切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府城陽市 水度神社・・・やはり木津川が

2017-08-12 23:44:58 | 撮影

 城陽市の水度神社

 

 旧国道24号線、現在は府道だが、城陽市役所の東側、城陽高校のそばにある。境内は参道を含めかなり広く、周囲は住宅密集地だが、この一帯だけ大きな森に囲われ、神社があることがすぐにわかる状態になっている。
 最初の鳥居は大分離れており、参道をずっと進んでいかなければならない。境内の広い場所に入ると、中央に立派な舞殿があり、その奥に堂々とした拝殿、そして重要文化財の本殿が構える。森に囲まれているせいか、標高は高くないのに城陽の市街地よりも少し涼しく感じられる。特に観光地ということではないので、多くの参拝者が来ているというわけではないが、地域の人々の信仰により、境内全体が非常によく整備されている。
 一人また一人と参拝に来る地元の人々が見られた。中には大きなレンズを付けた一眼レフを持ったおじさんがあちこち撮影していた。
 神社の由来等は境内に説明板があったので、それをそのまま以下に載せておく。

  

『水度神社
 ご祭神
 天照皇大神
 高皇産霊神
 和多都美豊玉姫命

神社の由来記
創祀の年代は平安時代初期と伝う。史実によれは清和天皇の貞観元年正月(八五九)従五位下の神位を授かり、延喜の制には小社に列せられる。明治六年村社仝一五年郷社に、仝四十年府杜に昇格。現在は社格廃止され、神社本庁に属す宗教法人水度神社と称す。
旧社地は境内領東にある住古、鴻が巣を結んだという鴻の巣山の、その峰つづきにあたる太神宮山であったと伝う。現在の地へは鎌倉時代の支永五年(一二六八)旧地より遷し奉り今日に及ぶ。由来、寺由郷の産土神として氏子の信奉篤く、近年近隣よりの参詣者もその数を増す。
本殿は正面一間、側面二間の変化に富んだ流造破風様式(千鳥正面破風)で簡素にして優美な建築である。
社伝棟札によれば室町時代の文安五年 ( 一四四八)の建立になる。その後、桧皮葺替えの修理を重ねて今日に至る。現在は重要文化財に指定されている。
神社の大祭
九月三十日 例祭 十月二日 大祭
小宮十社
天満宮社 日吉神社
太神宮社 加茂神社
八幡神社 嚴島神社
松尾神社 稲荷神社
春日神社 竜王神社 』

水度神社本殿(重要文化財)
 水度神社

 鴻ノ巣山のふもとにある水度神社は、旧寺田村の産土神で、祭神は天照皇大御神・高御産霊神・少童豊玉姫命です。「山城国風土記」逸文に、「久世の郡水渡の社祇社」とあることから、風土記が編さんされた奈良時代には存在したと考えられます。平安時代前期に成立した『延喜式』には、「水度神社三座」と記されています。
 重要文化財の本殿は一間社流造で、文安五年(一四四八年)に造営された市内に現存する最古の建物です。屋根は檜皮葺で、正面に大きな千鳥破風があります。また庇の正面中央には、透彫の唐草と笹りんどうをあしらった欄間がつけられ、意匠を凝らした優美な建物です。
 水度神社には京都府登録文化財の「おかげ踊り図絵馬」と、城陽市指定文化財の「鉄湯釜」、「大般若経」があります。「おかげ踊り図絵馬」は、文政十三年( 一八三〇年)十一月一日に寺田村北東町の人々が水度神社に奉納したおかげ踊りの様子を描いたものです。
「鉄湯釜」は、湯立て神事に使われていたと考えられ、銘文から応永三十二年(一四二五年)
に作られたことがわかります。
「大般若経」は、鎌倉時代前期に本 さかのぼる書写経で、村落における信仰の歴史を知る貴重な資料です。
城陽市教育委員会 』

    

 基本的には上記の説明を正しいものとして認めるものの、様々な資料によれば別の意見もあるようだ。
 鎌倉末期の釈日本記に綴られている山城国風土記の逸文が713年のものとされ、そこに久世郡の社とあり、これが正しければ平安時代ではなく奈良時代の初めには水度神社が存在していたものと考えられるというもの。
 この辺りはいずれにしろ、千年以上も前の話なので、どの部分が正しいのかはなかなか分かりにくいものだと思う。おそらく様々な研究者が多くの古文書を当たりながら、実際のところはどうなのかを、可能性のある説として出しているのだろうと思う。
  1969年に発刊された「城陽町史」の中に水度のことを説明した部分を載せているホームページがあったので、それを紹介させてもらう。

『「水度とは水処、すなわち水の侵しやすい処をいったものであるから、当社は水防の神として、または農耕の守護神として創祀されたものであろう。
 されば、かかる山の中腹にあって水とは一向縁のないのが訝しいが、これは別の処に祀られていたのを後世この地に遷したものであろう」
と記し、式内社調査報告(1979)は、「水主氏一族(火明命を祖とする一族-下記)が、当地一帯の治水作業の過程で本社が創祀されたものと思われる」という。』

  また別のホームページには、水度について次のような具体的な説明が載せられていた。
『女神の豊玉姫命(和多都美<わたつみ>豊玉姫命)は、水神であり、水度(みと)は水処とされ、水禍の絶えない地だったとみられる。そのため、水防の神、また、農耕の守護神として祀られたという。
 水土神社には豪族・水主(みぬし)氏が関わったともいう。水主氏は山城国久世郡水主郷を起源とし、水主直(古代の尾張氏族)子孫という。水主は水取(水部)の略であり、水門の管理に当った。祖神は天火明神であったという。水主氏が関わった周辺の延喜式比定とされる社に水主神社、荒見神社がある。』

   

 このように見てみると、以前載せた荒見神社にしても、水度神社にしても、近くを流れる木津川との関わりが大きな意味を持っていたのは間違いないし、またそれを水源とした稲作なども広く行われ、木津川の水というものが、この地域の古代の人々にとっても極めて重要なものであったことがよくわかる。おそらく木津川の流れも当時は少し違っただろう。何度も洪水などの水害があっただろうし、農作物に大きな影響もあったはずで、そういったことを神を祀ることによって収めたいという思いが切実な課題だったはずだ。
 水度神社はその風格から、参拝及び 拝見すること自体も、大いに勧められる見事な神社だと言える。

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