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歴史の勉強

2008-07-02 18:08:23 | ブログ

7.2(水)雨 城下町広島の歴史十講の2回目の整理。

今年は東区主催の「城下町広島の歴史十講」に参加している。毎月1回、大学の歴史専攻の錚々たる先生が講義される講座で、特に広島の歴史に重点を置いている。

出身学校が技術系の学校だったこともあり、歴史の授業は高校以来であるが、歴史物の読書は好きだった。しかし、歴史を本格的に勉強する機会も意思も無かった。今回の講座の話を聞いて、住んでいる土地の歴史が判り、また親近感があり面白いのではないかと思って参加した。

6月は2回目で毛利元就の「郡山合戦と「通路切搦」」だった。郡山合戦は、元就と尼子晴久の数回の合戦のうちでも有名なもので、尼子が3万の大軍(元就日記が出生なので1万5千~2万人ぐらいであろうと推察されているが)を率いて、毛利を攻め、毛利が5千人でこれを迎え撃った戦いである。毛利は、郡山城に立て籠もり、籠城作戦をとった。このときの、合戦の様を古文書の解説から講義が始まった。

元就が執った作戦は、籠城作戦でもジッと城の中に閉じこもる作戦ではなく、城から抜け出しては敵をかく乱するものだったという。これが「通路切搦」である。通路とは、陣と陣の連絡、自国との連絡、補給路、連合する友軍との連絡である。これを「切る」、すなわち連絡路を切断する、待ち伏せして連絡隊を襲撃することである。「搦」とは、からめ取るとかからまるという言葉があるように、敵の軍事行動を狭めるとか動かないようにすることである。

尼子は、郡山城の対面の青井山と三塚山に陣を引いており、郡山城を攻め立てたが、郡山城は急峻な山の上に建っていて、攻めあぐねた。元就側は、尼子軍の居ない東側とか南側から抜け出して、自由にゲリラ作戦を掛けられる。

この「切搦」により、ボディブロー的に効いてきて、更に連合軍の大内義隆の援軍が到着し尼子が惨敗したという。結局これが尼子の命取りになり、滅びてしまう。

時間が経つのもアッという間で、楽しい歴史の時間だった。先日、郡山城跡に見学に行ったこともあり、情景が浮かんでくる。学校の歴史の時間は、眠たいというイメージだったが、この年になって聞く歴史は面白い。次回の講義が待ち遠しい。


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