切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《 パリ・オリンピック・・・ 平和の祭典という幻想 》 ②  2024.8.16

2024-08-16 22:45:53 | 社会
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◆ オリンピックが平和の祭典という幻想すら商業主義の前に屈服



 「オリンピックは儲かる。」商業主義が導入され会を追うごとにその進出具合も増していった。もちろん儲かるというのは、オリンピック委員会ではなく、いわゆる協賛企業のことだ。もともとが プロ契約を結んでいる選手たちが次々とオリンピック選手に選ばれ、競技によってはただでさえ、何億あるいは何十億円という契約を結んでいる選手にとってみれば、さらにオリンピックに出場することによって金メダルなどの名誉も同時に得ることになる。当然純アマチュア選手が公正な立場で戦えるわけでもなく、よほどの例外でない限り、各個人や団体をバックアップしてくれる協賛企業を求める動きになるのは当然のことだ。

 その結果今や商業主義とは無関係なところで参加している選手などというのは、ほとんど 考えられないと言うか見られない。企業にとってみれば一定の金額を該当選手に提供することによる企業イメージアッ、及び売り上げ効果は極めて大きなものとなり、オリンピックそのものが極めて大きな宣伝の場となるということだ。

 そういった意味では今や巨大化したオリンピック競技大会というものが、協賛企業の存在なしには運営もできない状況に陥り、まさしく商業主義に屈服したオリンピックとなっている。これには2つの側面があって、出場する選手側にとってみれば、 いくらアマチュアリズムを大切にしたいと思っている選手がいたとしてももはやそれでは何の動きも取れない状態になる。またオリンピック委員会にとってみれば、巨額の投資についてもただ単に都市が開催するにしても、競技場へは運営費などを税金だけで賄うことが不可能なくらいに膨れ上がってい。そこで協賛企業に協力してもらわざるを得ない という状況になる。

 従って本来ならば開催都市のある国の時間に合わせて競技が進行されるべきところを、メディア企業の圧力によって、その国に便利な時間帯に放送するために、開催国ではとんでもない時間に競技をせざるを得ないという事態も生まれた。

 さらにオリンピックそのものに対する世界の関心が少しずつ薄れている中で、若者を中心にオリンピックへの関心を高めてもらい、また競技力向上のためにもオリンピックを目指し メダルを獲得すれば、報奨金というご褒美を設定して出す国が次々に現れている。今回のパリ・オリンピックにおいて、フィリピンで史上初の金メダルを獲得した選手に対して、とんでもないほどの報奨金、あるいは報償物が提供されたというのは世界的なニュースとなった。

 どの側面から見てもオリンピックは、商業主義抜きでは完全に不可能な状態になっている。今さらこれを本来の理念に戻すことなど不可能だろう。

◆ 商業主義は汚職を誘発する可能性が極めて高い



 2021年に開催された東京オリンピックにおいて、贈収賄事件やお金にまつわる闇取引などの汚職事件が明らかになっている。いわば東京にオリンピックを招致する以前から裏では人知れず、様々な怪しげな動きがあったのだ。 IOC に関わる有力者に闇金が渡ったという話は当時からなされていたが、本格的な操作が行われず、特に フランス警察当局が調査を続けていたというニュースが流されていた。その他にも海外向けの招致活動ではやはり、一般国民が知らないところで違法なお金が動いたとされている。

 おそらく東京オリンピックにおいて、このような事件が部分的に明らかになったが、他の都市でのオリンピックにおいても大同小異、似たような事件は起こっていたのではないかと思われる。しかしそれもうやむやの中、オリンピックが終わっていわば、終われば全てよし、との適当な解釈の中、事件のことは忘れ去られていく。果たしてこんな「汚れたオリンピック」でいいんだろうか。

 今回東京オリンピックの「報告書」「総括」がネット上に公開されているので、少し飛ばし読みをしてみた。結論から言うと特に「総括」 においては、全く総括の体をなしていないというのが実態だった。報告書というのはただ単に時系列で、またジャンル別にこんなことをした、こんなことがあった、ということの羅列だ。おそらく都合の悪い部分は削除されているだろうと思う。しかし「総括」については、日本の東京という都市がオリンピックを招致し、それが認められ実際にオリンピックが行われたのだから、莫大なお金がかかっていて、だからこそこの部分はしっかりとけじめをつける必要がある。

 ざっと読んでみると一番力が入っていたのは「コロナ禍」の部分だった。確かにコロナが世界中に蔓延し、大勢の人が亡くなり出場予定の選手も出られないというケースも多くあった。国そのものが出場を取りやめるというケースも見られた。そういった意味では不幸な面があったとはいえる。それに対する対策がしっかりと行われ、さらにコロナが拡散していくことのないように万全の準備を整え、対応策を策定しておくというのは当然のことだ。そういった意味ではかなり詳しく、このような準備をしたという内容は今後の参考にはなるだろう。

