切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

取手市の中学生 いじめ自殺事件について

2017-08-12 17:12:53 | 社会
https://goo.gl/images/GgzKLv


 昨日のニュースで、茨城県取手市の 教育委員会の連中が 、いじめ問題で自殺した藤代南中学校の 女子生徒の自宅を、初めて訪問し謝罪したということが報道されていた。
 事件は一昨年に起こって、学校はこの事件をいじめではなく、単なる自殺として家庭内の問題とか思春期鬱などと取り繕う有様。教育委員会も 学校教育現場での重大事態とはせず、 学校内におけるいじめと自殺は 関係ないとして、全く取り合わなかった。この中学校の担任、校長をはじめ学校側の陰湿な隠蔽と、 これと同じく教育委員会も いじめとは認知せずに、このまま闇に葬ろうとした 極めて悪質な事件だ。ご両親が自ら動いて、元同級生等に 直接話を聞いたりして 証拠を集めたにもかかわらず、学校も教育委員会も全くいじめとは思っていないなどと、この事件の隠蔽を押し通そうとした。ご両親達が これを訴えてやがて明るみに出て、問題が 県も通り越して、文科省に伝わり、文科省の担当から直接 第三者委員会の審議をきちっとするようにとの指導を受けたとたん、手のひらを翻して、いじめ自殺と認定するという全く主体性も何もない無能ぶりを発揮するという有り様。それでも当初自殺といじめの関係はないと主張していた、教育長をはじめとする 教育委員会や校長等は謝罪にすら来ず、ずっとほったらかし状態のまま。後日漸く校長らが行った時には、ご両親はそれを拒否。そして今回やっと教育長等が来たが、ご両親の疑問質問に対して何も答えられず、改めて彼らのお粗末振りがテレビカメラの前で明らかになるという無様な有様だった。
https://goo.gl/images/LYVeF5


 なんでこんな事態が未だに 繰り返し起こるのか。日本国中で大きな問題として意識された、滋賀県大津市立皇子山中学校の、凄惨ないじめによる自殺事件は 世の中に大きな衝撃を与えた。このケースでも男の担任を始め、学校長は のらりくらりと いじめと自殺との関係はないなどとほざき、このまま闇に葬られようとした。この時もご両親が動き回っていじめの事実を把握し、学校や教育委員会に突きつけた。メディアがこの動きを聞きつけて報道し始めると、事態は大きく動いて、学校でのいじめ自殺事件上、稀に見る陰惨で凄惨な事件だということが明らかになってきた 。
 大津市は改めて外部の第三者による委員会を立ち上げてこの問題の内容をかなり掘り下げて、事件の実態を明らかにし、そこから今後どのような取り組みが必要であるかを 明らかにしてきた。こうして 大津市では各学校にいじめ対策委員会の様な組織が設置されるようになり、これが県全体へと少しずつ広がっていく。
 もちろんこれで即解決というわけではないが 、今までになかったような具体的な対策が実った形になった 。
 周知の如く、この事件ではインターネット時代を反映して、全国ですぐに犯人特定捜査が行われるようになった。たちまちいじめの張本人の数名が顔写真、本名、住所、親の職業などが世間に晒される事態となった。中には誤って別人が 載せられたこともあったが、今現在もネット上には 加害者達の少年の顔写真はすぐに見ることができる。
 何故こういうことになったのかと言うとおそらく、弱いものをグループで陰惨で陰湿で凄惨ないじめ方をして、なおかつ少年ということで刑法犯に問われないと言う事実が、多くの人々の激しい怒りを買ったのだと思う。こうして 加害者たちの動きがその後も追われることになり、しかも 加害者たちの親は、自殺した少年の家庭に問題があったので自分たちは逆に被害者だなどと言ったもんだから、更に火に油を注ぐ形になってしまった。加害者の一部は一家そろって隣の京都に 転居して行った。それでもネット上での追求は止まずに、すぐに転居先及び転校先の学校も特定され、さらに 転校した学校の方でも事件を起こして、警察に補導されたことまで晒された。
 一方そのようないじめに対して、 いじめに気がつかなかったのか、見て見ぬふりをしていたのかはわからないが、男の担任は平然と知らぬ顔を通し、学校の説明会にも姿を現さず、長期病休に入って、校長も 本来は説明会に出てきてちゃんと説明するようにとの指導すべきところ、何もせず、庇い続けて中学校の信頼は全く地に落ちてしまった。結局大津市は 教育委員会や学校長、担任への懲戒処分を行ったが、極めて軽微なもので、校長らは多分もう退職してると思うが、担任はよその学校へ転勤してまだ教師をやってるだろう。
 ここまで大騒ぎになって全国的に問題になって、政府もいじめ防止法案のような法律を作ったにもかかわらず、今回の茨城県取手市のいじめ自殺事件が、全く同じようなパターンで 処理されようとしていた。ただ単に学校という場所が、閉鎖的で世間からはかけ離れてるというような 問題ではなく、もっと根本的な問題があると思う。

