リビング東隣の小部屋の
テーマはアーチ
といってもいいほど、窓やドア、壁までアーチで飾られています。
南一面にリズミカルに並ぶ窓からは、陽光豊かで冬でも暖かそう。この小さなサンルームにも暖炉はありました。
客が少人数の場合の応接間か、あるいはリビングで催された会合の休憩室のような使い方だったのか、いずれにしても馴染みやすい一室です。オジサンたちのタバコを吸いながらの談笑が目に浮かびます。
  
                                アーチが連続する


東がサンルームのようなラフな部屋である反面、左右対称の位置にある西の部屋は、リビングと連続したフォーマルな対面の場。格式ある内装の中では、たわいもない話でも重々しく感じられそうです。

               西の部屋

外から見ても、東は曲線を使った窓が並ぶ柔らかさがあり、西は大きな四角の直線的な硬さが感じられ、それぞれの用途の違いが表情として表れています。
  
                                                     東側

階段を上がると、行儀よく並んだ色ガラスから、射しこむ光がまぶしい踊り場。



上りきるとドアが連続して並び、2階は私的なフロアのようです。
  
細く長く続く廊下は床や壁や天井、そしてドアさえも白で統一して、まるで病院のように無機質で、木を多用した自然のぬくもり残る1階とはガラッと異なります。

ところが中央の部屋は和室、しかも本格的な真壁です。床の間に下地窓、飾り棚や書院といった和のエッセンスの盛り合わせに、柱は全て面取りされているという芸の細かさ。建具を閉めきると、洋風建築の気配が全くなくなります。
  

この和室は南に面した中央にありますが、外から見ると幾何学模様の洋風ガラスの窓に覆われ、和室の存在を感じさせません。
2階に和室があること、内側からしか和を体感できないこと。このあたりも旧古河邸と共通しています。

    2階中央が和室

山本有三氏が、この家に住んだのは昭和11年から昭和19年までの約8年間。戦争による疎開で一時は三鷹を離れ、戦後戻ってくるも、進駐軍に接収され退去を余儀なくされます。返還後は国語研究所として国に提供し、再び住むことはありませんでした。

高度成長期を経て、周囲は宅地化、都市化が進んでいきます。

在りし日、近所の子供たちのための図書館として開放したこともありました。土地と建物を気前よく東京都に寄付もしました。
欲とは無縁の奉仕が、地域の人や関係者たちの共感を呼び、当初の姿のまま残り続ける奇跡が生まれた
「人間は人生という砥石でごしごしこすられなくちゃ、光るようにはならないんだ」
とは、氏の著作「路傍の石」の言葉。

時代という砥石でこすられた山本邸、今でも往年の輝きを保っています。


    


建築の歩き方は、愛知県犬山市の「犬山城」です。

2011年05月07日 02時06分43秒 | 建築の歩き方

姫路城、彦根城、松本城いずれ劣らぬ天下の名城であり、国宝です。
世界に誇る文化と歴史を持った国、ニッポン。
仏像、絵画、焼き物など、国宝指定は数あれど、見て、さわって、立ち入って、五感で感じることができるものは少数です。
そんな数少ない中でも、最大規模が城郭建築。
日本には国宝に指定された城が4城あります。

①兵庫県姫路市の姫路城、通称「白鷺城(しらさぎじょう)」。
②滋賀県彦根市の彦根城、通称「金亀城(こんきじょう)」。
③長野県松本市の松本城、通称「烏城(からすじょう)」。

上記の三城は、訪れたこともあり、ブログでも紹介済みです。

国宝四城訪問記。最後に訪れたのが愛知県の犬山城。2009年8月16日のことです。
木曽川沿いの丘の上にある白亜の城。通称「白帝城」。
江戸時代の学者が、三国志の英雄「劉備」が没した中国・長江沿いに建つ城に見立てて、「白帝城」と名付けたことに由来します。


木曽の大河と緑の山。風光明媚でロケーションも抜群、さらにこの日は晴天。
青い空ときらめく水面、山の上の古城。
洋画よりも水墨画の世界観にマッチする絵画的美しさ。
犬山城は何百年もの間、この風景のアクセントとなってきました。


北から西へ流れる川を背後に、小高い山の上から周りを見渡すことのできる難攻不落の「要塞」。
この鉄壁と思われる防御を、初めて攻め取ったのが天才武将、織田信長。城を傷つけることなく城主を降参させました。

