切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《 パリ・オリンピック・・・ 平和の祭典という幻想 》①   2024.8.15

2024-08-15 21:54:38 | 社会


 東京オリンピック・パラリンピックから3年。このほどパリオリンピック大会が終了した。この後パラリンピックが控えている。テレビや新聞などのメディアはこぞって同じ内容を繰り返し繰り返し報道している。

 私個人は今現在のオリンピックというものに対して、強い拒否感を持っている。巨額の資金を投じて世界中から多くの競技の多くの選手をあえて集めて、一斉に進めるような試合形式というのは無駄だとしか思えない。
 子供の時に1964年東京オリンピックを見た記憶がある。貧乏であった我が家にも何とかかんとか 14インチの白黒テレビは間に合った。しかしその時に見ていた記憶は虚しいもので、覚えているのは女子バレーボールで金メダルを取ったことくらいか。マラソンではアベベ選手が金メダルに輝いた。しかも裸足で走ったのだった。それくらいだ。確か金メダル 16個という空前の数字に、全国が湧いていたようなことを少し覚えている。



◆ 平和の祭典とアマチュアリズムと商業主義

 その頃のオリンピックは、基本的にアマチュアリズムが当然であり、プロスポーツの選手は完全に排除されていた。しかしオリンピック も回を重ねるごとに、開催国の威厳をかけた大いなる見世物として、別の価値観が生まれ、確か前回のロサンゼルス大会だったと思うが、ついに商業化されたオリンピックが実現することになる。実際にはアマチュアリズムとは言いながらも、当時の東側諸国においては国を上げて、スポーツセンターを国が運営し選手も子供の頃から有能な子供を徹底的に育て上げて、実質上該当競技の練習に専念させ、オリンピックにおいてはアメリカとメダルの数を争い、これでは東側の選手はアマチュアとは 言えないのではないか、との疑問が数多く出されていた。

 そのような批判があったが、結局は西側諸国もオリンピックの度に開催国においては、巨額の経費に耐えられず、大会運営にあたって民間企業などからの支援を仰ぐようになり、結局はプロのスポーツ選手が参加可能な内容に変質していった。男子バスケットボールでは ドリームチームなどと名付けて、世界最高峰のプレーが披露され観客は熱狂する。以降個人でプロ契約をする選手も現れ、結局のところ西側諸国もアマチュアリズムだけでは大会の運営すらできない状況の中、プロであれアマチュアであれ、関係なしにかつて東側諸国がしていたような国立スポーツセンターのような設備を作り、子供の頃から有能な選手を専門的に育てるという方法になっていく。もちろんこれは西側諸国の中でも経済大国と言われるような国に限られることにはなった。そういった意味ではオリンピックそのものが、参加国の経済的状況によって一定の優劣が決まるような内容にさらに変質していく。

  こんな状況の中で私はかなり早い段階で、オリンピックには興ざめとなってしまった。要するに「 金」がオリンピックを支配する。すなわち開催国の有力企業がオリンピックを支配するという構図に一体何の意味があるのか、と思うようになったわけだ。

 であるならば各主要競技においては、アジア大会や世界大会などがそれぞれ催されているので、そこで専門種目の競技を争えば事足りるのではないかと思うようになり、何でもかんでも多くの競技を集めて、 1箇所で一斉に競技を行う形式のオリンピックというものの必要性が疑問にしか思えなくなったのだ。

◆ オリンピックが目指してきたもの

 

