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橿原考古学博物館へ行くのは2度目だ。前回は古代出雲の発掘物が特別展示されるということで見に行った。今回は新聞やテレビなどでかなり大々的に報道されている、「富雄丸山古墳」から出土した現段階では東アジア地域で最大となる「蛇行剣」が、一通り汚れを落とした段階で特別展示されるということでチャンスとばかりに訪れる。
あえて平日に行ったのだが予想以上の人で、かなり混雑。やはり古代史ブームということもあるのかもしれないが、古代史においては新発見が相次いでおり、その度に発掘現場の公開や出土品の展示が行われる。その都度大勢の人たちが訪れ、現場は整理員が必要なほど混雑する。富雄丸山古墳の現場公開でも4000人以上が集まったという。その事前情報があったから平日にしたものの、予想以上の人が訪れており駐車場の車のナンバー 見ると、東海地方や四国地方からも来ている。この蛇行剣は展示が終わった後、保存処理が行われるという。その後成分分析や様々な科学的な調査が行われることになり、当分の間一般公開の機会はないだろう。そういうことから自分にとってみれば、この実物を見られるのは最後のチャンスかもしれないという思いもあって実物を見ることにした。
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博物館の前は列ができており、午前中は入るのに1時間待ち といった状態だったらしい。私が訪れたのは昼過ぎ だったので少しましだったが、それでも展示室の混雑を避けるために列に並んで、十数名単位で区切られその団体でまとまって見て回るという方法だった。いきなり実物を目にするのではなく、富雄丸山古墳の説明から発掘作業の様子、木棺の発見、そして蛇行剣の発見という手順が写真付きで解説文が掲げられている。実際には止まらずに進んでくださいということで、写真見るのが精一杯。説明文を読んでる暇など全くない。こうして少しずつ実物に接近していく。やはりその部分は少し団子状態になっている。
入場してから30分くらい。ようやく「蛇行券」の前にやってきた。写真撮影は可能なので見え始めたところから撮り始める。しかしここでも止まらずに前へ、という係員の声かけでじっくり写真を撮ってる暇などない。少しずつ動きながら撮っていくという状態だ。
実物は確かに 2m 30cm 以上の長いもので、完全に土や汚れが落とされているわけではないので、全体的に錆びた状態に見える。剣の太さは思ったほどはなく、意外と細い。しかし ゆっくりと蛇行しているのがわかる。これが約1700年の時を経て我々の目の前に現れたのだから、やはり相当な感慨深いものがある。鞘の部分もよくわかるし取っ手の部分もわかる。やや赤っぽい色があるがこれは塗装に水銀が使われた後ということのようだ。やはり テレビの画面や新聞の写真で見るのとは大違い。ガラスで仕切られているとはいえ数十センチ目の前で本物を見られるというのは何という幸運なことか。たまたま隣の京都府南部に住んでいたおかげで、前回は近鉄の急行で1時間半で来られたが、今回は車で片道ちょうど2時間。やはり ラッキーとしか言いようがない。
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こうして実物の前にいて見られたのは、おそらく1分あまりだっただろう。もう少し時間が欲しいところだが、これだけの人がやってきており、私の後にも長蛇の列が続いているような状況では致し方ないところだ。パンフレットを頂きそこに レントゲンの写真も含め 実物の綺麗な写真も掲載されていて、それはそれで良かったと言える。実物をしっかりと目に焼き付けてまた車で2時間かけて帰った。
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富雄丸山古墳は円憤であり、現在のところ日本最大の規模を誇る。円憤は日本各地に見られるが、小さいものは直径 10m 程度。多くのものが30~40m と言ったものだ。 60m 級になると大型の円憤と判断される。しかしこちらは 直径100m を超える。このような古墳が造営されたのは概ね3世紀から7世紀あたりにかけてとされている。その中でも円憤はこれらのいわゆる「古墳時代」を通して日本各地で多数作られた。富雄丸山古墳については調査から4世紀後半あたりではないかとされている。古代史で言う「謎の4世紀」時代だ。しかしこれもこのような新たな発見により、次第に4世紀の実態が少しずつ判明していくことになるんだろう。富雄丸山古墳ではかなり古くに発見され、埋葬品が発掘され京都国立博物館や天理大学などに保管されている。当初に発掘されたものはその多くが、国の重要文化財に指定されている。今回発見された最大の蛇行剣はおそらく「国宝」に指定されることになると思われる。
