切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

若宮八幡宮 京都市山科区・・・圧倒的な歴史?

2020-02-10 23:29:24 | 撮影


『若宮八幡宮
 当宮は天智天皇が山科野に御巡幸の天智8年(669)の折、音羽の杜に八幡神を勧請されたのにはじまると伝えられている。
 当初の御祭神は仁徳天皇、応神天皇、神功皇后の三神であったが、後に摂社の二神(天武天皇、須佐之男命)を加え、五座となった。旧記は紛失し現存しないが、後小松天皇の応永年中(1394~1427)8月に社殿が再建され、明治6年(1873)8月に村社に列せられた。そして平成2年(1990)に社殿を数メートル後退させ、その跡に幣殿を設けたのである。
 境内には廃仏毀釈で廃された観音堂が再建され、十一面千手観音と、脇侍として不動明王、毘沙門天が祀られている、また、供養塔としての二基の宝筐印塔がある、一基は天武天皇の御子の大津皇子、他はその御子粟津王であり、現在も、氏子の中に粟津姓を名乗る氏人が多く存在する。 
    京 都 市』   (駒札より)

『沿革
 当社の創建は、天智天皇(六六二年~六七一年) が志賀都より、山科郷へ御巡幸の砌、この音羽の里に八幡神を御勧請に なったのにはじまると伝えられる。
 当初は、仁徳天皇、応神天皇、神功皇后の三柱をお祀り申し上げ、末社を出雲社と称しここに素戔嗚尊を御勧請申し上げていたが後、出雲社を廃し、末社に配祀申し上げた。その後、音羽里に粟津氏が居住するに至り、その祖に当る天武天皇を合祀するようになった。そもそもこの山科の地は山城盆地と非常に似通った地で、共に盆地の中心を 川が流れ、南に向って開けた所である。山科の東北部に位置する芝町 (京都市山科区小山神無森町から同音羽平林町にかけて)には、 弥生後期 (三世紀)の芝町遺跡が発掘されている。この芝町に当社の御旅所が設けられている。しかも、その御旅所の祭祀が、古代信仰の原初的形態ともいえる磐境を中心としたものであるのも何か意味深いものを感じる。そして山科の地が本格的に開けて来るのが、六世紀以降であり、この時期が天智天皇の近江遷郡の頃と重なるのである。当社の創建がこれらの時代と期を一にするのも当然かも知れない。当社は往古から年々五斗の神供米を朝廷より受けていたが、明治三年より廃止となった。
 御本殿の造営は、堀川天皇寛治元年(一〇八七年)、後小松天皇応永年中(一二九四年~一四一三年)後西院天皇寛文七年(一六六七年) 桃園天皇宝暦二年(一七五二年)、明治十五年(一八八二年)そして昭和になって三度行なわれたことが記録されている。

御祭神
 仁徳天皇 応神天皇 神功皇后 素戔嗚尊 天武天皇』
   (パンフレットより)


 山科区の音羽にある若宮八幡宮
 すぐ向かい側が音羽小学校で、児童たちの賑やかな声が聞こえてくる。この若宮八幡宮についてはひょっとして、以前にこのブログでも取り上げているかもしれないが、自分でも見つけられなかったので再訪したということでブログにアップしておく。
 創建の時期は不明とされるが、おそらく西暦600年代の初期である飛鳥時代と考えられている。であれば1400年という長い歴史を持つ由緒ある神社だ。沿革については上記の駒札や神社が発行しているパンフレットに記されているものを掲載しておいた。

 祭神については上記の通りだが、ほとんどが記紀に登場する神話上の人物ということになる。あるいは実在したかもしれない人物も含まれているが、そのあたり確信的なことは言えない。かろうじて天武天皇あたりについては、ほぼ実在したのではないかと言われている。
 八幡宮を名乗る神社であるということで、その神は八幡神ということになる。この八幡神そのものは、記紀には全く登場していない。さまざまな古文書の内容から、八幡神は応神天皇ではないかというのが定説になっている。もちろん応神天皇の実在性についてはかなり疑問であり、やはり神話上の人物の域を出ないと考えられる。西暦に直して500年代の人物だ。
 そして後の文献に、神仏習合の元になる、日本は八幡大菩薩と 天照大御神によるものとする、といったような記述があり、かなり早い段階で寺の鎮守社として八幡宮が建てられていたようだ。あるいは神社が独自に創建された場合には、神宮寺と言う寺院が建てられ、ここにも朝廷に崇められたという八幡神が力を持ち、全国に広がっていくことになる。元々は八幡神は九州宇佐の地において祀られていたものだが、それが結果的に全国的な規模の信仰の対象となったようだ。

 後に平安時代になって神仏習合がいっそう勧められ、若宮八幡宮においても観音寺が創建される。そこに本尊として画像にもある千手観音菩薩像が祀られることになった。これが当時のものとすれば重要文化財に指定されていてもおかしくないほどのものとなるはずだが、どうもそうはなっていないらしい。
  15世紀の応仁の乱によって神社は大いに荒廃し、廃れてしまうが、江戸初期に再建され、現在の本殿はその当時のものだ。そういった意味では本殿もかなりの歴史を持つ。
 境内全体は比較的広く、周囲を高い樹木に覆われており、この部分だけが鬱蒼とした森の中にあるような雰囲気だ。しかし境内の広さもあって日光はよく届く。
 今は一つの神社として存在しているものの、神話の時代から長い長い歴史を経て、未だに信仰の対象として祀られているということを考えると、日本人の信仰心と言えるのかどうかわからないが、ある意味人々の心の拠り所としての位置づけで今に至っているのではないかとも思える。

          
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