       織田信長

その後も城を乗っ取られることはあったものの、戦火にさらされることはなかったため、現存する日本最古の城となりました。
築城は1537年というのが通説ですが、天主閣がいつ建てられたのかは、定かでないとされています。
しかし、室町時代の後期に建てられたことは間違いなく、安土桃山時代、江戸時代と何度か増改築を重ねて今の形となりました。

犬山城へは名鉄犬山駅から徒歩で向かいます。
ルートは2パターンあり、1つは木曽川沿いに歩く道
遠回りですが、川に出た途端、視界が開け、自然が創った雄大な光景に息をのみます。

一度はこの道から城を見ることをオススメします。


もう1つは城下町を通って向かう道

昔の街並みが色濃く残る界隈で、両脇に並ぶ江戸時代の建物は、城との出会いを劇的に高めてくれる舞台装置。
土産物屋と観光客でにぎわう、正統派の道順となっています。
しばらく進むと、街並みを見下ろすように建つ城が見えてきました。


姫路城や松本城ほど大きくはなく、彦根城とほぼ同じくらいでしょうか。小ぶりだが、まとまった印象です。

         犬山城正面

どこの城にもある唐破風ですが、犬山城のものは、小さくてこっけいでかわいい。
城というと権威的で威圧感があって馴染みにくいもの。一国の象徴なので、威厳がでるようにデザインしているのでしょうが、犬山城はこの唐破風のおかげで、親しみやすさを感じます。
築城当時はなかったのですが、1687年に城主の成瀬氏が飾りとして付けました。

外からの見た目は三階建。でも実際は地下二階、地上四階建てになっています。
どこの城でも同じですが、バリアフリーとは無縁な急な階段で上り下り。気をつけないと、転げ落ちそうですが、敵の侵入を防ぐにはこれくらい急な方がいいのかもしれません。

        地下部分の階段

当時としては当たり前の漆喰壁が外にも内にも使われています。
みずみずしく、混じり気のない白。耐水と防火に優れて調湿効果も抜群。
日本の木造建築文化と高温多湿な気候に適した、歴史ある材料です。
薄暗い中、白い壁に光が反射し、室内はほのかな明るさです。
この日は8月の夏真っ盛り。外は30度超の蒸し暑さ。
城内は四方に窓があるので風通しも抜群ですが、ジメっとしないのは、漆喰の調湿効果のおかげかもしれません。

       室内。白い壁が漆喰



     外壁。白い壁が漆喰、黒い壁は木


城は巨大な木造建築物。構造材である柱や梁はもちろん、造作材である敷居も鴨居も太く大きいです。
段差もそこかしこにできているので、気をつけないとつまづきます。
城は普段の生活で住む場所でなく、有事に立てこもる場所で、いわば基地。
これも、敵の侵入を阻むための仕掛けかもしれません。

     このような段差がいたる所にある


どの階の間取りも中心部が居室、それを囲むように回廊が配されています。
回廊は巨大な太鼓梁が渡された勾配天井。構造材の力強い木組が頭上に迫ります。

鴨居の上の柱間に回されているのはです。貫とは日本古来の在来工法の部材で、地震の横揺により建物が倒れるのを防ぐためのものですが、今の木造建築にはほとんど使われていません。
昭和25年の建築基準法改正により、現在では筋交いが代わりとなっています。


どこの城もそうですが、最上階からの眺めは絶景かな。
 
最上階は、1620年に増築されたもの。
平屋の上に増築して2階建てにすることは、「お神楽(おかぐら)」と言って現在でもよくある工事です。
でもここは規模が違います。
お神楽にした部分だけでも家一軒ほどの大きさの上、高さは約19mで6階建の高さに相当。足場を組むのも大変そうです。



外から見た時に特徴的だった最上階の火頭窓。でも室内から見ると窓の痕跡がありません。


どうやら、明りや通風をとるための開口部としての窓でなく、枠を付けただけの飾り窓のようです。
時は関ヶ原の戦いが終わって一息ついた、江戸時代初期の寛永文化。同時代の建築は清水寺や日光東照宮、桂離宮など。

          清水寺


       日光東照宮 陽明門


          桂離宮

いずれも一度見たら忘れられないような大胆な構成と斬新なデザインだが、一歩外れればテーマパーク。
でも使い勝手や建てやすさ、工期、建築費はさて置いて、見る者をあっと言わせたい。
平和な時代だからこその遊び心、粋ですね。

天主閣からみる犬山市街。
色とりどり、形さまざま、高さまちまち。不揃いな建物居並ぶ平成の城下町。
背景には、青い空、たなびく雲、ゆっくりと流れる河。
  

太古から変わらぬ風景は、動かざること山の如し。
悠久の時を経た今の姿から、過去の姿を想像するロマンチックなひと時。
・・・と思ったのですが、この後名古屋の友人と会う約束が入っていたので、たそがれる間もなく帰路につきました。
帰り道、急な階段は降りる方が怖いですな。



