西方寺
京阪電車伏見桃山駅から、大手筋商店街を西の方へ歩いてアーケード街が終わる。さらにその先は進み北の方へ入ると西方寺がある。そのほぼ向かい側が三宝寺となる。
開門されていてこの日は誰でも自由に入れる状態であった。思いのほかかなり立派なお寺であり、境内にはシンボルとなるような巨木が大きくそびえ、全体的に緑も豊かだ。本堂などの建物もおそらく再建はされているであろうが、かなり大きくこの地にこれほどのお寺があるとは思いもしなかった。
駒札も何もなくこの場で情報は全くわからず、真宗大谷派のお寺ということだけの情報であった。その後色々と調べてかなり由緒のあるお寺であるということがわかった。
西方寺はもともとは鎌倉時代後期に創建された天台宗のお寺で、名前も久米寺といった。金札宮の境内にあり、元亨二年(1322)存覚による開基となる。後年、後光厳天皇から現在の名前をいただき、西方寺となった。南北朝の頃には後柏原天皇の勅願所であり、さらに 豊臣秀吉による伏見城建設でさらに移転。そして江戸時代現在地に移った。
これほどの由緒のあるお寺であれば、駒札があってもいいようなものだと思う。外見からはそこまでのものとは思えなかった。やはり京都のお寺というのは応仁の乱や天明の大火などで様々な災禍に遭い、再建されたり移転したりしたものが多く、 一部を除いては本堂などの建物などは比較的新しいように見える。やはり多くが 江戸時代に再建されて、今の状況になっているということだ。
三宝寺
京阪電車伏見桃山駅から、大手筋商店街を西の方へ歩いてアーケード街が終わる。さらにその先を進み北の道を入ると三宝寺がある。
浄土宗のお寺で創建等の詳細は不明。平門の状態であり門の柵越しに見るだけしかできなかった。中央に本堂へ至る石畳の道があり、その両サイドは豊かな緑に覆われている。横方向へ目を向けても大きな木の葉しか見えない。本堂も一部が見えるだけということで、これ以上は どうしようもなかった。
境内には 一部、紫陽花の花が咲いていて緑一色ではなく、よく手入れがされているのがわかる。ズームを利用するとその中に銅像が見えた。浄土宗のお寺ということで、法然もしくは親鸞聖人だろうか。横の姿しか見えなかったので判別はつかなかった。おそらく前者だと思われる。
京阪電車伏見桃山駅から、大手筋商店街を西の方へ歩いてアーケード街が終わる。さらにその先は進み北の方へ入ると西方寺がある。そのほぼ向かい側が三宝寺となる。
開門されていてこの日は誰でも自由に入れる状態であった。思いのほかかなり立派なお寺であり、境内にはシンボルとなるような巨木が大きくそびえ、全体的に緑も豊かだ。本堂などの建物もおそらく再建はされているであろうが、かなり大きくこの地にこれほどのお寺があるとは思いもしなかった。
駒札も何もなくこの場で情報は全くわからず、真宗大谷派のお寺ということだけの情報であった。その後色々と調べてかなり由緒のあるお寺であるということがわかった。
西方寺はもともとは鎌倉時代後期に創建された天台宗のお寺で、名前も久米寺といった。金札宮の境内にあり、元亨二年(1322)存覚による開基となる。後年、後光厳天皇から現在の名前をいただき、西方寺となった。南北朝の頃には後柏原天皇の勅願所であり、さらに 豊臣秀吉による伏見城建設でさらに移転。そして江戸時代現在地に移った。
これほどの由緒のあるお寺であれば、駒札があってもいいようなものだと思う。外見からはそこまでのものとは思えなかった。やはり京都のお寺というのは応仁の乱や天明の大火などで様々な災禍に遭い、再建されたり移転したりしたものが多く、 一部を除いては本堂などの建物などは比較的新しいように見える。やはり多くが 江戸時代に再建されて、今の状況になっているということだ。
三宝寺
京阪電車伏見桃山駅から、大手筋商店街を西の方へ歩いてアーケード街が終わる。さらにその先を進み北の道を入ると三宝寺がある。
浄土宗のお寺で創建等の詳細は不明。平門の状態であり門の柵越しに見るだけしかできなかった。中央に本堂へ至る石畳の道があり、その両サイドは豊かな緑に覆われている。横方向へ目を向けても大きな木の葉しか見えない。本堂も一部が見えるだけということで、これ以上は どうしようもなかった。
境内には 一部、紫陽花の花が咲いていて緑一色ではなく、よく手入れがされているのがわかる。ズームを利用するとその中に銅像が見えた。浄土宗のお寺ということで、法然もしくは親鸞聖人だろうか。横の姿しか見えなかったので判別はつかなかった。おそらく前者だと思われる。
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