建築の歩き方 in 奈良 「東大寺編第三弾 三月堂(法華堂)、二月堂」です。
第二弾の続き。
東大寺大仏殿の東、若草山を少し登った高台に小規模の寺院群が点在しています。
東大寺伽藍
小さいこそあれ、東大寺を彩る脇役なんかではありません。
ここには大仏殿のスケールに匹敵する小宇宙がありました。
2006年8月15日 大仏殿の後に訪れました。
まずは「三月堂 (別名 法華堂)」から。
三月堂(法華堂)
見た目は一棟の建物ですが、奈良時代の建物と、鎌倉時代に増築された建物が組み合わさって一つの建物となっています。
一見しただけでは全く気付かず、立て札を読んではじめて増築されているのだと知りました。
ガイドブックの写真でもお馴染みなのは西面です。
三月堂 西面
和風建築のボキャブラリーである連子窓。これがあるとなんでも和風に見えてしまいます。
床が高いのは高温多湿な日本の気候下で、木を長持ちさせる方法として、床下の風通しをよくするためです。
向かって左が正堂(しょうどう)と言われ仏像が安置されている建物です。
手前が正堂
奈良時代、746年頃に建てられた東大寺のなかでは最古の建物。
歴史の教科書で頻出の「正倉院」は同じ東大寺に敷地内にありますが、建立は756年ごろ。
三月堂正堂はそれより10年前から建っていたことになります。
向かって右が礼堂(らいどう)と言われ1119年の鎌倉時代、南大門と同時期にに重源によって増築された建物です。
窓の高さの違いと屋根の接合部の雨樋(あまどい)が、異なった年代に作られたことを表しています。
中は大きなワンルーム。
正堂(しょうどう)に須弥壇(しゅみだん)があり、金剛力士像や四天王など、国宝や重要文化財の仏像が18体ならんでいます。
建物の地味さとは対照的に、静かだけれどもにぎやかさを感じる場です。
怒りや哀れみ、強さとやさしさ。
それぞれの像が、まるで舞台に立つ演者のようで、「止まった演劇」を見ている心境でした。
皆、二つとない姿勢と表情をしています。
是非、見て頂きたい光景ですが、内部は撮影禁止。
実際に行って見学するのが一番ですが、新潮社発行の「日本名建築写真選集 東大寺」には中の仏像の写真が掲載されているので、参考まで。
続いて向かったのが、50mほど北にある二月堂(にがつどう)。
斜面に建つ懸造りという様式で、京都の清水寺を小さくしたような感じです。
この二月堂で有名な行事が、毎年3月に行われる「お水取り」。
建物の周囲に、たいまつがともされる派手な火の祭典です。
春先の風物詩として、テレビのニュースでもよく取り上げられているので、ご存知な方も多いと思います。
でも、「木造の建物の中でこんな火を使って大丈夫なの?」と素朴な疑問が頭をよぎりませんか?
創建は奈良時代の752年頃で、三月堂とほぼ同時期です。
争乱など幾多の危機を乗り越えてきましたが、現存する建物は江戸時代に再建されたものです。
再建となった理由は創建当初から続いてきたお水取りが原因です。
江戸時代の頃、心配が現実のものとなり、建物に火が燃え移って焼失してしまいました。
当時の将軍 徳川家綱によって、焼失から約2年後の1669年に創建当初と同じ形で復元され、今に至ります。
この二月堂の一番のオススメは眺めです。
斜面に建っているので、大仏殿の向こうに広がる奈良の街が一望できます。
遠くに連なる山は大阪との県境、生駒山地。
小さい頃、祖父に連れられてよく行きました。
奈良市街を見渡す
特に印象的なのが日没時。
空を橙色に染めて、太陽が沈んでいきます。
「なんと(710)きれいな平城京」、奈良に都が移ったのは西暦710年。
年代の語呂合わせのごとく平成の平城京もきれいでした。
奈良の美しさは「滅びゆく美」と聞いたことがあります。
時代とともに移り変わる街。近代化と歴史のせめぎ合い。
今ではビルがひしめき合う奈良盆地ですが、眼下に広がる地形は今も1300年前も変わってないはずです。
そんな街に今日も太陽が沈みます。
ただ、ただ、夕日に見とれてしまいました。
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