切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《 能登半島沖大地震・・・過去の教訓は生かされたのか 》    2024.1.17

2024-01-17 16:57:50 | 日記
 

 連日報道されている能登半島沖大地震の実態と経過が、当初の発生当日の状況から予想をはるかに超える巨大なものであったことが明らかになっている。現時点で死者が232名、安否不明の方がまだ数十名おられるという。もちろんただ単に死者の数でどうのこうのというものではないが、怪我をされた方も多数に上り、家屋の倒壊やインフラの大規模な損傷によって2週間経ったが、未だに孤立状態に置かれている地区も多数ある。

 新年の1月1日に誰もが予想しなかった。まさしく大震災だった。もちろん自然の脅威というのは人間が定めた暦に関係なく起きる時には起きるのだ。そういった意味では元来世界有数の地震国である日本という国においては、1月1日であろうがどんな日であろうが無関係に、日常的な警戒心を持って生活することが求められる。



 しかもこの日本という国においては、北海道から九州・沖縄南西諸島に至るまで、どこで どう巨大地震が起こっても不思議ではない位置にある。3つの大きなプレートの複雑な位置関係の上に日本列島があり、そのプレートがそれぞれの動きをしている故に極めて地震が多い。少し過去の日本の大地震を調べてみると、日本人が文字というものを獲得して記録を残すことができるようになって以来、地震の記録は様々な古文献に多く記されている。例えば平安時代に編纂された「日本三大実録」には、平安時代初期のわずか30年間分の記録ではあるが、その短い間でも地震の記録が300件以上も記録されてるという。中には今で言う南海トラフ大地震の記録もある。また富士山の大噴火や大雨の大災害の様子も記されている。

 1000年以上前から記録にも残るほどの地震というのは、その後もずっと何らかの形で記録されている。日本三大実録はたまたま天皇による勅命であるために、きちんと整えられた形で記録されたものではあるが、それ以降も鎌倉・室町・戦国時代や江戸時代においても、何度も何度も様々な古文献に地震の記録が掲載されており、江戸時代 あたりになるとかなり正確な死者の数まで書かれている。

  そして近代現代においてもその実態は何ら変わらず、日本という国はずっと巨大地震に多くの被害者が生まれ、直接被害だけではなく津波などの複合被害という形で、人的被害 のみならず様々なインフラや住宅などなど、取り返しのつかないほどの被害を受けてきた。

 今回の能登半島沖大地震についてもその実態が明らかになるにつれ、後に政府が激甚災害指定をしたように、極めて憂慮すべき大地震であったことが分かってきたわけだ。最大震度7 というのは数年から十数年おきに必ずといってもいいほど、日本のどこかで起っている。 1月17日は言うまでもなく、1995年の「阪神淡路大震災」が起こった日だ。



 個人的な思いで言うと私が生まれて以来、直接恐怖心を覚えた初めての身近な大震災 だった。それまでは別の場所で大地震があっても京都府に住んでいる私自身は、直接揺れを感じたことはなかったが、阪神淡路大震災についてはそれこそ我が家が倒壊するのではないかと恐怖心を覚えたことを今でも鮮明に覚えている。結果的には家は倒れなかったものの屋根瓦が少しずれるということで、特にこれといった被害はなかったが、部屋は書棚から本や ビデオカセットテープが飛び散り、寝ていた布団が全く見えないほどの状態になっていた。 京都府での人的被害は1名の死者にとどまったが、この阪神淡路大震災においては神戸市から淡路島にかけての断層が大きく動き、直下型の地震ということで、6434名の尊い命が奪われることになってしまった。我が家でも5時半頃にテレビをつけて見ていると、大阪方面から望遠レンズで神戸市方面の様子が写されていた。ナレーションは全くなくただただ静かな画面で、彼方に煙らしいものが一筋二筋上がっているのが見えただけだった。
 この日は3学期が始まって間もなくだったので、当然勤務があり職場へ行くと当然同僚たちはこの話題で持ちきりだった。朝の学級会で必ず生徒たち及び家族の、あるいは家屋の健康チェック、被害チェックを必ずするようにとの打ち合わせがあった。幸い生徒たちの中からは特に被害の報告はなくてほっとしたものだった。授業を終えて職員室に戻るたびにテレビが実態を伝えていた。午前から昼、そして午後になるにつれてその実態は想像を絶する映像を流していた。夜に帰宅してニュースを見ても、この震災が近年稀に見るとんでもないものであるということが分かってきたのだ。津波こそなかったものの土地そのものが陥没隆起、そして高速道路などが横倒し、あるいはマンションやビルが同じく横倒しになったり鉄道の高架橋が崩落している。そして最も恐ろしいのが火事だった。人口約140万人の政令指定都市で起こった大震災というのは、大正時代の関東大震災以来だったと思われる。当然 人口が多いだけではなく、車などが多くそのために救急体制がなかなか機能しづらい状況にあったという。そして未曾有の近代都市の大地震ということで、行政の方も出勤できない状況があり、また何をどうしていいのかわからないような混乱状態となり、救援体制が十分に取られない状態が続く。従って災害救援で自衛隊の力を借りるという発想が遅れに遅れて後手に回ったのは、その後の大きな反省材料となった。