 ところがこの部分以外はどうであったのか。 特にオリンピックの基本理念である「平和の祭典」という部分については特に何かが記されて、平和を追求する目的に対してどのようなことがなされ、どのような課題があったのかという分析も何もなく、ほとんど素通り状態であった。つまり平和の祭典という理想はただ単なるスローガンだけであって、今更何かをどうのこうの言うものではないというのが IOC の、そして JOC の対応なんだろう。何と言っても大事なのは、メダルがいくつ取れたのかというところに集中してしまって、その背景にある国民の関心や税金の使い方、あるいは選手たちの心構えと言ったところにどれだけ取り組みが行われ たのかが曖昧になってしまっている。あくまでも「総括」というのは、「理念」「具体的な目標」が、現状分析から導き出されているはずであるし、その部分にまで立ち返ってなされるべきものであるはずだ。こういった意味で「総括」が極めて不十分であると感じざるを得なかったし、これでは次のオリンピック以降に何も教訓が生かされないということになってしまうのではないかと思う。

 もちろん贈収賄事件などのような件については、少し読んでみた限りでは、どこにもその文言はなかった。不都合な真実は隠せということだ。実際に東京オリンピックが実施されてしまえば。メダルの数に国民は大喜び して、不都合なことは忘れてしまうといった IOC や JOC の本音というものが、現れているんだろうと言える。
 パリ・オリンピックについてはもちろん、現段階では総括も何もなされていないので分からない。また事前に招致活動などにおいてこんな問題があった、あんなことがあったということも何も報道がない中で、どうであったのかはわからない。おそらく東京オリンピックにおける札束の威力で招致を勝ち取ったという事実は、フランス当局も十分知っているはずだし、少なくともパリ・オリンピックにおいて、 そのような不名誉なことにならないように気を遣ったのではないかと考えられる。



◆ パリ・オリンピックはコンパクトな大会を目指した

 パリ・オリンピックはまだパラリンピックが終わっていないので、最終的な総経費については分からないが、事前報告の中では、1兆4700億円とされている。これが正式な額となるかどうかはどこまで報告内容の透明性が確保されているかによる。

 東京オリンピックでは汚職問題など、様々な負の遺産が大きな課題になったにもかかわらず、それらは公式記録や総括および国会への報告には含まれなかったが、表向きの総経費としては、約1兆7000億円とされた。これ以外に裏金やあえてオリンピック経費に含まなかったものもあるかもしれない。このようなことが相まって東京オリンピックに対する拒否感や マイナス 印象が強まったものと考えられる。

 過去のオリンピックにおいて、最大級の経費が使われたのは北京オリンピックといわれるが、その送経費は5兆円を超している。それ以外の大会もあるが、果たしてこれだけの経費をかけてまでオリンピックというものをする必要があるのかどうか。やはりその背景には 各国の思惑に基づく「国威発揚」という最大の目標があるからだろう。もはやそこには平和という理念は吹っ飛んでしまっているのだ。



◆ パリ・オリンピックにおける選手たちの思いは



 すでに述べたように、私はオリンピック不要論者だ。各競技 ごとに世界大会や各地域大会があるので、そこですればいい。しかし世界中のトップ選手たちは。「オリンピックは特別だ。」と声を揃えて言う。私自身がそんな立場にないので、その精神的背景は論理的に理解しようと思ってもできない。むしろかなり精神的な部分の問題だろうと思う。

 ではその選手たちは皆さんが「オリンピック憲章」というものを読んだことがあるんだろうか。あるいは「平和の祭典」と意識して競技に臨んでいるんだろうか。



 私はオリンピックの生中継を一切見ていないので分からない。少なくともニュースで報道されている競技シーンやその後の喜んだり泣いたりするシーンは見るが、その中で「平和の祭典」であることの意味合いを発言にしろ、行動にしろ見たケースはほとんどない。かろうじてともに戦った選手たちがお互いの健闘を讃え合ってハグする場面、あるいは表彰台の上で最後に全員が一番高い台に上がって記念撮影をするような場面、あるいは競技中に相手選手に対して激励したりする場面などは見たことがある。その場面だけでもオリンピックの精神が生きていると言われれば確かにそうなると思う。無論これとは全く真逆のケースもあったようだが、大半は肯定的な場面が多かったように思われる。

 そういった点からは、前回から公式種目となったスケートボードが1つの方向性を表しているのではないかと思う。彼らは互いに各国のトップクラスの選手として世界中を渡り歩き、同じような顔ぶれで競技を行っている。オリンピックの場面でもお互いに相手の成功 失敗に関わらず、よく頑張ったと激励し合っている。もともとスケートボードが持つ性格なんだろうと思われた。これは他の種目においても多かれ少なかれ見られるといえば見られる。
 もう一つ。今回から競技となったブレイキンという種目は、1対1で自分のお互いの技を表現し合う。ここにも対戦相手に対するリスペクトが見られる。そういった意味では単なる争い というものではなく、お互いに努力してきたことを認め合い、さらに激励しあって次の レベルを目指していこうとの思いがその姿から見て取れる。



