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京都府立山城郷土資料館は木津川市にある。以前にも訪れているが、今回表題の展示会が催されたので訪れた。「恭仁宮と神雄寺」 ここでは2回にわたって公開展示の様子を紹介していく。
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① 古代における遷都と恭仁宮
古代の日本においてヤマト王権が成立した後に、大王が居住し政治を行う「宮」が造営されることになる。特に平城京と平安京については歴史的にも大きな役割を果たし、小中学校の歴史の勉強でも必ず 学ぶところだ。これらについては文献資料も含め実際に発掘された 遺構も多くあり、都市構造も含めて様々なことが判明している。しかしこの当時の都については他にも様々な場所に造営され、実際のところかなり多くの都が遷都につぐ遷都で、小さな宮殿のようなものも含めれば、全部で20以上の都が造営された。無論平城京や平安京は単なる宮殿ではなく、当時としては巨大な首都と言える「都市」であり、それだけに中国からもたらされた情報をもとに、造営された首都として歴史的にも大きな意味合いを持っている。
学校で学ぶ歴史の勉強の中では一部、教科書にはこれ以外に藤原京や長岡京などといったものが紹介されている場合もある。そしてそれらの中に「恭仁京」も紹介されていることがある。ではその恭仁京とは一体どのような都であったのか。今回の資料館での公開展示はまさにそのところが、長い年月による発掘調査の成果として紹介されていたものだ。
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古代日本では5世紀頃に中国・朝鮮半島を経て大陸の文化が導入され、特に遣隋使や遣唐使たちによって多くのものがもたらされた。漢字、仏教、長安という大都市の形式などなど、日本に与えた影響は極めて大きい。聖徳太子はこれらを積極的に取り入れ、文字については貴族など上流階級に瞬く間に広まり、一部庶民にも広がっていく。仏教も全国に広めるよう指示が出され、 6世紀から7世紀にかけて各地に仏教寺院が建立され仏像が作られても行く。そして同時に都の形式が日本にも必要だということで、その時々の天皇の勅命により 造営されていくことになる。最初の都は推古天皇による豊浦宮(現奈良県飛鳥村)と言われる。これらはこの後に続く数々の宮と言われる首都というよりは、天皇が居住する宮殿のようなもので、その周辺に天皇を支える 一部の人々(貴族等)が居住し、この宮殿において 儀式等が 行われていたという程度のものだ。このようなものが 7世紀の終わり頃まで 各地に次々に宮とされ、建設が続いた。
そして初めて本格的な「都市」の形態を持った首都が建設されることになるのが、天武天皇による藤原京の建設だ。これは西暦694年に完成した日本初の「条坊制」の都市だ。条坊 制というのは今現在の京都市に代表される、都市全体の形態が碁盤の目条の縦の道・横の道の組み合わせで計画的に建設された都市を言う。これ以降710年の平城京、そして 794年の平安京も同様の形態で造営されることになる。
この藤原京の完成は天皇の力を内外に示し、さらに律令国家の成立を確固たるものにするという目的があった。この後 701年には大宝律令が発せられる。なお天武天皇はこの時に「日本書紀」「 古事記」の編纂を命じている。ただし完成はかなり後になる。しかし 天武天皇は都の完成を待たずに死去。その後持統天皇、そしてさらに文武天皇が引き継ぐことになる。しかしこの藤原京もわずか16年で限界がやってくる。その具体的な事情については不明なことも多いが、 おそらく地理的な制約が大きかったのではないかと言われている。あるいはまた中国の都を模して建造したものの、日本の奈良盆地の状況とは合わない面もあったのではないかと考えられている。こうして天皇や貴族たちの中には遷都の新たな動きが出てきた。