      


建築の歩き方は、福島県会津若松の「さざえ堂」です。

2010年10月01日 01時13分55秒 | 建築の歩き方

「東北」 そこは最後のフロンティア。
・・・なんて書くと怒られそうですが、関西出身の私にとっては、東北地方は遥か遠くの地だという印象がありました。

きっかけは、約一年ほど前にみた朝日新聞の記事。
そこにはおせじにも綺麗とはいえない、傾きかけた建物の写真がありました。

アンバランスな大きさの屋根に黒ずんだ材木。
廃材の寄せ集めか、それとも蓑虫か?

いえいえいとんでもない!これでも立派な国の重要文化財です。



一見きたならしい塔、でも正統派の五重塔とは違った体験ができそうな予感。
そんな第六感に誘われて、東京から夜行バスで約5時間。
福島県会津若松市にある「さざえ堂」に行ってきました。
2009年12月16日の事です。

会津盆地を見渡す飯盛山。その中腹に建つのがさざえ堂。


      飯盛山から会津盆地をのぞむ

有料のエスカレーターに乗っていくのが、楽で早いのですが、日ごろの運動不足解消、そして何か新しい発見を期待して徒歩で回り道して行きました。

その甲斐あり、まず着いたところが「戸ノ口堰洞穴(とのぐちせきどうけつ)」

          戸ノ口堰洞穴

飯盛山を越えたところにある猪苗代湖から、会津盆地に水を引くためにつくられたトンネルです。
流れ強く、水量も豊富、長さは約150m。
江戸時代初期に作られたことを考えると、土木技術の高さに驚愕です。

          戸ノ口堰洞穴

今をさかのぼること約140年前の幕末。
会津藩の少年兵「白虎隊」の一員が、城に帰る際にこのトンネルを通って戻ってきたそうです。
しかし、目の前に現れた光景は、燃えさかる城。
絶望と失意の中、19名が自害。
そんな悲劇の舞台となったのが、ここ飯盛山です。

悲しい話に涙をぬぐい、建築のレポートを進めます。

この洞穴から少し登ったところにあるのが、「さざえ堂」。
江戸時代の1796年建立。今はひっそりとたたずんでいます。

            さざえ堂

失礼ながら、おせじにも綺麗とは言えません。朝日新聞の記事で見た時と同じ汚らしくいびつな印象そのままです。

塔と言えば京都や奈良でよく見る、地面に垂直に建ち、空を突き刺すようなスマートで伸びやかなイメージでしたが、目の前の塔は、そんなイメージとはかけ離れていました。

    東寺 五重塔

傷んだ木材に、つぎはぎのような納まり。
アンバランスなスタイルに、傾きかけているようにも見えます。
                 

入場料を払った時にもらったしおりによると、3層で高さは約16mとなっていましたが、見る角度によっては4層ともとれそうです。

唐破風のひさしが付いた部分が入口で、入ってすぐに滑り止めのついたスロープが始まります。
  
                入口

勾配が急なうえに、棒状の滑り止めに足をとられてかなりの歩きにくさです。
天井高は1m80cmほど。スロープの勾配にそって、窓が連続して設けられている割には薄暗く、圧迫感に拍車をかけています。

            建物内部

平面形状は六角形。らせん状に上へとつづく回廊の中心には、おそらく「芯柱」と思われる耐震のための柱が塔を貫くように立っています。
芯柱の向こうに、反対側のスロープが見えていますが、それは下りです。

       芯柱

この建物の最大の特徴は「二重らせんスロープ」であること。
「二重らせんスロープ」とは、二つのらせんが決して交わることがなく、上へと上っていくスロープのこと。
わかり易く例えると、DNAのモデルのようなイメージです。

       DNA

さざえ堂の最上部はドーム型の天井のもと、二つのらせんを「太鼓橋」でつなぎ、行きと帰りが交わらないように上り下りできるようになっています。

             天井


      太鼓橋

どこにも部屋はなく、上って下りるだけの機能に特化した、スロープを壁で囲っただけの空間構成です。

巨匠建築家 コルビジュエ曰く「外部は内部の結果である」。
同じく巨匠建築家 ライト曰く「形は機能に従う」。
構造がむき出しの外観は、巨匠の言葉どおり、中が形を表しているようで、「不細工だけど中身が気になる」そんな印象の建物です。

