木村長人(きむらながと)。皆さんとつくる地域の政治。

1964年(昭和39年)千葉生まれ。元江戸川区議(4期)。無所属。

盆踊りと「羅生門」

2012-04-04 21:23:17 | 地方自治
 こんばんは、木村ながとです。

 つい先日、興味深い話題を友人とやりとりしたので、今日はそのことを少し書きたいと思います。政策の話題ではありません。でも、政策よりも深い、もっと形而上学的な話題です。

 先週末、地元の盆踊りの準備会合がありました。地域の子ども会や青年部のメンバーらが集まり、7月に開催予定の盆踊りについて話し合いを持ちました。私もそこに参加する予定だったのですが、仕事があり、話し合いの場には間に合わず、終わりの頃に会場に顔を見せました。

 話し合われた内容は、「昨年は震災による節電問題などがあったため1日開催で行ったが、今年は従来の2日開催にするか否か」などといった点です。

 ところで、私はその盆踊りの案内状の文案作成を依頼されていました。ですので、会議の内容をある程度把握している必要があったのですが、うっかりして、会議での決定内容を参加していたメンバーから聞かずに、おっちょこちょいにもそのまま帰宅してしまいました。

 翌日、「盆踊り案内状の文案を、さて、作成しよう」と思ったのですが、はたと気づきました。「待てよ、会議で決まった内容、俺、知らないじゃん。だいたい今年は2日開催なのか、1日開催なのか、最低この点は知っている必要があるよ」と。

 そこで、私は当日参加していた青年部メンバー数人に早速、メールを同時送信しました。「先日の会議では開催日数についてどのように話し合いがもたれましたか?」と。

 興味深いことが起こったのは、この後です。順次、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんがそれぞれ、開催日数をめぐる議論の内容の返信をくれました。返事が来た順に記します。

Aさん「7月14日、15日の2日開催で正式に決定。」
Bさん「2日開催の予定だが、1日開催の可能性もある。まだ正式に決まっていない。」
Cさん「不確定要素はあるが、とりあえず対外的には2日開催でいく。」
Dさん「まだ決定していない。他の検討事項とあわせ、次回決定する予定。」

 同じ会議に出席していたメンバーに同一メールを送信して返ってきた答えですが、内容のニュアンスがそれぞれ異なります。Aさんに至っては、明確に「正式決定」と一人だけ回答しています。

 私は、最初のAさんとBさんの2人の答えがきたとき、明らかに解釈が違うので困ってしまいました。

 そして、Cさんの回答をもらったところで、何となく事情が読めてきた気がしました。とりあえず、案内状は2日開催で作成すればよさそうだということもこの時点で理解できました。

 さて、私はCさんに、お礼メールの返信の中で、「みんなの答えが微妙に違う」とコメントしました。すると、Cさん(博士号を持つ知的な方です)から「同じ事象でありながら、解釈が違う。よくあること。まさに黒澤明監督の『羅生門』。世に真理はない。」という返信メールがきました。

 さすがはCさんだと思いました。

 黒澤作品で一番有名なのはおそらく「七人の侍」なのでしょうが、この「羅生門」は日本映画が世界に知られることになった最初の作品とも言われています。しかし、それ以上に、この映画で黒澤が用いた方法論が非常に後世の映画に大きな影響を与えたと言われています。「羅生門」はそんな作品でもあります。

 「羅生門」では殺人をめぐる証言が人によって異なる様を描き、真実なるものの追求が結局は解釈であることを描き出しており、この方法論を「羅生門メソッド」と言うそうです(浜野保樹『模倣される日本』2005年)。

 盆踊りの会議の内容を確認しようとしたら、それぞれの参加者から異なるニュアンスの解説が届けられたわけです。この現象はまさに「羅生門」を地で行くものでした。

 確かに、「羅生門」現象はよくあることかもしれません。交通事故の検証において、被害者と加害者が「青信号だった」「いや、赤信号だった」と言い合う事例は、まさに「羅生門」そのものです。映画「羅生門」の場合はもちろんですが、交通事故の場合も自己都合と利害が前面でぶつかり合う事象です。証言で描かれる「真実」如何によっては自分が有罪か無罪かという百八十度異なる結論になってくるわけです。正面から異なる言い分がぶつかり合うのは当然のことと言えます。

 しかし、今回の盆踊り会議の事例では、特に1日開催であろうと2日開催であろうと、誰にとっても損も得もありません。そんな利害関係のほとんど生じない場合でも、解釈がかように異なってくるわけです。もちろん、それは人の理解力、表現力、表現方法などがそれぞれ異なるからにほかなりません。

 「歴史とは解釈である」(ニーチェ)※ とはよく言ったものです。史実や事実はあるのでしょうが、その真実を体験し、伝え、描き出すのは、好むと好まざるとにかかわらず、主観を持った人間でしかないのです。そうすると、残念ながら、同じ真実も異なって伝えられ、真実は人の口で語られた瞬間にもはやカギ括弧付きの「真実」や「真理」、つまり解釈でしかなくなってしまうと言えます。

 真理の追求がムダだというつもりは毛頭ありませんが、それが所詮は「解釈」を描き出す過程でしかないということは冷静に理解しておく必要はありそうです。要は認識論の問題です。

 最後に、議会との関連でひとこと。

 議会などのように絶対者(絶対権力者、裁判官的存在)のいない世界において会議を遂行していく場合、議事録をとることの重要性は、実はこうした「羅生門」現象をいたずらに起こさぬようにする混乱回避の意味があります。テープや議事録を作成し残しておくことで、必要な場合にはあとあと発言内容を確認することができます。大事なことですね。

 いずれにしても、地元の盆踊りの会議から、こんな話題が導き出されてくる体験をするとは思いもよりませんでした。

ニーチェ(原佑訳)『権力への意志 下』1995年、27ページ
「現象に立ちどまって『あるのはただ事実のみ』と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実『自体』をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。 『すべてのものは主観的である』と君たちは言う。しかしこのことがすでに解釈なのである。」



江戸川区議会議員 木村ながと
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