 これらの点からは平和の祭典の理念の一端が見えたのは事実だ。ただ各種目において特に日本の選手を見ていると、「国のために」「日本に帰れない」などと言った妙な悲壮感というものがインタビューの中で実際に語られるケースが目立ったのも事実だ。ここには平和の祭典の理念などというものはなく、また個々人の競技者としての努力を表現するという基本的な姿勢ではなく、いわば「国家主義的」な思いというものが覗いているように思う。おそらくどのような国においても、多かれ少なかれこのような思いはあることはあるだろう。特に中国という国はそのような傾向が極めて強いのではないかと思われる。卓球や体操の種目といったものは中国にとってみれば、世界トップでなければならないという悲壮感すら感じられる。卓球では勝ったものの、体操においてトップ選手の鉄棒の失敗により団体戦は銀メダルとなった。この選手は一体どうなるんだろうという心配もあったが、その後の報道では中国国内での SNS で逆に彼を励ますような内容が多かったということを聞いて一安心したものだ。

 メディアはオリンピックの結果について、メダルの個数にこだわりすぎて獲得ランク表まで作って掲載している。そんなものが必要なのか。はっきり言って個数などどうでもいいことではないか。世界中の選手たちが自らに課した厳しい練習生活を、オリンピックという場で表現しているのはあくまでも自分自身のためだ。その結果が金メダルであろうと予選落ちであろうと、それは問題ではない。あくまでもどのように努力してきたのか、それに納得がいかなければ出場はしない方がいいだろうし、納得ができれば積極的に出場したらいい問題だ。メダルの個数争いなど、メディアがこぞって報道するのはやめるべきだ。



 メディアがこんなことをするのは、国民がそれを知りたいからだというのがメディア側の主張となるだろう。本当にそうなんだろうか。あくまでもメディアが勝手に作り上げた競争原理に基づく優劣を示したいだけの話だ。オリンピックに参加する国々は、経済大国から 最貧国まで千差万別。それらを同じように見てはいけない。あくまでも選手団が日本のように 400名というところもあれば、数名というところもある。だからこそ平和の祭典という理念の中に各国が「平等」であることが求められるのだ。

 パリ・オリンピックではたまたま日本のメダルの数が多かったと言えるが、それはそれで知っていようが知らなかろうがどちらでもいい話だ。また帰国してきた選手たちが次々にテレビに呼ばれて出演している。いつものことだが基本的にはメダリストが中心であり、メダルのない選手はどうでもいいと言った扱いにしているのも、メディアだ。期待されて現地に行ってきたのに、まさかの敗戦。あとは知らん顔という態度をとるのもメディアだ。そういうメディアを通して国民は、メダリストに 狂喜乱舞するといえば大げさになるが。あくまで放送するならば、様々な側面から様々な選手に、というのが私の思いだ。なんだかメダルがなかった、入賞もなかったと言った選手が、ほぼ完全スルー というのは全く失礼な話だ。

 メディアはこぞって次のロサンゼルス・オリンピックでは、さらにメダルを云々と言っている。もうバカバカしくて嫌になる。世論調査では特に若者のオリンピック離れが加速しており、これは日本に限らず世界的な傾向で IOC も含め、各国オリンピック委員会も危機感を持っていると言われている。だから若者に人気のあるスケートボードやブレイキンといった種目が加えられたんだろう。次回からはeースポーツが加わると言われているが、何をか言わんや、信じられない思いだ。あれのどこがスポーツなのか。



◆ オリンピックの中心の理念に立ち返らなければもはや開催不可能

 実際にはオリンピックを開催したいという都市はあちこち複数あるようだ。おそらくロサンゼルスの次もまた、その次も立候補が複数出て招致合戦となるだろう。どれだけお金がかかろうともそれに見合ったものが特に政治家や賛企業においてはあるものだと思われる。
 しかし基本的な理念を忘れてしまったオリンピックというものは、世界の複雑な情勢の中で孤立的な場に置かれてしまうことになるのではないだろうか・・・歌を忘れたカナリヤはうしろの山に捨てましょうか、いえいえそれは・・・



長い文になってしまったが、もちろん子供の時からスポーツに親しみ、オリンピック選手に憧れ自身もまた成長してップ 競技者に近づいた時、何としてもオリンピックに出たいという気持ちは非常に大切なものであり、決してそれ自体を否定するものではない。どのような競技会の場であろうと、自分が努力し肉体的にも精神的にも成長した部分が自覚できるならば、堂々と競技会へ憧れのオリンピックへ挑戦するべきだろうと思っている。
 あくまでも オリンピックであれば、その理念は忘れないように。



 (おわり)
  (画像は、NHK YouTube IOC 時事 等より)
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