この日は、冬至間近の12月16日。
薄っすらとした雪化粧の中、小雪が舞っています。
窓もらせんに沿って設けられているため、風がストレートに入ってきます。
夏は涼しいのかもしれませんが冬はとても寒い、まさに四季を肌で感じることができる建物です。

もともとは上って下りるだけで遠く離れた「西国三十三観音」を拝礼したことになるといううたい文句で、江戸時代の庶民の信仰を集めた仏堂でした。
このアイデアと、形にする実行力。当時の住職によるものですが、なかなか大した人だったんだなとと感心させられます。

さっきまでグロテスクに見えていたさざえ堂。
改めて全体をみると、中の特異な空間を支えるために試行錯誤で組み立てられた骨組みであることが感じられ、雄々しく隆々しく見えました。

  


    



建築の歩き方「ドラード和世陀」です。

2010年04月24日 02時19分27秒 | 建築の歩き方

しばらくさぼっていたうちに、日も長くなり、寒さも和らぎ、桜の季節も過ぎてしまいました。
久しぶりに更新しようとすると、gooのメールページの使い勝手も変わっていて、とてもやりにくい。
身のまわりにおこる変化の流れ。
年をとるにつれ、順応しにくくなると聞いたことがあります。
まだまだ乗り遅れないよう、世の流れについていかなければと決心を新たに再開です。

前職を辞めて今の会社(住宅メーカー)に入るまで、建築の勉強をしつつ海外に行ったりもしてました。
アメリカ、ギリシャ、イタリア、フランス。

  
        アメリカ ニューヨーク


        ギリシャ アクロポリス


         イタリア コロッセオ


     フランス モン・サン・ミシェル

「西洋建築を巡る旅」と書くと聞こえがいいですが、ただの海外旅行だったかもね。
会社員となった今、そんな自由などない日常ですが、次に是非行ってみたい所はスペイン
無敵艦隊。闘牛、ピカソにパエリア。
見所いっぱい、楽しみいっぱい、おいしさいっぱい。
伝統と歴史が入り混じる情熱の国ですが、私の目当てはこれまた情熱のガウディ建築です。

いつかは行ってみたい憧れの国。
とはいっても当面行けそうにもないですが、新聞の記事で目に入ったのは日本にあるガウディ建築!いや、ガウディ風建築
そこは、新宿区早稲田鶴巻町。
日本のガウディこと梵寿鋼(ぼんじゅこう)。呼ばれ方も多彩な本名 田中俊郎さんが設計したビルがあります。 
2010年1月26日に行ってきました。


東西線早稲田駅下車、雑居ビルの谷間を抜けるとそこはスペイン!!
・・・と見まがうことはまずないですが、新聞を見てスペイン情緒あふれるガウディ風建築と期待していたのですが、なんだか怪しさ漂う館が建っていました。


         
 ドラード和世陀

名は「ドラード和世陀」
早稲田通りの出発点である大隈講堂から一つ目の交差点。



三方を道路に囲まれているため、ビルの三面がキャンバスとなり、それぞれの面がいずれ劣らぬ怪しさをかもし出しています。

曲線的で流動的。



ある面はメルヘンチックな模様と、ホラーな面々。そしてちょっぴりエッチな彫像。





ある面はタイルや金物細工で着飾られ、キッチュで華やかで、けばけばしい。



ある面はうろこをまとった爬虫類的外観。



周囲の無機質なビルに比べてなまめかしい存在感。
ガウディが目指した「生物的な建築」が、遥かな時と場所を超えて、早稲田の地に再来です。

建築年は1983年。
ガウディを知らない人から見ると、古き良きバブリーな建物にしか見えないかもしれませんが、バブル以前に建てられてます。

早稲田大学の正門前ということもあり目立ち度抜群。
芸術的な手摺や外壁材は、全てオーダーメイドなのでしょう。


注文住宅といいながらも、既製品の組み合わせしか使ったことない私にとっては、とてもうらやましく、刺激的です。
「いったい、装飾だけでいくらかかっているのだろうか?」
小市民のせいか、そんな俗なことに感心が奪われます。


怪しげな、でも愛嬌のある怪物が出迎えるモザイクタイル。
悪いと思いつつ、踏んで建物の中へ。
Rのついた通路は、先を見通せず、その先に何があるのか、期待感くすぐらされます。


装飾のラビリンス。
ドキドキ感とワクワク感に駆られながら、行き着いた先は小さなホール。
不気味な手のオブジェが来客を迎えます。


華やかで摩訶不思議。
異次元のようで、現実的。
それは消火器のおかげです。


ポストや壁、そして門扉。それぞれが芸術作品。




ずっと住むのは疲れそうかも!?でも一時期は住んでみたい。
そんな気分になりました。

只今、空き室待ちが続くほどの人気物件だそうです。


    