今回の一般公開においては展示されていなかったが、蛇行剣とともに発掘された「鼉龍文盾形銅鏡(だりゅうもんたてがたどうきょう)」は、これも過去に発掘例がなく、日本で初めて出てきたものであり、現在汚れを落とし保存処理中で一般公開はいつになるのか全く分かっていない。このように日本で初めて見つかったということも驚くべきことであり、古代史解明に大きな期待が寄せられる。ちなみに蛇行剣については小型のもの、つまり長さが50cm や 60cm あるいは1m 弱というものは、数は少ないものの各地で発見されている。私もその実物を見たことがある。
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日本最大の円墳から日本最大の東アジア最大の蛇行剣、そして例のない鼉龍文盾形銅鏡 の発見。こうなるとどういう人の 墓なのか、ということが焦点になってくる。円墳そのものは古墳時代を通じて造営されているが、途中から摂津の地等に巨大な前方後円墳なども造られ始める。もちろん奈良においても中型の、あるいは小型の前方後円墳が現れる。卑弥呼が大和地方にいたものとして、彼女が倭国を治めていたのが3世紀であるから、当時地方豪族が各地に乱立し、卑弥呼亡き後の大乱が起こり、再び女王の統治によって収まったという。これらが記録された「魏志倭人伝」の記録以降、倭国の様子は中国の文献に全く現れなくなる。しかしその間、大和地方においては有力な豪族が次々に現れ、その陵墓として古墳が次々に造られる。卑弥呼については、 3世紀に亡くなっているので、富雄丸山古墳は全く別人ということになる。卑弥呼の古墳として有力視されているのが、纏向古墳だ。ではこちらの富雄丸山古墳にはどのような人物が葬られたのか。
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当時の豪族は平安時代に編纂された各歴史書である「日本書紀」や「続日本紀」「日本三代実録」などのいわゆる「六国史」などに多数出てくる。その中で後に有力豪族から氏族になっていく葛城氏、大伴氏、蘇我氏と言ったあたりが考えられる。彼らがある程度有力な 勢力となり、地域を治めていたと考えると中には、その有力者の死を悼んで大きな円墳を造った。そして後年の大和朝廷の有力氏族の一員として、政権の中枢に出てきたのではないか、などと考えたりしたくもなってくる。
古代史そのものにも謎の部分がまだまだ多く、いわゆる「空白の4世紀」「謎の4世紀」 と呼ばれる時期だけではなく、国民誰もが興味のある「卑弥呼の墓」「 ヤマト王権」はどこにあったのか。近畿説、北九州説が未だに決着がつかないでいるという大きな謎に、ロマンを感じるのは誰しも同じではないかと思う。佐賀県吉野ヶ里遺跡の発見は卑弥呼の北九州説を有力視する根拠となったが、調査の結果、時期が全く合わないということで今では全く消えている。変わって纏向遺跡が最有力されて、今少しずつ発掘作業が進められているところだ。
今回の蛇行剣については大発見であるが、もともと蛇行剣そのものは武器ではなく、何らかの祭司に使用されたものではないかと考えられている。しかし今回の蛇行剣については まだ調査は始まったばかりだが、剣そのものに武器としての作り込みがあると言われており、単なる祭司のみに目的があったのではないかとも考えられている。とは言うものの、 2m 37cm のこのような刀を振り回すような戦いというのは非現実的であり、剣に殺傷能力があったとしてもやはり、祭司用と考えるのが妥当だろう。今回の発見はセンセーショナルではあるが、これそのものだけに焦点を合わせるだけでなく、他の発掘品、例えば三角縁神獣鏡と思われるものの存在、あるいは同時期に造営された他の古墳との関連も含めて、トータルな視線で分析していく必要があるのだろうと思う。
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もちろん私は全くの素人以外の何者でもないが、ほんのわずか古代史を勉強している身としては、夢が無限に広がるように思えて次の研究成果、あるいは新発見が待ち遠しくなってしまう。
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