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唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

マイケル・ポラニーの暗黙知

2021-06-11 | 日記

電気ショック

ポラニーはある実験結果(Lazarus and McCleary, 1949)を紹介します[1]。実験者は多数の無意味な文字のつづりを被験者に示しました。そして、ある特定のつづりを示したあとでは、被験者に電気ショックを与えました。被験者はまもなく、その特定の「ショックつづり」が示されると、ショックを予期する兆候を示すようになりました。しかし、どのようなつづりのときショックを予期するのかと尋ねても、それには答えられませんでした。すなわち被験者は、いつショックが来るのかを知るようにはなったのですが、どのようにして予期するのかを語ることはできませんでした。

これと類似した現象は、別の実験者たちが報告しています(Eriksen and Kuethe, 1956)。ここでは、ある「ショック単語」に関連した言葉を被験者が口にしたとき、いつも電気ショックを与えました。まもなく被験者は、そのような言葉を口にすることを避けることによって、ショックを免れるようになりました。しかし、被験者に尋ねても、自分がそのようなことをしていることは知らないようでした。すなわち被験者は、ショックを免れるための実際的な方法を知るようにはなったのですが、その方法を語ることはできませんでした。

これらの実験からポラニーは、「人は語ることができるよりも多くを知ることができる」ということ、およびそれが具体的にはどういうことなのかを説明しています。この「知ってはいるが語ることはできない知識」が、彼のいう「暗黙知」です。

☆ジークムント・フロイトは『精神分析学入門』の中で、神経症患者について「(被験者は)自分が知っているということを知らない」と表現している。これと暗黙知との対応は注目すべきことであろう。なおポラニーは注の中で、実験の報告者(Eriksen and Kuethe)が被験者のショック回避行動を「防衛的メカニズム」と呼び、「フロイトの観念」に関係づけたことを記している。他方、ポラニー自身は、回避行動を「閾下(いきか)知覚subception」の過程の一種として紹介し、ここに関与しているのは無意識的あるいは前意識的感知(unconscious or preconscious awareness)ではないこと強調している。私の見解によれば、これはフロイトの発見した諸現象との関係を否定しているのではなく、そもそもフロイトの発見した現象は「無意識」と呼ばれるべきものではない(「それはどんな度合いの意識をももつことができる」)ことを主張しているのである。

 

暗黙知の基本構造

これらの実験から、暗黙知の基本構造をみることができます。暗黙知は常に、二つの項目を含んでいます。ショックつづりやショック関連語が第一の項であり、電気ショックが第二の項です。これら二つの項目の結合は、被験者にとって暗黙的です。すなわち、知ってはいるが語ることはできません。それは被験者が、電気ショックに関心を集中させているためです。このとき被験者は、ショックを示唆する諸細目(つづりや言葉)(☆)を手がかりにします。すなわち、電気ショックに注目するという目的において、これら諸細目について感知していることを手段にするのです。

☆「諸細目(particulars)」はポラニーの特徴的な用語の一つである。諸細目とは、まずは諸要素の集合体と考えればよい。つづりは文字の集合体である。言葉は、音節(あるいは単語)の集合体である。この集合体を能動的に統合し、或るものとして認知することが、知識成立の基礎となる。なお、この諸細目の統合体が、すぐあとに出てくる「包括的存在」である。これは、「多様(諸要素)の総合的統一」と呼ばれるものにあたる。

繰り返せば、電気ショック(第二項)がそれとして知られるのは、それ自身が注目されているからです。他方、ショックを示唆する諸細目(第一項)のほうは、それらが電気ショックに対する手がかりになる、ということで知られるに過ぎない。そのため、それら諸細目についての知識は暗黙的になるのです。

ポラニーは、第一項(手がかり)を近接項、そして第二項(注目する対象)を遠隔項と名づけます。この「遠-近」の意味については、のちに明らかになるでしょう。ここで暗黙知というのは、近接項についての知識を意味します。

 

包括的存在

同様の関係は、特殊な実験においてのみでなく、日常においても、さまざまな形で見出すことができます。たとえば、私はある人の顔を知っています。そしてそれを千、あるいは一万もの顔と区別して認知することができます。この場合私は、顔に注目するため、その諸部分(目、鼻、口、などの諸細目)についての感知に依拠します。私たちは通常、ほとんど瞬時に顔を識別できます。しかし、どのようにして識別するのかを語ることはできません。

特定の技能の実行においても、私たちはさまざまな筋肉活動の集合を内的に感知し、それに依拠しています。筋肉の個々の要素的な諸活動を手がかりとして、それら諸活動が共通にめざしている目的の実現に注目するのです。