 まず一人一人の現場の教員自身が、人権と言う感覚に麻痺してるのではないか、或いはそういう鋭い感性を持たないまま教師という職業についてるのではないか、そして 毎日毎日の多忙な 余裕のない仕事の中で、生徒の様々な実情や思いを汲み取ることができないような状態になっているのではないか。さらに教員の集まりの教員集団自体が、集団としての機能をもはや持ってないのではないか。従って様々な課題があるにもかかわらず、そのことに鈍感になって、問題意識が持てない。仮に問題点を感じていても、それを多くの先生方と共有することができない状況になっているのではないか。更に管理職の方も、先生方を文字通り「管理する」ことばかりに目が行っていて、先生を通して子どもの状況が何ら把握できてないのではないか。そのような個人および組織的な問題があるように思われる。

 自分自身が中学校の教員として勤めていた時代から すでに、教師のサラリーマン化という言葉が出始めていた。自分自身が若い頃は朝学校に来て少し準備をして、授業や様々な活動に取り組み、放課後は 部活や生徒会活動などに時間を裂き、さらにその後会議があって、漸く暗くなってから自分の時間が取れるようになる。
 もちろん自分の時間と言うのは、まず 教材研究をし、教材資料を作り、学級通信を書き、印刷などをしてテストの採点をし、同時にそんな時に、周りの先生方と生徒についての様々な話をする。もちろん若い先生方からは どうしたらいいんだろう、という質問や相談も出てくる。自分自身が 少し年数を経てくると、いろんな相談を持ちかけられるようにもなってきた。それはまた新採の若い先生方を育てなければならないという意味も込められていた。事実、自分も新規採用の頃は、少しベテランの先生方からいろんなことを学ばせていただいた。そんな中でかなり重視して言われたこと、また自分自身が 重視して後輩の先生方に伝えたこと、それは生徒個人の人権を十分に意識して対応し守るということ。 人権を守るということを抜きにして、教育と言うのはあり得ないということを、徹底的に叩き込まれた。特に組合が主催する教育研究集会では、このことをもとにしたレポートも多く、自分としても大いに勉強になったし、また実際の 授業や指導現場でもその事を 貫いてきたつもりである。
 したがっていじめというのは何があっても許せないこととして 取り組んできた。もちろん長い教員生活の中で いじめの現場に直面したことは何回もある。自分自身が生徒の様子がおかしいとして見抜けた場合もあったし、数人の生徒たちがクラスにいじめがある、と訴えてきてくれたケースもある。ほとんどの場合は初期の段階で発見できたが、事実を追求していると小学校から継続して続いているという悪質なものもあった。 100%きちっと見つけてすべてをきちっと解決できたかと言われると、必ずしも そうとは言えない。反省すべき点も 後から考えると多々あったのも事実だ。しかし少なくとも生徒たちには、 いじめや暴力はどんなことがあっても許さない、徹底的に追求する、ということは 自分なりに直接生徒達にいつも訴えかけていた。
 ある時クラス内に 陰湿ないじめがあることが発覚し、最初のホームルームの時間に、俺から 言いたいことがある、 と言って、このクラスにいじめがあるということをかなり激しい調子で訴えかけた。当然生徒たちは体がすくんでいた。その後、状況を説明して なぜこんなことが起こるのか、 そのことをみんなで考えて欲しいということで、クラス会議をして今後クラスとしてどのような具体策を出していくのか、 下校時間を過ぎて 暗くなってしまって、各家庭に電話連絡を取って事情説明して、遅くなってしまったこともあったが、 生徒たちも それなりによく考えて対応してくれたと思ったりもしている。
 小さないじめ自体も含めると いろんな取組みを その都度行ってきたが、やはり担任が、いじめを絶対許さないという強い姿勢を明らかにすることが、極めて大切だと言う事を 身をもって感じとっていた。