 近代オリンピックは、クーベルタン男爵が古代ギリシャのオリンピアードを現在に復活させるべく、貴族の資金を使って始めたものだ。その時に大きな狙いの1つとして、「世界の様々な国の人々の友好と平和」の 実現ということが挙げられた。19世紀にはヨーロッパ 帝国主義がアジアに侵略を拡大し、東南アジアや中国に植民地を作り、武力的な支配を行う時代であった。当然そんな中で支配するものと支配されるものとの間に軋轢が生じ、それが 暴動を引き起こし最終的には戦争状態に至るほどの結果となり、平和というものは遠い世界のこととなってしまっていた。
 そんな中で近代オリンピックは、平和の実現の一部に寄与しようと始められたものとなったが、これらは20世紀に入り早くも「国威発揚」の場として利用されるようになる。ヒトラーが政権を握ったドイツ帝国において、ベルリン・オリンピック大会が開催されることになり、それはまさにゲルマン民族の優生思想に基づく「強さ」「美しさ」というものを世界中に鼓舞する上で、格好の材料となったのだ。その後すぐ世界は第二次世界大戦のへと突入していく。クーベルタンの思いとは全く別方向に近代オリンピックというものは、国家、ナショナリズムの争いの場となり、各国の愛国心というものを一方的に育て上げ、他国への憎悪の形成に利用されるものとなったのだ。

◆ 東西対立の中のオリンピック

 第二次世界対戦終了後、特に戦勝国においては改めて戦争前に機能不全に陥っていた国際連盟に変わる国際連合を立ち上げた。理念は立派なもので、世界の独立国が大国であれ小国であれ、独立国として様々な課題への投票において、等しい 1票を持つものとされた。ところが戦勝国のおごりがこの場で取り入れられ、それが以後大きなネックとなる。もちろん 常任理事国という制度だ。 5カ国による常任理事国の制度は5カ国が一致しなければ、物事を決定することができないなどという、少し深掘りして考えれば誰でもわかるような重大な欠点を認めた上で成立したのだ。従って国連の場においては重要事項については、常任理事国のどこかの国が拒否権を発動して1票を投じなければ何も決まらないという事態になった。

 1962年の キューバ危機においては、第3次世界大戦寸前のところまで迫っていたという。米ソ両国の核兵器開発競争がピークの状態となり、危うく核戦争が起こるかもしれないという事態になったものだ。
 
  しかしそういう中でもオリンピックは4年に1回のペースで、立候補した各国の都市が開催するという形でずっと継続されてきた。敗戦から復興途上にあった日本は、戦後のオリンピックにおいて体操競技での活躍を始め、徐々に他の競技にも力をつけ始める。しかし当時は国を上げて有望な若者を育てるという気運はなかった。あくまでも高校や大学、あるいは 民間会社に勤めながら個々人の、あるいはグループが練習を重ね力をつけてきたということになる。それが一定結実したのが、1964年の東京オリンピックだ。すでに4年前のローマ大会において体操競技で金メダルを獲得していた。

 その一方、世界的な対立構造は単に東西対立にとどまらず、常に大きな火種が中東諸国に見られるようになる。こちらの方は背景にキリスト教とイスラム教などの対立、あるいは 原油産出国ということで、背景にアメリカやソ連のバックアップに基づく軍事的勢力拡大と宗教対立が利用される形で、中東戦争が勃発することになる。ここでのいわゆる中東紛争については何度も戦争になり、一旦集結、そしてまた戦争ということを繰り返し、第5次中東戦争までやってきている。

 これらの対立と戦争に大きく関わり鍵を握っているのが、イスラエルの存在だ。かつて ナチスドイツによって約600万人が殺戮されたという事実は世界史における極めて大きな汚点となり、戦後は西側諸国の支援によって イスラエルが建国された。のために土地を追われたパレスチナ人たちは対イスラエルの姿勢で持って過激な行動に出ることになる。中東戦争及びイスラム教のパレスチナ人といった複雑な様相となる。このことは単純に話し合いで解決できるほどのものではなく、一時的に話し合いが功を奏したことがあっても、何年も持たない状況となる。

 1972年 ミュンヘン・オリンピックにおいて、パレスチナの過激派が選手村を襲撃し、イスラエルの選手団を11名殺害するという、平和の祭典のスローガンを真っ向から潰す事件が起こった。