こうしてついに藤原京は見捨てられ新たに「平城京」の建設が開始されることになる。当時の元明天皇により西暦710年、遷都となる。この後古事記・日本書紀が完成する。そして 新たに聖武天皇が即位し、大和周辺を中心とした最高権力者になる。こうしていわゆる「奈良時代」という時代が始まる。無論当時はこのような呼び方はなく、後世の歴史家たちが時代区分上つけた名称ということだ。
この聖武天皇の元で藤原氏が大きな力をつけることになる。これが後々に平安時代の大きな権力者として、中央集権国家による支配の大元締めとなっていくことになる。
平城京の政治が軌道に乗り始めた頃、藤原広嗣の乱が起こり、その後聖武天皇は平城京を出て、東部地方への 行幸を行う。ところが 彼は平城京へは戻らずに、恭仁宮( 現在の京都府木津川市加茂町)に入ることになる。これが天平12年、西暦740年のことだ。そしてこの地に恭仁京が造営される。面積は平城京に比べてかなり小さいものの、大極殿は平城京から移築され、その他天皇の姻戚関係者や上級貴族たちが 新たな土地に集められた。恭仁京の規模から言うと、全ての貴族を移すことはできずに事実上の政治運営は、平城京にて行われることになる。したがって恭仁京においては聖武天皇が様々な指示を出して政治の中心としての役割を果たすことになるが、わずか数年後、彼はこの恭仁京を放棄して新たに難波宮に首都を移すことになる。これが天平16年、西暦744年のことだ。
ということは恭仁京はわずか4年間しか存続しなかったということになる。難波宮へ移った聖武天皇はその後わずか1年で再度、平城宮に戻ることとなった。
結局、聖武天皇が遷都を繰り返した背景には一体何があったのか。確たる証拠のようなものはないが、いくつかの説はあるようだ。 1つは平城京において藤原氏の勢力が強大化してきたこと。それを避けるために貴族の分散化を図って恭仁京へ移ったというのが考えられる。もう1点は唐の国における三都制を真似たのではないかとをいう説だ。中国大陸は極めて広大であり、一権力者が国全体を支配するためには、いくら中央集権制を取ったといえども、その力を1箇所の首都で担当するには無理があり、 3箇所の首都をおいて分散統治しようとしたのではないかという考え方も出されている。また恭仁京の置かれた場所については、以前より聖武天皇と信頼関係にあった橘諸兄の影響力の強い土地であったということが確実視されている。ただいずれにしろ恭仁京の設けられた土地は木津川を挟んでおり、決して広くはない。そういった意味では首都として権力を集中させ、人々を支配する上では無理があった面もあるのではないかと言える。
さらに加えて財政上の負担が大きく、聖武天皇自身が近江国の紫香楽宮の造営も勅命として出していたようだ。そういった点からは様々な要因があったとはいえ、かなり無理をした結果いずれも中途半端な形で終えることになる。特に恭仁京については比較的規模はあったものの、造営途中で放棄されることになり、随分無駄が生じたことは事実だ。
紫香楽宮造営の勅命を出したにもかかわらず聖武天皇は、恭仁京に続いて難波宮へ遷都する。実は難波宮はかつて仁徳天皇や応神天皇が暮らし権力を発揮したところでもあり、難波宮としての跡が残っていたところだ。従って新たにそこを利用して遷都したということで、 比較的経費もかからずに政治を行うことができるようになった。しかしこれも一時的なもので先に勅命として近江の紫香楽宮を造営していた。宮殿ができるとそちらへ移り、有名な大仏建立の詔もこの地から出されている。そして最終的には元の平城京へ戻ることになる。
この間律令制度の強化だけではなく、墾田永年私財法や班田収授法など重要な施策が実施されるようになり、中央集権体制は次第にその基礎を固めていく。それとともに藤原氏との軋轢やまた内部権力争いも活発になっていく。そんな中で最終的に延暦3年、西暦784年桓武天皇は70年以上続いた 平城京を廃棄し、新たに 現在の京都府乙訓軍長岡の地に「長岡京」造営を決意。しかしこれまた10年で廃棄し、そのすぐ近くに「平安京」を造営するに至る。
