切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

8月9日 長崎に原子爆弾が投下された日・・・長崎市長の決意

2017-08-10 00:36:29 | 社会

今日は8月9日



 先日の8月6日に続き、日本に2発目の原子爆弾が長崎に投下された。ここでも今日、平和祈念式典が行われた。その中で安倍首相の言葉と長崎市長の平和宣言を見てみる。

『 本日、被爆七十二周年の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に当たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀悼の誠を捧(ささ)げます。
 そして、今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からお見舞いを申し上げます。
 一発の原子爆弾により、一瞬にして、七万ともいわれる数多(あまた)の貴い命が失われたあの日から、七十二年がたちました。一命をとりとめた方々にも、耐え難い苦難の日々が強いられました。人々の夢や未来も、容赦なく奪われました。
 しかし、長崎の人々は、原子爆弾によって破壊された凄惨な廃墟(はいきょ)の中から立ち上がり、たゆまぬ努力によって、素晴らしい国際文化都市を築き上げられました。
 この地で起きた惨禍が二度と繰り返されてはならない。唯一の戦争被爆国として、「核兵器のない世界」の実現に向けた歩みを着実に前に進める努力を、絶え間なく積み重ねていくこと。それが、今を生きる私たちの責務です。
 真に「核兵器のない世界」を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意です。
 そのため、あの悲惨な体験の「記憶」を、世代や国境を越えて、人類が共有する「記憶」として継承していかなければなりません。昨年、オバマ大統領が、現職の米国大統領として初めて、広島を訪れ、被爆の実相に触れ、核を保有する国々に対して、核兵器のない世界を追求する勇気を持とうと力強く呼びかけました。核を保有する国の人々を含め、長崎・広島を訪れる世界中の人々が、被爆の悲惨な実相に触れ、平和への思いを新たにする。若い世代が、被爆者の方々から伝えられた被爆体験を語り継ぐ。政府として、そうした取組をしっかりと推し進めてまいります。
 そして、昨年十二月、ここ長崎で開催された、核兵器廃絶に向けた国際会議での真摯な議論も踏まえながら、核兵器不拡散条約(NPT)発効五十周年となる二〇二〇年のNPT運用検討会議が意義あるものとなるよう、積極的に貢献してまいります。
 被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策の充実を行ってまいりました。今後とも、被爆者の方々に寄り添いながら、援護施策を着実に推進してまいります。
 特に、原爆症の認定について、引き続き、一日も早く結果をお知らせできるよう、できる限り迅速な審査を行ってまいります。
 結びに、永遠の平和が祈られ続けている、ここ長崎市において、改めて、「核兵器のない世界」と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことをお誓い申し上げるとともに、原子爆弾の犠牲となられた方々のご冥福と、ご遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、長崎市民の皆様のご平安を祈念いたしまして、私の挨拶といたします。
平成二十九年八月九日
                             内閣総理大臣・安倍晋三 』


『「ノーモア ヒバクシャ」
 この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。
 核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122カ国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。
 私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。
 しかし、これはゴールではありません。今も世界には、1万5千発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活(い)かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。
 核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
 安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。
 日本政府に訴えます。
 核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関(かか)わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。
 また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。
 私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
 あの日、原爆の凄(すさ)まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原(やけのはら)となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然(ぼうぜん)と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨(むざん)に狂わせたのです。
 世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。
 遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
 人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
 世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。
 今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。
 被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
 福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。
 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。
 2017年(平成29年)8月9日
 長崎市長 田上富久 』