 もちろん場合によっては、このようなやり方が いじめられていた被害者にとっては望まないような方法であった場合もあっただろうと思う。事前に被害者の生徒には この方法で進めるという話をしてから臨んではいた。
 自己満足というわけではないが、ある意味自分の信念として授業以上に 真剣に取り組んできたものだと思っている。それだけに自分が退職した後に起こった大津市のいじめ自殺事件も、今回の取手市のいじめ自殺事件についても、正直何か信じられないような思いがする。どちらの事件も担任の名前はネットで晒されているが、この担任たちはいったいクラスの何を見ていたのか、気が付かないなんて言う事が本当にあるのか、正直信じられない。 いじめと言ったって、ちょっとした遊びの延長だろうという風に、自分に言い聞かせて、見て見ぬふりをしていたとしか思えない。
 自分のクラスにいじめがあると、その指導には本来は膨大なエネルギーと時間がかかる。残念ながら多くの先生方は、被害者と加害者から事情を聞いて、被害者にもこういう点が良くなかった、加害者はそんなことしたらあかんかった、とまるで喧嘩両成敗のようなことで、お互いこれからないようにしよう という程度で終わらすことが多いんだろうと思う。
 こんなことで いじめなんてなくなるはずがない。断言できる。クラス全体を組織的に、この問題に取り組ませることが絶対に必要だ。場合によってはクラスを越えて学年を巻き込んで、学年全体の問題として 捉えて、生徒たちの議論を積み重ねながら問題解決を図っていくことが 必要なほどの事態だ。
 自分はもう退職して年数が経つので、今の学校現場ではどんな取り組みがなされているのかよくわからない。でも同じようなことが全国各地で繰り返されている実態を見ると、一体学校も 管理職も、個々の先生方も授業はやるけども、生徒を育て生活を正して指導していくということを、ほんまにやろうとしてるのかどうか、そして集団としての生徒たちをどのように、支え合い、協力関係を築き上げていくような取り組みをしているのか、疑問を覚えてしまう。
 悪いことに管理職があのような様で教育委員会もあんな体たらくでは、何も改善されるはずがない。多分今後も同じような事件は繰り返されるに違いない。どこかの県のどこかの学校で起こった凄惨な事件も、あくまでその学校だけの問題であって、自分らのとこはそんなん関係あらへんてなもんやろ。こんなことやし、今の学校という場、先生という職業が信頼を失ってしまっていると言うのもわからんでもない。個人的に大変な努力をし、研究をし 素晴らしい実践をしている先生方もたくさんおられるのは十分わかっている。しかしそういう先生方が今多数派なのかどうか、ひょっとして少数派なのか、上見て仕事をしてる先生が多くなってしまってるのかどうか、よくわからんけど、 教師という仕事をする限り、もっと人権ということに鋭い神経を持って欲しいし、どんなことがあっても許さないという毅然とした態度は守ってもらわないと、教育自体が成り立たないということを、再度言っておきたい。
 まあ随分と偉そうなことを言うたが、自分が それだけ素晴らしい実践をしてきたかと言えば、先にも言ったように必ずしも 胸を張って言えるほどではないけども、 少なくとも人権、いじめ、暴力というものには必死になって立ち向かってきたつもりだ。本当にこのままでは自殺した被害者の生徒達が浮かばれない。それらの全ての責任は教育関係の大人達とか加害者にある。 正直なところネットで晒されてはいるが、加害者たちが少年という扱いで守られすぎのところがある。ほんまにこんなんで良いのかどうか、ここも考えどころの大事なところやと思う。

https://goo.gl/images/ejLpak





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