このようにして古代においては 20回以上にも及ぶ遷都が繰り返され、最終的に平安の都に落ち着くという形になったのだ。延暦13年、西暦794年桓武天皇の勅命による。
以上が古代における都の遷都が繰り返された大まかな流れであり、その中に「恭仁京」もわずか4年という短さではあったものの、相応に都市基盤を整えた首都が建設され実際に政治が行われたのだ。しかし放棄された後は大極殿を含む建物は破壊され廃棄されてしまった。今現在は建物の基礎となった大きな礎石がいくつも残されているのみだ。と同時に国分寺が各地に建立され、ここには山城国分寺が創建されることになった。その国分寺も今現在では存在せず廃寺となり、やはり礎石だけの遺構が残されているのみとなる。なおこの辺り一帯は国の史跡として指定されており、約1300年前の礎石を直接見ることも触ることもできる状態である。
② 恭仁京
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聖武天皇は、平城京において藤原氏の勢力が強くなり次第に反目するようになる。そんな時に東国への行幸に出てその後、平城京へは戻らずに恭仁京へ入ることになった。恭仁京がある現京都府木津川市付近は、やはり藤原氏と対立関係にあった橘諸兄の勢力範囲であり、ともに藤原氏との対立関係がある。聖武天皇は彼を頼りにして恭仁京へ入った。
恭仁京そのものは聖武天皇の勅命により急ピッチで建設が急がれた。当初計画においては平城京と同様に大通りから大極殿へいたり、右京地区と左京地区に分かれて藤原氏を住まわせ、また様々な職人が住む地域を計画的に整備するものだった。しかし実際には恭仁京の建設を指示しながら同時に、近江国にもまた難波宮にも遷都することを考え、最終的には 難波宮へ移った。
恭仁京の規模は実際には、平城京の約1/3程度であり大通りの道幅も狭く、大極殿こそ立派なものが平城京から移築されたが、実際には右京と左京の居住地域は、地域的な制約もあって実現せず、従って縦横の通りが碁盤の目状に築かれることもなかったと言われている。こうして実際には大極殿などの天皇が政治をする建物を中心とした部分だけが完成しただけであり、全体像としての恭仁京は完成に至らず、ただ単に天皇の住まいとして 「京」というよりは、小さな「宮」といった程度のものであったのではないかと考えられる。
特に計画していた南北に長い敷地には木津川流域を持っており湿地帯も広がって、そこを固めながら都を作るというのにはかなり無理があったと言える。そういった意味では 藤原氏との対立関係の中で、仮に武力的な衝突が起こった場合にはとても歯が立たないような実態ではなかったかと言えるだろう。そこからも恭仁京と同時に近江京や 難波宮を同時に遷都先として考えていたのではないかと思われる。
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発掘作業については 1970年代から開始され、当時の大極殿があった場所からは建物の基礎を支える部分として礎石がいくつも見つかっている。その位置関係から大極殿の規模そのものはかなり大きなものであり、平城京から移築されたということも説得力がある。礎石にはその上に建物全体を支える巨木が建てられていたということになり、当時かなり良質な木材が使用されていたものだということが想像できる。無論その巨木が礎石からずれないように石の上部分には、くぼみや木材が引っかかるような工夫がなされているのが今もはっきりと分かる状態だ。
そして同時にこの地に山城国分寺が建立され、恭仁京の廃止とともに国分寺も廃寺となる。その国分寺跡も基礎となった石が残されていて、すぐ目の前に見ることも触れることもできる。このようにして恭仁京跡の礎石には、大極殿跡と山城国分寺跡の2箇所が隣り合っている状態になっている。この地域一帯は国の史跡として指定されており、綺麗に手入れがされ保存されている。約1300年前の基盤になった石を見るのも、また手で触ってみるのも良いだろうと思われる。
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