切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府久世郡久御山町の神社 ④ 常磐神社~珠城神社

2019-05-18 23:31:26 | 撮影

常磐神社



『常盤神社
 常盤神社は、江戸時代牛頭天王社と称し、東西二十三間、南北八十間の広大な境内地の中に、八幡山橋本坊末寺の長福寺、地蔵院、蔵王権現社が建立され、神仏混交の神事が行われていた。
 やがて明治維新を迎え、神仏分離令により仏教色の一掃が義務付けられた。そのため牛頭天王は仏号であるという理由で野村神社と改め、境内の長福寺を廃し、地蔵院は拝所を西向きに変えて神社と分離した。
 さらに広大な境内地の大半は上地を命じられ、四百三十三坪が現在の境内となり、明治十四年三月、社名は常盤神社と改称して今日に至っている。
 常盤神社の祭礼は十月十六日の秋祭りに代表され、頭芋を台にした竹串に柿・栗・柚を刺した神撰が供えられる。また三月六日の蔵王社の春祭りは、鉢巻飯を本社・末社、地蔵堂にも供えるという古習が継承されている。
 近年、本殿・末社・舞殿・蔵王社・社務所の老朽化に伴って、平成五年十月から新・改築工事が行われた。特に本殿は精巧な彫刻を残すための工法が採用され、平成六年九月十八日に遷宮祭が執行された。
 平成七年三月
 久御山町郷土史会
 (境内説明板より)

   
 玉田神社に続いて南に約500m。常盤神社へ行く。
 すぐ近くを国道1号線が走っており、その脇道から入れるが小さな住宅密集地の中にあるものの、細い道が交錯しており思いの外分かりにくい。神社には森があるのでそれを目当てになんとか到着。
 境内は特に広くはないがよく整備されており、全体的にはごく普通の神社という印象だ。境内を進んで拝殿・本殿が現れる。かなり綺麗だ。上記の説明書きにある通り、十数年前に改修が行われ、色もきれいに塗り直された。そういった点では写真写りもなかなかいい。
 しかし常磐神社に関する情報はほとんど皆無といっていい。上記の境内説明書きの内容以上のものは何もない。したがって創建の時期やその後の変遷についてもよくわからない。説明書きにある通り、かつては牛頭天王社と称されていた。
 牛頭天王とは神仏習合の神であり、祇園精舎の守護神となる。かつては広大な境内を有しており、隆盛を極めていたんだろう。そこにいくつかの寺院が建立されたと言う。しかし、明治になって神仏分離令の発布により、境内も狭められた。もちろん神仏分離にあたり牛頭天王の名称は変更を余儀なくされることになる。今では地域の鎮守さんとして存続しているのだろうと思う。
       


珠城神社



『珠城神社(たまきじんじゃ)

祭神
 活目入彦五十狭芽命(いくめいりびこいさちのみこと)(垂仁天皇)
 和気清麻呂(わけのきよまろ)

 天正十三年(一五八五) の「市田玉城神社護法神社拜神宮寺巻」によれば、市田は垂仁天皇の宮城(珠城宮)のあった地で、天皇崩御の後その霊を山代大筒城真若王(やましろおおつつきまわかのみこ)(開化天皇王子日子坐王(ひこいますのみこ)の子)がこの地に祀ったのが当社のはじまりとし、珠城宮の所在したことにより、珠城神社と称したという。また延暦十八年(七九九)和気清麻呂の死去にあたり、藤原葛野麿が勅使となって護法神社として、珠城神社に並べて神殿を造った。
 その後、僧行賀が神宮寺を建て護王寺(本尊薬師仏)としたという。当社ならびに護王寺は治承四年(一一八〇)兵火により焼失したが、文治元年(一一八五)源頼朝によって再建された。しかし、天正元年(一五七三)、槙島の戦いで再び焼失したという。江戸時代には珠城神社の祭神は雙栗神社に預けられていたようで、市田村は享保四年(一七一九)神輿を造営し神事に参画した記録が残っている。明治十二年(一八七九)正式に合祀され同十六年の「久世郡神社明細帳」
では雙栗神社の祭神にその名がみえる。昭和四十二年(一九六七)十月、当社が再建され遷座した。
 平成二十八年九月
 久御山町郷土史会
 (境内駒札より)

    
 常磐神社の次は最後、珠城神社へ行く。
 常磐神社から東の方へ国道1号と第二京阪国道を越えて、市田という地域にある。由緒については上記の駒札の説明の通りであり、様々な資料やネットで調べてもほぼ上記のものと同じような情報となる。
 祭神は垂仁天皇和気清麻呂の2柱。
 垂仁天皇は日本書紀や古事記に登場する天皇で、仮に実在したとすれば古墳時代よりも前、即ち弥生時代末期になってしまう。また同書によれば140歳で亡くなったということになっている。いずれにしろ非現実的で、権力者によって都合よく書かれた、神話の物語に過ぎないと考える他ない。しかし、人々にとってみれば、昔の奈良時代にしろ、平安時代にしろ、当時は初めて書かれた日本の歴史の物語ということで、そこに書かれたものが天皇の系統を中心にした、歴史的な事実としか捉えようがなかったはずだ。
 この垂仁天皇が宮廷を建てたのが、今の奈良県桜井市にあった纒向珠城宮であり、天皇が亡くなり、その霊を祀るためにこの久御山の地に社が建立されたとのことだ。まぁこれもどこまで事実を反映してるかどうかは分からないが、神社の記録によればそのような話になるらしい。

 また和気清麻呂については平安遷都に尽力した人物であり、亡くなった後ここに祀られることになった。そういった意味ではかなり重要な地位にあった神社ということになる。
 当時はこの辺りは巨大な巨椋池があって、なぜ垂仁天皇や和気清麻呂がこのような場所に祀られることになったのかはどうにもよくわからない。しかしあくまでも神社側の記録としては、珠城宮というのは久御山町のこの地に存在したという前提で書かれている。発掘調査などで珠城宮の遺跡が出てきたというような話は全くない。
 上記のように桜井市の纒向珠城宮が垂仁天皇の居住したところだというのが定説になっているということだ。どちらにしろ垂仁天皇の存在自体が大いに疑わしいので、珠城宮が桜井市にあったのか、久御山町にあったのかはほとんど意味をなさない論議のような気がする。
 一応珠城神社の場所の地名は、「珠城」であり、そのすぐ北側に「和気」という地名が今も存続している。それを見るとこの神社の祭神が、この周辺の人々に大きな存在として認識されていたんではないかと考えられる。今と違って信仰心の厚い昔の人々は、その偉大な人物に関わる名前をこの地に残したんだろうと思う。
    
 神話の世界であるならば、あくまでも神話と言う作り話としてしっかり認識しておかなければならない。一方で古事記や日本書紀というものが、当時の権力者の指示によって書かれたものであるということを考えると、天皇の系統を乱すことなく、しかも日本という国を作った英雄として、庶民に思わせる必要があると言う、当時の政治的な意図もあるものと思う。
 あくまでも作り話の物語として読んでみると、太鼓の歴史的ロマンが感じられるのかもしれないが、そんな風にとらえるべきではない。垂仁天皇は古事記などの記録をそのまま逆に辿っていけば、弥生時代の終わり頃の人物となる。しかも140歳まで生きたなんて、今現在ですらそんな長寿の記録はない。今時こんなことを言ってても、そんなことはわかりきってる、と言われるだろうが、それとは逆行するような主張をする学者や政治家がいるのも、一方の事実だ。そのことをしっかり意識して、このような神話に関する話に対処する必要があると改めて思う。


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