極楽寺
当ブログにおいて、2019年6月29日付で 山科区の「極楽寺」を紹介している。その副題には「忠臣蔵」と記しており、今回の福王寺との関連も深い。先に極楽寺も撮影してきたので写真だけ紹介し、その後に福王寺について簡単に紹介しておく。
忠臣蔵で有名な赤穂藩の当主であった大石良雄( 蔵之介)が主君の仇討ちを決意し、赤穂浪士四十七士とともに行動する話は極めて有名だ。その大石芳雄が江戸時代中期に一時この京都の山科に隠棲していたというのもよく知られている。
その場所は特定されていて、上記の極楽寺。そしてその南方にある岩屋寺が知られている。そして福王寺についてはおそらく極楽寺の末寺ではないかと考えられており、この福王寺にも陰性 していた可能性が高いという。
福王寺
福王寺の創建については詳しいことは分かっていない。極楽寺が室町時代初期の創建だというので、おそらくその頃かあるいはその直後くらいではないかと考えられる。従って室町~戦国時代であろうと思われる。大石良雄がこの地で作戦を練り周到な準備をして、討ち入りを果たすことになるのだが、当時の山科には東海道の重要街道が通じており、その意味では見つかりやすい場所だったかもしれないが、狭い盆地の山裾に近いところだったので隠棲する上では適した場所だったのかもしれない。
主君の仇討ちを果たした大石良雄はその責任を取って、最終的には切腹することになる。この実話は当時の都などで話が広まり、後年人形浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」として上演されることによって一気に知れ渡り、また大いに人気が出て今現在でもよく知られている浄瑠璃の演目となっている。
大正時代になって大石良雄の功を讃える形で、福王寺のすぐ南側に大石神社が創建された。今ではしだれ桜の名所としても知られ、忠臣蔵ファンが大勢訪れる地だ。また同じ頃に 出身地である赤穂藩の場所にも同名の大石神社が建立されている。岩屋寺や極楽寺は大石良雄の隠棲した場として確定していると言えるが、福王寺については隠棲していたという説があるという言い方もされている。しかし福王寺には実際に大石芳雄が使用していた衣服等が残されており、それぞれの寺院がすぐ近くということもあり、やはり実際に利用していたのは確かだろうと思われる。小さなお寺であり入り口も注意しておかないと見過ごしてしまい そうなお寺で、訪れる人も少ないようで忠臣蔵との関わりもあまり知られていないようだ。 そういった意味では知る人ぞ知ると言った立場のお寺となるだろう。
当ブログにおいて、2019年6月29日付で 山科区の「極楽寺」を紹介している。その副題には「忠臣蔵」と記しており、今回の福王寺との関連も深い。先に極楽寺も撮影してきたので写真だけ紹介し、その後に福王寺について簡単に紹介しておく。
忠臣蔵で有名な赤穂藩の当主であった大石良雄( 蔵之介)が主君の仇討ちを決意し、赤穂浪士四十七士とともに行動する話は極めて有名だ。その大石芳雄が江戸時代中期に一時この京都の山科に隠棲していたというのもよく知られている。
その場所は特定されていて、上記の極楽寺。そしてその南方にある岩屋寺が知られている。そして福王寺についてはおそらく極楽寺の末寺ではないかと考えられており、この福王寺にも陰性 していた可能性が高いという。
福王寺
福王寺の創建については詳しいことは分かっていない。極楽寺が室町時代初期の創建だというので、おそらくその頃かあるいはその直後くらいではないかと考えられる。従って室町~戦国時代であろうと思われる。大石良雄がこの地で作戦を練り周到な準備をして、討ち入りを果たすことになるのだが、当時の山科には東海道の重要街道が通じており、その意味では見つかりやすい場所だったかもしれないが、狭い盆地の山裾に近いところだったので隠棲する上では適した場所だったのかもしれない。
主君の仇討ちを果たした大石良雄はその責任を取って、最終的には切腹することになる。この実話は当時の都などで話が広まり、後年人形浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」として上演されることによって一気に知れ渡り、また大いに人気が出て今現在でもよく知られている浄瑠璃の演目となっている。
大正時代になって大石良雄の功を讃える形で、福王寺のすぐ南側に大石神社が創建された。今ではしだれ桜の名所としても知られ、忠臣蔵ファンが大勢訪れる地だ。また同じ頃に 出身地である赤穂藩の場所にも同名の大石神社が建立されている。岩屋寺や極楽寺は大石良雄の隠棲した場として確定していると言えるが、福王寺については隠棲していたという説があるという言い方もされている。しかし福王寺には実際に大石芳雄が使用していた衣服等が残されており、それぞれの寺院がすぐ近くということもあり、やはり実際に利用していたのは確かだろうと思われる。小さなお寺であり入り口も注意しておかないと見過ごしてしまい そうなお寺で、訪れる人も少ないようで忠臣蔵との関わりもあまり知られていないようだ。 そういった意味では知る人ぞ知ると言った立場のお寺となるだろう。
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