  朝新聞の番組欄を全部見てみた。今日の原爆に関わる番組がどのように組まれているのかどうか確認するためだ。NHKはさすがに祈念式典及び、他の時間帯にもドキュメンタリーのような番組を組んでいる。一方、民放各局は全く何もなし。ニュースの中で取り上げるだけの姿勢だ。実は6日の広島のときも全く同様だった。
 かつては原爆投下の日が近づいてくると、NHKも民放も力を入れたドキュメンタリー番組が放映されていたものだ。当日も大きく取り上げられ、決して忘れてはならない歴史の事実を後世にもちゃんと伝えて行こうという姿勢があった。
 しかし原爆投下から70年以上経った今、報道はもはや、やる気を失ったかのように、このような大切な報道をしようとしない。ニュース番組の中だけで終わらせるというお手軽さ。こんなことよりも、お笑いタレントや無能な芸人どもがずらっと並んで、ただただわいわいがやがや 笑って喋っておしまいの、何の意味もないバカ番組ばっかり中心にやってるだけ。或いは原爆よりは、世界陸上とか全米オープンとか、わざわざ大金かけて衛星生中継する方が大事だというのか。もはや考える以前に、テレビ各局の無能な体たらくには言葉もない。
 辛うじて新聞の方はそれ相応に、当事者に取材をして大事な問題として取り上げている。全国紙は読まないので、あくまでも京都の地方紙だが、しっかりとした視点で記事が書かれている。今現在では新聞以上にテレビ等のメディアが強い影響力を持っている。そういうメディアが相も変わらず、大事な問題から国民の目をそらし、どうでもいいようなくだらない番組をずっと垂れ流し続けている。いい加減テレビなど見る気もしないような思いになってから何年も経っている。このようなメディアの姿勢に直接関わっている連中というのは、何の使命感も正義感もないんだろうかと思う。実際ないんだろう。安倍政権や大手芸能事務所や右翼の動向や、金をいっぱい出してくれるスポンサーの方ばっかり見て、昔流行った言葉の、一億総白痴化、をそのまま実現すべく、無駄な悪あがきをし続けているような有様だ。
 今日の安倍首相の言葉には、広島の時の言葉とどこがどう違うねん、と思わせるほど似たような文章で、相も変わらず嘘丸出しの非核三原則を守るとか言いつつ、全体として具体的な指標も示さず、まるでここは靖国神社かと思わせる様な単語表現を入れながら喋っとった。本来的には右派思想に凝り固まった奴だから、あんな上辺だけのことしか言えないんだろう。
 一方、田上長崎市長はかなり踏み込んだ平和宣言の言葉を述べた。安倍総理がいる目の前で、日本政府に訴えます、と題してかなり強い批判を込めた発言をしている。先般の核兵器禁止条約に反対した事に対しても、激しい憤りを示している。広島市長はこのあたりのことはかなり抑制して、緩やかな表現に止めていて非常に不満を覚えたが、長崎市長は根性が座っているといえる。たぶんここまで言っても安倍首相の心の中には1%も届かないだろう。所詮そういう奴だ。それでも世界から注目される平和宣言である。長崎市長はそのことをしっかりと認識しており、何者も恐れず堂々と平和宣言として主張したと言える。
 あまりにも衝撃的な事件だったので、大半の人は知っているかと思うが、長崎市長というのは過去に2度銃撃を受けている。1回目は右翼団体の男に銃撃された事件。1990年のことだ。銃弾は急所をはずれたので一命は取り留めたが、右翼のテロとして大きな社会問題となった。背景には市長による天皇の戦争責任に関する発言があったという。2回目は丁度10年前の2007年、時の伊藤市長が市長選挙の最中に、暴力団員に銃撃され死亡した事件。この犯人は当時の市政に不満があったとされているが、1回目の事件の犯人と知り合いでもあった。そういう点から右翼テロ的な側面は無かった、とは言えないのではないかと思ったりする。このように長崎市長は、普段からの市政の取り組みだけではなく、平和宣言等で政治的な内容にも触れざるを得ない実体から、右翼や国粋主義者たちからの標的になりやすい面がある。
 今日の市長の平和宣言の内容も、ある意味市長としては相応の覚悟の上で述べている面もあるかもしれない。逆に言えば、日本という国は今や、そういう身の危険を覚えながらでもやるべき事はやらざるを得ないと言う状況にある。ああいう事件を見ると、警察は一体何をしてるんや、と当然思わざるを得ない。日本の警察は優秀で犯人検挙率も高い、などと偉そうなことを言ってたのは既に昔の話で、今の警察は検挙率も下がり、場合によっては情実捜査さえ行うという、これも体たらくと言うべき有様だ。その典型はオウム真理教事件に見事なほど現れている。この件はこれ以上言わないが、まさに警察による意図的な情実捜査で、初期対応が決定的に誤っていたことが、多くの犠牲者を出すことにつながっていった。今や警察官個人の刑事事件も多発している。組織的な隠蔽体質も含めて問題だらけなんだろう。そんな中、長崎市長の発言は賞賛されても良いものだ。
 日本という国が全体的に小泉政権以降、格差社会を大きく拡大させ、勝ち組負け組という言葉を流行らせ、安倍首相に至っては戦前の国体制度に日本を引き戻すような政治姿勢で、数の力で自民党の子分に成り下がっている公明党と一緒になって、この日本を一気にもの言えぬ恐怖政治の入り口の状況にまで持ってきた。この先本当に大事なことが覆い隠され、学校現場でも授業のなかで、反日的なことは口にもできないような実態が現に作られつつある。こんな状況に対して声を挙げる人達は、残念ながら少数派となってしまった。人々は低俗なバカ番組を垂れ流すテレビを見て、何も考えずただあははと笑ってその日を暮らしてるだけのアホさ丸出しの連中が多数派。
 じゃあお前はどうなんや、と言われると、ちょっとだけはまともな事考えてるつもりやけど、確かにそんな大したことはないかもしれへん。こういうブログでちょこっとだけでも叫ぶことで、ごくごくわずかな声が届くかなと思ってるくらいのもん。まぁしかしごくごくわずかな声でも、出さないよりは出した方が間違いなく良いとは思っている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 京都府城陽市 市辺天満神社... | トップ | 取手市の中学生 いじめ自殺事... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

社会」カテゴリの最新記事