ベストメカコレクションを作る

主にベストメカコレクション
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他も作るけどネ。 「2011年3月開設」

架空艦を作る。(その2)

2019-12-25 07:18:17 | ウォーターライン
(あくまで個人の空想で、
 史実や、実際の理論を無視した
 全くのでっち上げフィクションです。
 エエ歳こいたオッサンが恥晒してるww
 コイツ阿呆な奴やw 
 と寛容な心で笑覧下さい。)


ある艤装員長の回顧録<その1>

その艦橋部と煙突2本は
1932年(昭和7年)から起工し、一等駆逐艦で
吹雪型駆逐艦のⅢ型、暁、響、雷、電に続く
5隻目に用いられるべく組立建造中であったが、
建造計画は上層部の決定により
次級の初春型駆逐艦や白露型駆逐艦へ移行され、
船体に乗せられる事無く、4艦目の響の竣工後、
1933年(昭和8年)3月より、舞鶴工作部にて、
破損・交換時の予備として保管される事となり
その後、記録上にのみ、その存在を残し
10年弱の永い間、忘れ去られた存在となっていた。

その船体は
マル5計画の島風の同型16隻のうちの仮称艦名第734号艦で
丙型駆逐艦 島風の2番艦となるべく、舞鶴海軍工廠で
島風から遅れる事2か月、1941年(昭和16年)10月に起工し、
建造を進められていたのだが、

島風型駆逐艦は次世代の艦隊型駆逐艦として新型機関を搭載し、
高速を発揮、また武装面では重雷装の五連装魚雷発射管を備えていたが
太平洋戦争開戦による戦術の変更や水雷戦自体の可能性の低さ、
手間のかかる生産から島風型の量産計画は放棄され、
駆逐艦の建造は秋月型駆逐艦や丁型(松型駆逐艦)に
移行することに決定が下された。

めまぐるしく変わる戦況により、もともと資源の少ない我が国では
艦艇建造に必要な物資は枯渇し、少ない資材は
新たな計画へ振り向けられるのは避けがたい道理であった。

次々と突きつけられる新型艦の建造の要求を日々こなす事で
その存在すら忘れそうになる、起工から2年後の
1943年(昭和18年)12月
島風が5月に竣工し、本来な、そろそろコイツも竣工しても
おかしくない時期ではあるが・・・

この時点で既に船体は、ほぼ完成しており
甲板上の、艦橋、煙突、兵装を残すのみ。と言う状態だった。



計画変更で、建造が中止となった完成間近の船体を前に、
やるせない気持ちを、ぶつける場所もなく、
意気消沈し、舞鶴工廠内をふらふらと歩いていると、
いつもは立ち寄る事もない
敷地外れの大型倉庫まで、来てしまっていた。

何気に、土埃で汚れたガラス窓から中をのぞいてみると
高窓から差し込む薄明かりに、
大きな影が薄っすらと姿を現していた。

なんだこりゃ?
こんなところに船の艦橋か?
島風の艦橋よりは、一回り大きめの、
その影を、確認すべく、
中に入れる入口を、こっそり探し
本来なら許可が必要な倉庫へ
無断で立ち入ってみたのである。

近くに寄って、よく見ると艦橋の素材には
アルミではなく、ところどころ、ジュラルミンが使用されており
吹雪型駆逐艦の特III型の艦橋であることが推測できた。

その奥には、連結式用の煙突と単管式の2本の煙突が
ノボーっと、突っ立っていた。
こんなところで、何をしとるんだ?

翌日、早速、記録を調べ
既に死蔵在庫状態となっていた
艦橋と煙突を確認し、
ほぼ完成している船体に取り付ける許可を
同郷の出身で気心知れた上官に申請し
一隻でも追加戦力が必要な時期と言う事で
上官の半ば独断で建造を静かに継続する事が出来た。



島風の艦橋取り付け部分には、段差が有り、
艦橋基部の部品を段差に合わせて削りました



艦橋床部



羅針艦橋



魚雷発射指揮所
その上に



方位盤照準装置と3m測距儀


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