唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

「入試ほど公平な制度はない」という話

2024-05-22 | 日記

 このところの報道によれば,早稲田大学の今年の入学試験において,メガネ型端末とスマホとを組み合わせて問題文を外部に送信し,解答を求めるという不正行為があった.この種の不正の「はしり」は,2011年の京大での入試であろう.ここでは,机の下のケータイに設問を手入力し,外部に送信して解答を求めたということであった.

 この京大での事件が報道された数日あと,私は金子務さん(☆)と話をする機会があった.金子さんはこの事件に関し,京大の処置に大変怒っておられた.京大は被害届を提出し,この件を「警察沙汰」にした.しかし金子さんは,これは学内の問題として処理すべきとのお考えであったのだと思う.私自身は,入試の公平性を破壊するこの受験生の行為に怒りを覚えていたので,金子さんのような観点は抜け落ちていた.

☆金子務氏.もと中央公論社『自然』編集長,大阪府立大学名誉教授.『アインシュタイン・ショック(1).大正日本を揺るがせた四十三日間』『アインシュタイン・ショック(2).日本の文化と思想への衝撃』河出書房新社(1981,新装版1991)ほか多数の本の著者.

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 1960年代後半のことであった.私はある一般誌の評論文において印象的な文章に出会った.それは,「入学試験ほど公平な制度はない」というものであった(☆).もちろん,入試がおこなわれる枠組み自体は,決して公平なものではない.たとえば当時,東大入学者の親の年収は慶応大学を抜いて一位になったというようなことが報道されていた.しかしその評論の著者は,そのようなことは十分承知であったのである.

☆私は著者名を記憶しているが,現在ドキュメント上で確認できないので,ここでは触れなかった.この評論は当時多数の読者を有したメディアに発表されたものである.何らかの情報をおもちのかたにはぜひお知らせをいただきたい.

 これに関連して思い出したのは,1966年(1965年度)の東大入試(二次試験)の会場における出来事であった.問題の冊子を配付したあと,試験監督の教官が「問題文に訂正がある」と告げた.会場には緊張が走った.訂正は2個所あった.詳しいことは記憶していないが,ひとつはカンマ(あるいは点)が正常な位置より若干回転しているというもの,他方は文字のひとつがわずかに(1mm程度)上にズレているというものであった.会場内は,(多分)あまりに些細な訂正であったので,若干のざわめきが生じた.この程度の「誤植」であれば,当時の私なら気がつきもせず見過ごしており,結果として何の問題も生じなかったであろう.しかし,私には,入試においてはこれほどまでに気が遣われているのかという印象が残った.

 「入試ほど公平な制度はない」といっても限定は必要であろう.「裏口入学」などは論外としても,たとえば,特定の運動選手たちが優遇されたり,あるいは最近明らかになったことであるが,医学部入試で女子生徒が系統的に不利益をこうむったり,ということが知られている.「入試が公平」といっても,このようなことを含めてのことではない.

 この言葉が当時学部学生であった私に意味したことは,(日本の)社会にはさまざまな選別・評価のシステムがあるが,入試ほどに公平・公正なものではないという警告であった.その後(ご)私は今日(こんにち)まで,「社会人」として若干の経験を積んだが,さまざまな場面でこの言葉を思い出した.そして,イカンながら,その警告がほぼ100%正しいことを確認した.

 数年前のことになるが,東大に推薦入試があると聞いておどろいた.天皇の親戚の少年がその制度を使うのかどうか,といったことがいま一部でゴシップになっているようである.推薦入試は,比較的には公平である入試を社会の不公平・不公正な評価システムで汚染するものとして,私にはとても好ましいものとは思われない.このような制度を推進しようとする人々は,社会におけるさまざまな評価システムがいかに実施され,何をもたらしたのかをしっかりと学ぶべきであろう.

 社会における評価システムがあまり頼りにはならないとしても,実際に立ち入って一緒に仕事をした人々――先輩/上司であれ,同僚であれ,後輩/部下であれ,あるいは取引先であれ,発注元であれ――による評価は,私の経験によれば,フレ幅が比較的に小さい.頼りにすべきはシステムではなく,ともに仕事をする人たちである.

唐木田健一