③ 謎の寺・・・神雄寺
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神雄寺は西暦2007年に、周辺の大規模住宅開発の事前調査によって発見された。奈良時代(天平時代)の創建で恭仁京の造営とほぼ同じ時期に当たる。寺の名前は発掘された様々な瓦や土器に、あるいは木管などに漢字で記されており判明している。ただし読み方は様々な説があり分かっていない。時代的には恭仁京が造営されるのとほぼ同時期だと考えられている。場所は京都府の最南端にある木津川市と、隣接する奈良市のほぼ中間。恭仁京の右京の南端の位置に当てはまるような場所でなる。
このお寺は当時、及び後世の古文献にも全く登場することなく、未知の寺であることが分かっている。おそらく創建以降かなり早い時期に廃寺となり、歴史上から知られずに消え去ったものと思われる。しかし発掘された様々な遺構・遺物は膨大な数に上り、中でも灯明皿が大量に見つかっており何らかの儀式を行ったことは確実だとみられる。それが当時の 聖武天皇の病気平癒を願ったものか何か、そういったものである可能性がある。あるいは また割れた瓦などにも「神寺」と言った漢字が見られ、その名前から当時すでに神仏習合の動きが進んでおり、近くの神社との関係も考えられる。今に残る大きな神社としては、すぐ近くに岡田国神社がある。しかしその辺の関係は確たる証拠はないので未定ということになる。
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また発掘された木管には様々な漢字が、万葉仮名で書かれており、その中に「阿支波支乃之多波毛美智」と書かれた歌木管があり、これは万葉集の歌の一つだと考えられている。その木管の裏側には「 越中守」 と書かれていてこれは万葉集編纂の人物の一人、大伴家持ではないかと考えられている。彼自身がその役職にあったのが理由だ。また発見された土器などに「黄葉」とあって、この地において有力者であった、また聖武天皇との関係も深かった橘諸兄との関連が指摘されている。お寺全体の形式などを見ても、一般の寺院とは違って何らかの儀式などを執り行うようなお寺ではなかったかと考えられているようだ。いずれにしろ当時の儀式のあり方などがかなりよくわかる発掘品が多く、歴史上かなり貴重な発見だと言われている。
そのことからこの地域全体が国の史跡に指定されており、発掘された数千点の瓦や文字瓦、木管その他多くのものが昨年 2023年に、文化庁に対して国の重要文化財に指定するよう 答申がなされた。おそらく本年度中には指定されるものと見られる。
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なぜこのお寺が古文書に一切記載がないのかは分かっていない。後日どこかで新たな発見があって、このお寺の名前が見つかる可能性もなきにしもあらずだ。しかし言えることは、 聖武天皇による恭仁京建設の同時期に祭祀用の寺も創建され、恭仁京がわずか数年後には廃棄されるとともに、このお寺も不要となり廃寺となったのではないかと言うことだ。発掘品の中には炭化した木材も大量に見つかっており、お寺が炎上したことが分かっている。そういったこともあって恭仁京の廃棄と同時に、このお寺も廃寺となったのではないかと言えるだろう。 ただし、かなり小さめの多重塔があったが、これは10世紀頃まではあったものだと考えられている。
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今現在は寺跡の一部は住宅地になっており、発掘された部分は外側からは全く見えない。史跡に指定されているので周囲を金網で囲まれており、内部に入ることもできない状態で、唯一 空から見るだけの状態になっている。
今回、発掘品のごく一部を直接見ることができたが、極めて興味深くますますその実態を知りたくなった。重要文化財に指定されるとその保管について、もおそらくここの郷土資料館ではなく、セキュリティ上からも奈良の国立博物館などに寄託される可能性が高い。そういった点では簡単に拝見できなくなることも考えられるので、今のうちに郷土資料館で見ておいた方が良いと思われる。
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神雄寺は西暦2007年に、周辺の大規模住宅開発の事前調査によって発見された。奈良時代(天平時代)の創建で恭仁京の造営とほぼ同じ時期に当たる。寺の名前は発掘された様々な瓦や土器に、あるいは木管などに漢字で記されており判明している。ただし読み方は様々な説があり分かっていない。時代的には恭仁京が造営されるのとほぼ同時期だと考えられている。場所は京都府の最南端にある木津川市と、隣接する奈良市のほぼ中間。恭仁京の右京の南端の位置に当てはまるような場所でなる。
このお寺は当時、及び後世の古文献にも全く登場することなく、未知の寺であることが分かっている。おそらく創建以降かなり早い時期に廃寺となり、歴史上から知られずに消え去ったものと思われる。しかし発掘された様々な遺構・遺物は膨大な数に上り、中でも灯明皿が大量に見つかっており何らかの儀式を行ったことは確実だとみられる。それが当時の 聖武天皇の病気平癒を願ったものか何か、そういったものである可能性がある。あるいは また割れた瓦などにも「神寺」と言った漢字が見られ、その名前から当時すでに神仏習合の動きが進んでおり、近くの神社との関係も考えられる。今に残る大きな神社としては、すぐ近くに岡田国神社がある。しかしその辺の関係は確たる証拠はないので未定ということになる。
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また発掘された木管には様々な漢字が、万葉仮名で書かれており、その中に「阿支波支乃之多波毛美智」と書かれた歌木管があり、これは万葉集の歌の一つだと考えられている。その木管の裏側には「 越中守」 と書かれていてこれは万葉集編纂の人物の一人、大伴家持ではないかと考えられている。彼自身がその役職にあったのが理由だ。また発見された土器などに「黄葉」とあって、この地において有力者であった、また聖武天皇との関係も深かった橘諸兄との関連が指摘されている。お寺全体の形式などを見ても、一般の寺院とは違って何らかの儀式などを執り行うようなお寺ではなかったかと考えられているようだ。いずれにしろ当時の儀式のあり方などがかなりよくわかる発掘品が多く、歴史上かなり貴重な発見だと言われている。
そのことからこの地域全体が国の史跡に指定されており、発掘された数千点の瓦や文字瓦、木管その他多くのものが昨年 2023年に、文化庁に対して国の重要文化財に指定するよう 答申がなされた。おそらく本年度中には指定されるものと見られる。
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なぜこのお寺が古文書に一切記載がないのかは分かっていない。後日どこかで新たな発見があって、このお寺の名前が見つかる可能性もなきにしもあらずだ。しかし言えることは、 聖武天皇による恭仁京建設の同時期に祭祀用の寺も創建され、恭仁京がわずか数年後には廃棄されるとともに、このお寺も不要となり廃寺となったのではないかと言うことだ。発掘品の中には炭化した木材も大量に見つかっており、お寺が炎上したことが分かっている。そういったこともあって恭仁京の廃棄と同時に、このお寺も廃寺となったのではないかと言えるだろう。 ただし、かなり小さめの多重塔があったが、これは10世紀頃まではあったものだと考えられている。
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今現在は寺跡の一部は住宅地になっており、発掘された部分は外側からは全く見えない。史跡に指定されているので周囲を金網で囲まれており、内部に入ることもできない状態で、唯一 空から見るだけの状態になっている。
今回、発掘品のごく一部を直接見ることができたが、極めて興味深くますますその実態を知りたくなった。重要文化財に指定されるとその保管について、もおそらくここの郷土資料館ではなく、セキュリティ上からも奈良の国立博物館などに寄託される可能性が高い。そういった点では簡単に拝見できなくなることも考えられるので、今のうちに郷土資料館で見ておいた方が良いと思われる。
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