 

  2011年には 3.11東北大震災が発生する。東北地方の東方の沖合で発生したマグニチュード9にも達するという巨大地震で、これは津波が巨大な破壊力を持って東北地方太平洋湾岸を襲うこととなり、2万人余りの犠牲者を出すことになった。この震災は、津波というものに対する警戒心というものがいかに甘かったのかということが問われることとなった。同じ 東北地方では過去に地球の反対側のチリで起こった大震災の津波がわずか1日で日本を襲い 100 数十名の犠牲者を出すという過去の経験があったはずだ。しかし地理大地震の教訓というものは何も打ち出されていなかったのではないかと思われる。従って地域防災計画などにも津波に対する対策というものが不十分だったのではないかと思われた。なおこの東北の大震災では勤務校の校舎もわずかだが揺れていたことが同僚から聞かされた。私はたまたま出張で車の運転中だったので全くわからなかった。

 

 そして今回の能登半島沖大地震。私は転居したばかりで、新たなマンションに住み始めたばかりだったが、マンション全体がゆさゆさと揺れたのがはっきり感じられた。緊急速報では 京都のあたりは震度3 と出されていた。いかに地震のエネルギーは巨大なのかということが非常によくわかる。私自身の人生の中で少なくとも記憶に残る巨大地震に4回もあうことになるということは全く思いもしなかった。もう1件は 2016年の熊本大地震だ。熊本城が崩壊寸前にまでなり多くの犠牲者を出した。九州で起こった地震ということで、京都の方では特に揺れを感じることはなかったように思う。


 
◆ 教訓は生かされたのか

 阪神淡路大震災以降、地域防災計画の策定が各都道府県に義務化されたのではないかと思う。都道府県別に策定されたものに基づいて次に各市町村が防災計画を策定する。そしてこれらが各町内会などで共有化されることになって避難計画などが立てられる。
 さらにこれらは特に日本列島の各沿岸部においては、津波対策も含まれるようになり、また内陸部においては河川の氾濫を想定してハザードマップが具体的に作られるようになる。 どのくらいの津波、あるいは豪雨などによって浸水地域がどこまでどのように来るのかということが示され、町内会においてもこれを共有し閲覧し、各個人が対策を立てられるようにしようとしたものだ。
 少なくとも10年20年と経って、表面上は防災計画は整備されてきた。だがしかし、その防災計画にも様々な不備があると言われている。無論私は専門家でも何でもないので詳しいことはよくわからないが、例えば原子力発電所のある地域においては、東日本大震災において福島原子力発電所が大きな被害を受け、何とメルトダウンにまで至る絶望的な状況にまで陥った。発生から13年経ってもまだごくわずかしか復興策が進められておらず、これから40年50年かかると言われている。こういった危険な場所に対する防災というのは、一体どのようになっていたのか。いざことが起こって慌ててどうしようなどと言っている場合ではないのだ。でも現実はそんな風になってしまった。
 今回の能登半島沖地震についても、能登半島にある石川県志賀町の北陸電力志賀原子力発電所があるのだが、ほとんど報道はされていない。その理由は無傷だったからなのだろうか。初期の報道では 一部被害を被ったが、すぐに復旧と言ったような報道があったように思う。そしてその後ばったりと報道はされなくなってしまった。今回の大震災の中心地の一つでもある。ごくわずかに震源地がずれていただけで、倒壊せずに済んだのは不幸中の幸いだったのかもしれないが、実際には少し被害があったことにより、何らかの影響が出たようだ。政治経済評論家の古賀茂明氏がこの件について、石川県や志賀町の防災計画を調べたところ、原子力発電所の被害に対してどのような避難計画になっているのかを明らかにしている。その内容は、できるだけ早く乗用車を使って避難する、あるいはバスで避難するなど、と信じられないことが記されていたとのこと。道路が寸断され事実上車を使えないような状態になるということを全く考慮していないで、車で避難できるものと不都合なことが書かれていたわけだ。 全く役立たずの防災計画ということになってしまう。おそらく全国の地域防災計画でどのような 避難計画が立案されているかということを、改めて調べなければ単なる作文でしかないようなもので終わってしまう。

