唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

サルトル『方法の問題』より.個人の独自性と幼少期の重要性

2024-05-01 | 日記

 ここに掲載するのは,サルトル『方法の問題』J.-P. Sartre, “Critique de la raison dialectique (précédé de Question de Méthode) Tome I” (1960)の「三 前進的-遡行的方法」の一部についての紹介である.文章は平井啓之訳の日本語版『方法の問題―弁証法的理性批判 序説』人文書院(1962)に依拠するが,私による逸脱も存在する.文中の〔○○頁〕は,この日本語版における対応ページである.また,小見出しは私が便宜的に付した.

唐木田健一

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投企

 どんな行動も,それを条件づける現存の諸因子と,それが誕生させようと試みている来たるべき対象物とに同時に関連させて決定される.行動のこの構造は投企と呼ばれるものである〔103下頁〕.

 

個人の独自性と幼少期の重要性

 幼少期とは,家族集団を通して我々の階級的・社会的立場を習得することであり,それから我々を解放しようとするぎこちない努力である.ここでは習得も解放も一つのことである.子供は期待される状態に照らし,それを受け入れ,それに反抗し,現状をのりこえて自己をつくっていくからである.そして,こののりこえの努力は,ついには性格という形で我々のうちに残存する.習得された仕草や役割の根源が見出されるのは幼少期においてである.ここにおいては,我々の最初の反抗が残した痕跡,息が詰まるような現実をのりこえるための絶望的な試み,およびその結果として生じる偏向・性格のねじれが見出される〔112下頁〕.

 仕草と役割はのりこえながらしかも保持されて,投企の内的彩色とでも呼べるものを構成する〔117下頁〕.我々は,我々の根源にひそむ偏向とともに思惟するであろうし,この習得されしかも拒否したいと願っている仕草とともに行動するであろう〔113上頁〕.この彩色は,主観的には好みであり,その個人的スタイルをなすものであるが,それは我々の根源的な偏向ののりこえ以外の何ものでもない.こののりこえは瞬間的運動ではなくて長い仕事である〔118上頁〕.それは方向づけられた投企,行動による人間の独自性の確証としての投企であり,同時に,何事にも還元できず,何事からも演繹できないという意味で,所在をつきとめることのできない霧のような非合理性である〔119下頁〕.

 このように,我々は絶えず自分の階級的・社会的立場をのりこえると同時に,こののりこえ自体を通して自己の階級的・社会的現実があらわれるということができる〔113上頁〕.このことは物質的条件が,考察の対象である意識態度について十分には〈決定的〉でないということを意味しない.それどころか,それ以外にいかなる因子を加える必要もないと言って差し支えない.ただし,それは,物質的条件が人間の投企を通して生み出す事象の相互作用を,あらゆる水準において究めるという条件づきでのことである〔116下頁〕.

 この観点からすれば,すべての行為はピラミッド状で段階を異にする多種多様な意味をもっている.このピラミッドにおいては,下層のより一般的意味が上層のより独自的かつ具体的な意味のための枠の役割をつとめる.そして,この上層の意味は下層の枠の外へ決して出ることはできないが,それをその枠から演繹したり,その枠内に解消したりすることはともに不可能である.人間の具体的性格を経済的運動の枠の中で究めることは重要であるが,同時にその独自性を見失わないようにしなければならない.こうすることによってのみ,我々は全体化のことを考えることができるであろう〔114上-114下頁〕.

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Kコメント:

 上には,投企における「所在をつきとめることのできない霧のような非合理性」なる表現が出てくる.理論科学として,無用な誤解が生じないよう,コメントを付しておきたい.

 投企とは,与えられた条件(「現存の諸因子」A)をもとに,ある目的(B)を達成しようとする企てのことである.サルトルのいう「非合理性」は,ここでB(上層)はA(下層)から論理的に演繹することはできないし,またBをAに還元することもできないということを意味する.すなわち,「何事にも還元できず,何事からも演繹できない」.これこそが行為者の独自性を表わすのである.

 なお,本記事に直接関連しては,「サルトルの“行動の構造”および“意味のピラミッド”」参照.

〔本稿了〕