暗黙知とは、二つの項目の協力によって構成される或る包括的な存在を理解することです。その場合、近接項は包括的存在の諸細目であり、他方、その包括的存在の全体としての意味が遠隔項です。すなわち、私たちが包括的存在を把握できるのは、包括的存在の諸細目について感知していることに依拠し、包括的存在の諸細目全体の意味に注目することによってです(☆)。

☆先の電気ショックの実験における包括的存在とは、ショックに直結したつづりや言葉のことである。それらは電気ショックを意味する。これは多数の顔の中から特定の顔を認知することと同じである。すなわち、多数の文字のつづりや言葉の中からショックつづりやショック単語を識別するのである。

ここでの考察で明らかなように、ここでの遠隔項と近接項は、「非還元的層構造」における上層と下層に対応します。近接項を手がかりとして遠隔項に着目することで、近接項の意味が理解できるのです。

 

ほとんど気づかれない近接項

電気ショックの実験においては、被験者は電気ショックに注目しつつ、同時に「ショックつづり」を目にし、また「ショック単語」を口にし、耳にしていました。すなわち、近接項は知覚されていました。これに対し、近接項が、それ自体としては、ほとんど気づかれない場合もあります。

生理学者たちによってずっと以前から明らかにされていたことですが、私たちが対象を見る仕方は、身体内のある活動、それも自分自身としては感じることのできない活動についての感知により決定されています。すなわち、身体の内部で進行していることを、注目する対象の位置や大きさ、形、運動として感知しているのです。言い換えれば、私たちは身体内のこれら諸過程に依拠し、外部の対象の諸性質に注目しているのです。

ポラニーはこれに関連し、さらに別の実験報告(Hefferline et. al, 1959/1961/1963)を紹介します。筋肉の自発的けいれんで、当人には感じられないが、その作用電流を増幅することによって、外部からは観察できるものがあります。ここで被験者に不快な雑音を聞かせておき、このけいれんが起きたときはいつも、その雑音を止めるようにしておきます。そうすると被験者は、けいれんが起こる回数を増し、それによって雑音の発生を大幅に抑えることができました。暗黙知はここでは、制御することも、感じることすらもできない内的活動に作用しているのをみることができます。この実験結果は、外部の対象の認識において、身体内部の意識下の過程(subliminal process)を手がかりとして感知することに対応しています。

 

身体

知的であろうと実践的であろうと、外界についての私たちのすべての知識にとって、その究極の道具は身体です。外部の事物に注目するためにはいつも、私たちは対象としての事物と自分の身体との接触についての感知に依拠しています。自分の身体は、通常決して対象としては経験されない世界で唯一のものです。他方、世界に関するすべての経験は常に、その身体に依拠して注目されます(☆)。自分の身体が外部のものではなく、自分の身体として感じるのは、身体をこのように知的に活用しているためです。

☆確かに、対象としての自分の身体というものも存在する。たとえば、私は自分の手を見ることができる。しかしそれは,「対象として構成された私の身体」であり、世界内の諸対象を認識するために作動しつつある私の身体ではない。

遠隔項は注目の対象であり、近接項はその手がかりです。手がかりは概して、目的の対象よりも手近にあります。これがポラニーによる「遠-近」の名称の由来です。本質的には、近接項は私の身体であり、それはいわば私に最も近い。他方、注目の対象(遠隔項)は外部の存在です(☆)。

☆電気ショックはもちろん、外部の現象である。それは、ある感触を与える布地が外部の対象であることと同じである。

 

サルトル(そして漱石)との関係

サルトルにおける意識は「定立的意識」と「非定立的意識」の組から成りますが、これはポラニーにおける「知覚の遠隔項」(注目の対象)と「知覚の近接項」(手がかり)の組にそのまま対応します。すなわち,知覚の近接項は、私のいう「背景的意識」なのです。また、知覚の近接項は本質的には身体に結びつけられましたが、これは(本ブログでの議論はまだですが)サルトルの「非定立的意識」が彼のいう「対自=身体」と一つのものであることに対応します。

ついでながら触れておきますと、夏目漱石は『文学論』[2](1907)の中で「文学的内容の形式」は(F+f)であることを述べ、Fは焦点的印象または概念、またfはこれに付着する情緒を意味する、としています。これも私のみるところ、サルトルおよびポラニーとまさしく同じ内容になります。

〔以上は,唐木田健一『現代科学を背景として哲人たちに学ぶ』の八章の一部にもとづく〕


[1] 以下の内容は、M. Polanyi, Tacit Dimension (1966)による。 日本語版としては、佐藤敬三訳『暗黙知の次元』紀伊國屋書店(1980)および高橋勇夫訳『暗黙知の次元』ちくま学芸文庫(2003)がある。

[2] 夏目漱石『文学論(一)』講談社学術文庫(1979)。


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