 ただそれでも津波に対してはとにかく高いところへ、あるいは避難タワーのようなものが建設されてそこに上がって逃れる、などの対策は各地で実施され始めている。でも実際仮に津波があろうがなかろうが、大震災が起こると地殻変動により、道路や鉄道あるいは平地でも亀裂が生じたり歪んだり、液状化現象等で崩壊したりして実質上、利用不能になるケースが多いことが分かっている。その場合どのような避難計画が必要なのか。そして緊急避難所をどのように設けておくのかということが問われる。そういった意味では避難所や避難後の生活についての必要品についての準備は少しずつ進んではいるようだ。
 しかし今回の能登半島沖大地震での避難者の生活の様子がニュースで報道されているのを見ると、 29年前の阪神大震災の時と似たような風景であり 13年前の東北大震災の時と同じような光景が流されている。そんな中で人々の生活の課題というのは以前からほとんど変わっていないように見えた。やはり災害弱者と言われるお年寄りや小さな子を抱えた人たち、あるいは障害者の人たちが厳しい思いをせざるを得ない状況に追いやられてしまう。そのような変わらない実態というのは、普段からの地域社会の狭い範囲内での人間関係のみならず、相互にどのように助け合うのかという理解を深めていく普段からの教育や経験が大事になってくるのではないかと思う。
 

 阪神淡路大震災からの大きな教訓として、いち早く災害派遣の自衛隊員が復興作業や救出活動に携わるというのは、かなり改善されてきたと言える。それはそれで一つの前身だと言えるだろう。しかし自衛隊員といえども一人一人の人間であり、肉体的な限界はある。そういった意味ではどうしても救出が極めて困難な事態が生じる。やはりまずは個々人がどのように行動し、待避するかということを心がけておかなければならない。

 阪神淡路大震災の時にも大勢のボランティアが力を発揮した。しかし阪神淡路に限らず、 このような巨大な災害を被った時に、ボランティアのあり方、あるいは何がどのように必要なのかということが、混乱の中でそのまま即役に立つのかどうかということが課題としてあげられていたように思う。ただそこへ行けば何とかなる、という問題ではない。従って今では現地が一定の段階まで体制が整うのを待って、ボランティアの必要性を判断し、必要ということになれば ボランティアの募集をするという形に変わってきている。従ってむやみやたらにとにかく助けに行くだけでは、返って混乱をもたらす可能性があるということでこの辺りは今回の震災を見ても、かなり整理されてきたのではないかと思えた。

・広域的な地域連携のシステムについて。
 個人のボランティアとは違って、各地域間において緊急事態の場合に相互に支援をし合う システムを「対口支援」という。これはもともと中国語で経済発展を目指す際に使われていた言葉であり、「たい」はペアという意味。そして「 口」は人々を意味する。特にこの言葉が大きくクローズアップされたのが、中国における四川省大地震の時だった。地震の規模があまりにも広範囲で巨大であったために、軍隊だけではなく行政的な支援を含めた相互の被災地の自治体と、あらかじめペアを組んでいた他の自治体とが助け合うために組織されたもので、いち早く被災地の自治体にペアを組んでいる自治体から職員などを派遣し、災害援助体制、復旧体制を築き上げるというものの言葉だ。
 これが日本においても正式にこの言葉で採用され、国により日本においても順次制度化されるという状況になっている。今回の能登半島沖大震災においては、いち早く三重県がペアを組んでいる能登半島の自治体に職員を送り、実務的な作業を援助するという形を取り、さらに続いて多くのペアを組んでいる都道府県の各自治体が職員を送り込んで、実務的な整理をして行政がスムーズに被害者の支援体制を組み上げるということをしている。報道ではこのことは NHK が取り上げただけで、他の民放各局は全く取り上げていないようだ。(多分)この方式はかなり有効性があることが専門家によって認められており、今後地震だけではなく様々な大きな災害に力を発揮するものと思われる。

 他にもまだまだ教訓 化すべき課題はたくさんあるだろうが、あくまでもここには私自身が個人的に大きく感じた部分だけを述べている。



 改めて、地震により犠牲になられた方々、被災された方々にお見舞い申し上げたいと思います。


   (画像はTVニュース等より)

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