木村長人(きむらながと)。皆さんとつくる地域の政治。

1964年(昭和39年)千葉生まれ。元江戸川区議(4期)。無所属。

九電「やらせメール」問題と電力の自由化

2011-07-09 01:38:50 | 地方自治
 7月6日に発覚した、九州電力の玄海原子力発電所をめぐる「やらせメール」問題は国内で揺れる原発問題をさらに複雑なものにしたように思われます。ストレステストの導入で原発再開の時期を二転三転させ定まらない政府の対応とあわせ、原発政策、電力政策はどこに向かっていくのかまだ見極めきれません。電力株もさらに急落したようです。まさにあらゆる点で原発問題は混迷を極めていると言えます。

 今回の九電「やらせメール」事件は内部告発によって明らかになったそうです。「九電やらせメール:番組前に関連会社社員から内部告発

 内部告発をした、勇気ある当該社員には、大きな拍手を送りたいと思います。公益通報者保護法という法律が2006年から施行されていますが、それでも現実には、内部告発をすることで通報者はいじめや左遷など大きなリスクを背負う可能性があります。「いじめや左遷ではない」と雇用主が主張すれば、見解の相違をめぐって、司法で争わねばなりません。元の仕事環境に戻れるかどうかわからないリスクを考えれば、今回の通報も本当に立派な決断です。

 さて、やらせメール問題はさっそく九電社長の去就にも影響してきています。当然でしょう。今のところ、辞任か否かはよくわからないようですが、個人的には、問題の経過を内部調査し、国に報告を終えたところで経営責任者は即辞任すべきと考えます(今日、明日に即辞任でもよいかもしれません。調査は次の社長が取り組むという方法もあります)。

 そうでなければ、不祥事を起こした組織として対外的な信頼回復は望めないでしょう。社長個人が関与しようがしまいが、関係ありません。組織の倫理のあり方として決すべきことです。もっとも私は株主ではありませんので、あとは企業関係者の皆さんで決めていただくことです。

 さて、何がそもそも問題だったのでしょうか。「そんなのあたり前」と言われてしまいそうですが、「では、なぜあたり前なの」と言われると、案外、説明するのに考えてしまうものです。

 別に難しいことではありませんが、あらためて文字にしてみたいと思います。

 やらせメールが寄せられた番組は、経済産業省が玄海原発の安全性を県民向けに説明する地元ケーブルテレビの番組(6月26日放映)だったそうです。そもそも、原発政策を推進する立場の経済産業省が主催する番組というところに意図的なるものを感じざるを得ませんが、この「そもそも論」はとりあえず横に置いておきます。

 そして、この番組に参加できる人数には限りがあったため、玄海原発を再開させたい九電は、やらせメールのさくら投書で「原発再開を望む一般人がこんなにたくさんいるだよ」観を演出することを思いついたようです。

 本来、こうした一般からの声を募る投書やアンケート調査などでは、できるだけ、偏った母集団からの意見の集中がないことが期待されています。実施者が基本的に答えの回収作業にも関与するアンケート調査では、アンケートの調査対象を選ぶところで偏りがないよう注意を払います。アンケート調査の公平度において信頼性を保つためです。

 しかし、一般からの声を募る投書の場合は、実施者が対象を抽出することができません。今回のケースで言えば、テレビ局はどんな人が投書したり、メールを送ってくるのかまでは分かりませんし、送られてくるメールの受信を選ぶこともできません。九電がしたように「疑われないよう、自宅から送信するように」などといった小細工までされてしまえば、なおさら防御のしようがありません。世論の声を無作為に伝えたはずの番組の信頼感は大きく損なわれました。経産省も顔に泥を塗られてしまいました。

 九電がしたことは、つまり、作為的な情報操作、世論操作という倫理違反です。

 では、なぜ九電は世論操作をしたのでしょうか。いえ、もう少し普遍的に、世論操作をするということはどのような状況なのか、について考えてみたいと思います。

 私は、世論操作をしたがる組織の置かれている状況にはある一つの共通点が存在すると考えています。それは、世論操作の実施者は、政治においても経済においても、常に社会主義的な(つまり、自由主義的競争原理の機能しない)状況下における支配者の地位にあり、なおかつその支配者的地位にあることやその運営方法が批判されている場面にある、ということです。

 具体的に見てみましょう。日本の電力会社は地域ごとに分かれていますが、各地域においては発電でも送電でも独占企業という状況にあります。日本の電力業界というフィールドだけを観察すると、そこは社会主義経済で支配されており、自由競争は許されていません。(インフラ整備の整っていない発展途上にある国家であるならともかく、今の日本で競争原理の働かない電力業界が本当にこのままでいいのでしょうか。)

 きっかけは福島原発事故でしたが、原発のあり方から電力の自由化の問題まで、電力業界をめぐる多くの問題が議論されるようになりました。安寧としていられた独占企業(九電)が、突如、その支配的地位に危機感を感じ始めました。倫理を忘れ、情報操作に走るという愚を犯してしまいました。

 政治の例はどうでしょう。例を挙げるまでもないかもしれません。社会主義国などの全体主義体制や軍部や一族あるいは宗教者による独裁国家においては、平時、その支配的地位はおそらく絶対的なものとして「安定」しているのかもしれません。しかし、社会や民衆の不満が鬱積してくれば、やはりやらせやさくらで世論を操作しようとします。「民衆よ、私を信任する声がほとんどだよ」と。

 基本的に、社会主義国や独裁国家においてはメディアも官製ですし、えてしてそうした国家では内務省や警察による取り締まりが厳しいため、やらせやさくらを批判する前に、あきらめのムードが通常は支配的なのかもしれません。今年、チュニジアに始まった中東の一連の民主化ドミノはそうした民衆の批判が爆発したものなのでしょう。

 いずれにしても、情報操作をしたがる者はそのフィールドで独占的にふるまうことが約束された独裁者たちばかりです。自由競争が保障されていなかったばかりに(注1)、愚かな電力会社が情報操作という倫理違反を犯してしまいました。情けないことです。

 私は、今回の「やらせメール」問題と、情報操作、世論操作に走った九電の失態を見、単なるトップの辞任問題だけでは終わらない、インフラ整備の整った現代日本においてはたして各電力会社の独占経営が許されていてよいのか、競争原理の働かない業界は不健全ではないのか、という問題をあらためて考えました。

 脱原発を支持するとかしないといった問題ではなく(私は脱原発論者ですが)、まず、業界における健全な競争原理がはたらくように、電力業界の自由化も同時に進めるべき課題と声高に申し上げたいですね。

(注1)競争原理がはたらくようにすれば、やらせが完全になくなるとは申しません。なくらないないでしょう。ただ、競争原理が機能する装置にしておけば、やらせという倫理違反を犯すことが競争相手との勝負で不利に働くという危機感を持たせる可能性はあります。やらせなどの小細工に走る前に、市場での競争に勝つことに力を注がざるを得ないでしょう。やらせに走る愚は多少は減るものと理解しています。




江戸川区議会議員 木村ながと
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