 これ以外にもアメリカは ベトナム戦争を何年にも渡って行い、いわゆるジェノサイドという民族皆殺しの作戦を敢。あるいはまた旧ソ連によるアフガニスタン侵攻などなど 大国による殺戮行為が世界の平和を局地的に潰していった。アフリカ諸国でも数多くのヨーロッパ大国による植民地が独立運動による過激派の動きによって、あちこちで虐殺が起こりオリンピックどころではないような実態が世界各地で起こるようになった。

 

 それでもオリンピックは4年に一度、経済大国を中心に実施されメダル獲得競争による国威発揚の場として利用され、ますます世界の人々の分断に手を貸すような結果となっていく。そんな中せめてオリンピック期間中だけでも戦争を停止しようなどという詭弁的な姿勢に、オリンピックの存在そのものの意義が疑問視される事態となっていく。

◆ 旧ソ連の崩壊・・・ オリンピックは平和の祭典になったのか

 ベルリンの壁の崩壊は東西対立の象徴であったものが、若い勢力を中心とした力によって破壊され、 ベルリン及び東西両ドイツが1つのドイツに統一したということで、世界的に明るい希望をもたらす出来事として捉えられた。このことはただ単にドイツにとどまらず、ソ連邦という共和国の集合体をも崩壊させることにもつながった。こうしてソ連邦はなくなり、ロシアという大国とそれ以外の数多くの国々が誕生することになる。

 当然これで東西対立は終わったのだ、という安心感のようなものが世界に広がる。しかし 物事はそう簡単にはすまない。世界の構図は徐々に変わり始め、やがてロシアにプーチンという独裁者が現れ、中国においては習近平というこれも独裁者、さらには核の脅威を強める存在としての北朝鮮の存在が新たな世界的な脅威として取り沙汰されるようになる。中東においてもインドに限らずパキスタンやイスラエル等の核兵器の所有については、国連も止める術がなく、ただただ無力を晒しただけのことになってしまった。これらの事実はさらに新たな対立を世界各地に生み出し、力による支配が現実のものになっていくことにつながる。

  これらの事実はオリンピックにおいても、戦争加担国について出場停止という処分が下されるようになったが、しかし戦争当事者の国でも不参加と参加があって、いわばダブル・スタンダードという形になってしまっている。それは主として旧西側諸国が支援する戦争当事者の国をオリンピック参加に賛成し、旧東側諸国一部を不参加処分にするという形で具体的に現れた。直接オリンピックを主催する世界オリンピック委員会 IOC は、自ら平和の祭典の意義を捨てたということになる。

 

 今回のパリ・オリンピックにおいては、周知の通りウクライナへの侵略戦争を行っている ロシアは参加不可となり、ごく一部の中立を表明している個人が出場し、金メダルを得ている。ところが戦争当事者で、今まさにパレスチナ難民を近代的兵器で総攻撃し、すでに4万人以上を殺しているイスラエルは堂々と参加を認められている。なぜなのか。この紛争のきっかけがパレスチナ側のハマスによるものだったからというのが理由なのか。しかしそれに対する報復としてはあまりにも酷い。ガザ地区の病院・学校などの建物が空爆され、大勢の女性や子供たちが犠牲になっている。元々イスラエルの武力はかなり有力なものであったが、さらにアメリカなどが支援している。戦争の実態を見ると明らかに軍人と軍事施設だけを狙ったものではなく、パレスチナ人皆殺しのジェノサイドとも言うべき事態となっている。許されるはずがない。

 もはや自ら、平和の祭典というスローガンを空疎なものにした IOC は、オリンピックを開催する資格などありはしないのだ。それでも不思議なことに次回はアメリカのロサンゼルスということになっている。このような実態に IOC もフランス・オリンピック委員会も日本の JOC もほとんど何も言わないというか、言う言葉が見つけられないんだろう。いや、そうではなくこれでいいんだろうと、完全肯定をしているんだろう


  
  (画像は、NHK CNN ANN IOC JOC 等より)
  以下、②へ続く

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