建築の歩き方「東大寺編第三弾 三月堂・二月堂」です。

2010年01月28日 23時48分41秒 | 建築の歩き方

建築の歩き方 in 奈良  「東大寺編第三弾 三月堂(法華堂)、二月堂」です。

第二弾の続き。
東大寺大仏殿の東、若草山を少し登った高台に小規模の寺院群が点在しています。

          東大寺伽藍

小さいこそあれ、東大寺を彩る脇役なんかではありません。
ここには大仏殿のスケールに匹敵する小宇宙がありました。

2006年8月15日 大仏殿の後に訪れました。

まずは「三月堂 (別名 法華堂)」から。

         三月堂(法華堂)

見た目は一棟の建物ですが、奈良時代の建物と、鎌倉時代に増築された建物が組み合わさって一つの建物となっています。

一見しただけでは全く気付かず、立て札を読んではじめて増築されているのだと知りました。

ガイドブックの写真でもお馴染みなのは西面です。

           三月堂 西面

和風建築のボキャブラリーである連子窓。これがあるとなんでも和風に見えてしまいます。

床が高いのは高温多湿な日本の気候下で、木を長持ちさせる方法として、床下の風通しをよくするためです。

向かって左が正堂(しょうどう)と言われ仏像が安置されている建物です。

           手前が正堂

奈良時代、746年頃に建てられた東大寺のなかでは最古の建物
歴史の教科書で頻出の「正倉院」は同じ東大寺に敷地内にありますが、建立は756年ごろ。
三月堂正堂はそれより10年前から建っていたことになります。

向かって右が礼堂(らいどう)と言われ1119年の鎌倉時代、南大門と同時期にに重源によって増築された建物です。
窓の高さの違いと屋根の接合部の雨樋(あまどい)が、異なった年代に作られたことを表しています。






中は大きなワンルーム。
正堂(しょうどう)に須弥壇(しゅみだん)があり、金剛力士像や四天王など、国宝や重要文化財の仏像が18体ならんでいます。
建物の地味さとは対照的に、静かだけれどもにぎやかさを感じる場です。
怒りや哀れみ、強さとやさしさ。
それぞれの像が、まるで舞台に立つ演者のようで「止まった演劇」を見ている心境でした。
皆、二つとない姿勢と表情をしています。

是非、見て頂きたい光景ですが、内部は撮影禁止。
実際に行って見学するのが一番ですが、新潮社発行の「日本名建築写真選集 東大寺」には中の仏像の写真が掲載されているので、参考まで。


続いて向かったのが、50mほど北にある二月堂(にがつどう)
斜面に建つ懸造りという様式で、京都の清水寺を小さくしたような感じです。


この二月堂で有名な行事が、毎年3月に行われる「お水取り」
建物の周囲に、たいまつがともされる派手な火の祭典です。
春先の風物詩として、テレビのニュースでもよく取り上げられているので、ご存知な方も多いと思います。

でも、「木造の建物の中でこんな火を使って大丈夫なの?」と素朴な疑問が頭をよぎりませんか?

創建は奈良時代の752年頃で、三月堂とほぼ同時期です。
争乱など幾多の危機を乗り越えてきましたが、現存する建物は江戸時代に再建されたものです。
再建となった理由は創建当初から続いてきたお水取りが原因です。
江戸時代の頃、心配が現実のものとなり、建物に火が燃え移って焼失してしまいました。
当時の将軍 徳川家綱によって、焼失から約2年後の1669年に創建当初と同じ形で復元され、今に至ります。

この二月堂の一番のオススメは眺めです。
斜面に建っているので、大仏殿の向こうに広がる奈良の街が一望できます。
遠くに連なる山は大阪との県境、生駒山地。
小さい頃、祖父に連れられてよく行きました。

         奈良市街を見渡す


特に印象的なのが日没時
空を橙色に染めて、太陽が沈んでいきます。

          
「なんと(710)きれいな平城京」、奈良に都が移ったのは西暦710年。
年代の語呂合わせのごとく平成の平城京もきれいでした。

奈良の美しさは「滅びゆく美」と聞いたことがあります。
時代とともに移り変わる街。近代化と歴史のせめぎ合い。
今ではビルがひしめき合う奈良盆地ですが、眼下に広がる地形は今も1300年前も変わってないはずです。
そんな街に今日も太陽が沈みます。

ただ、ただ、夕日に見とれてしまいました。