切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《雨の1日、独居老人の生活は》

2020-10-08 23:11:00 | 日記

 台風接近の影響もあってか、昨夜からずっと雨。結局1日中雨となった。このような日は独居老人にとってみれば人と交流することももともとない状態なので、さらに孤独な1日を過ごすこととなる。もうすっかり慣れてしまったと言えば慣れてしまったのだが、やはり社会から隔絶された所へ行ってしまったのだ、と言う心理的な思いは強まることになる。

 起床。すぐに簡単な朝食を作る。とはいっても小さなパン2個と牛乳、ヨーグルト、ヤクルトそしてフライパンで焼いた目玉焼き。毎朝ずっと変わらない朝食メニュー。食道と胃の上部を切り取っているのでこれだけでそこそこ満腹に近い状態になる。雨が降っていなければ、すぐに着替えて万歩計入れてウォーキングに出る。しかし雨の日は休日にしている。手術前は雨が降ろうが雪が降ろうが風が強かろうが、必ずウォーキングはしていた。基本は5㎞。いろんな事情でショートコースになる場合は3㎞余り。でもこのところはずっと3㎞コースだ。

 雨の日は完全にやめてしまったので、朝食後は羽鳥慎一モーニングショーを横目で見ながら朝刊を読む。そんなに詳しく読むわけではないが見出しを見て、大事そうなものは必ず読んでいる。特に政治に関わる問題についてはほぼ必ず読む。社説は表題によって読むか読まないかを判断している。時々読者欄を読んでいると政府の政策に対する批判がよく採用されているが、投稿者を見てみると自分と同じような高齢者が意外と多いのに驚く。安倍政権を応援するような投稿は全く見た覚えがないし、新たな菅政権に対する期待の投稿も見たことがない。京都新聞は割と反骨心があるようだ。

 続いてパソコン開いてネットニュースをあちこち見ている。総合サイトなのであちこちの新聞や雑誌などからピックアップされた記事が載せられているので、読むものは結構たくさんある。でもあれもこれも全部読んでるとこれだけで午前中は終わってしまうので、一応世界と日本の政治に関わるようなニュースは極力読む。一応表題で判断をしているが新聞記事のピックアップでなく、経済専門誌や政治専門誌などからピックアップされた記事は結構読みがいがある。また新聞やテレビのニュース情報番組等では触れられないような、深掘りされた分析記事も結構あってなかなか面白い。今朝も菅新政権の発足にあたって、菅総理大臣の個人的な資質の問題を扱った記事があって、世間一般が思っているような「農家出身」「叩き上げの苦労人」といった表面的なことに惑わされてはいけない、かなりしたたかで強権的な人物であると言うことを、具体的な例を挙げて紹介していた。もちろん1つの記事だけで全て100%正しいと判断するわけにはいかないが、これは後日取り上げる予定にしている。「日本学術会議の問題」についても裏の話も含めて、解説されていたのはなるほどなと思わせるに十分だった。エンタメ関係はほとんど読まない。でもそうこうするうちにこれでも軽く1時間は経ってしまう。

 続いてYahoo!オークションのサイトを見て出品している品の状況を確認する。同様にメルカリのページを開いて確認する。こんなものはとても落札されないだろうなんて言うものも、何週間も出品していると不思議なことに入札してくる人がいるもんだ。自分自身はもはやこの先そんなに長くないので、今終活の1つとして使えるものはどんどんオークションに出して売っている状況だ。特に儲けたいとは思っていない。でもいざ出品する人間っていうのはどこかに変な未練みたいなものがあって、ついつい高めの値段をつけてしまうものだ。本当はもっと安くしてさっさとさばきたいところだが、買ったときのことを思い出すとどうしてもあまり安くつけられない。

 そしてこの間にβビデオテープのDVDへのダビング操作をしている。2時間の映画だと2時間のダビング時間がかかるので、セッティングするだけだ。だからその時間いろんなことができる。

 こうしているうちに昼になる。昼は必ず外食、といってもどこかレストランに入るわけでは無い。手術前は吉野家の牛丼とかココイチのカレーとか、かつやのとんかつとかサイゼリヤなどに入っていたが、今やとても食べられない。コンビニに入っておむすび一個とコーヒ1本。車の中に戻って食べる。これが昼食だ。こんな時ほど自分自身の惨めさを感じる事は無い。どこかレストランに入れば他の人たちもいるし、店員さんとの簡単な一言やりとりもある。でもコンビニで買って車で1人食べるとなると、ただただ無言なまま昼食を終える。朝からここまで発した言葉はせいぜいコンビニで、「クレジットカードで」「どうも」これだけだ。これが侘しくないなんて言えるわけがない。

 食べ終えると車の中で少しぼーっとしている。前を走る車の往来を見てどこ行くんだろうか、と意味のないことを考えたりしている。雨粒によってフロントガラスは見えにくくなってしまい、車の往来もぼやっとした感じでしか見えない。ようやくスタートボタンを押して出発。

 雨の日は特に行くところもないのでこのまま帰ってもいいわけだが、これではあんまりなので、何かこじつけて人が集まる大手スーパーに行く。車で10分も走れば何軒かのスーパーに行ける。イオンと言う巨大ショッピングセンターもある。でも行ったからといって楽しいと言うものでもない。むしろウィークデーの昼間と言うのは高齢者が多い。夫婦で来ている人たちはまだ良いだろう。私自身と同じようにたった1人で来ている老人が思いのほか多い。男性ならば自分と同じ独居老人なんだろうか、あるいは奥さんが寝たきりで介護しているんだろうか、などと勝手に想像してしまう。80歳位のおばあさんがたった1人で、歩くのもしんどそうにカートを押しながらゆっくり歩いて買い物しているのを見ると、切なくなってくる。夫は亡くなってやはり独居生活なんだろうか、と考えてしまう。しかもあちこち見ると、足を悪くしている人がこれも非常に多い。膝や股関節を痛めてるんだろう。歩きにくそうにしている人、カートにもたれかかっている人。超高齢化社会と言われる日本だ。別に人口20万弱の宇治市といえども老人で溢れかえっている。若者が元気よくあちこちに見られるのは今や首都圏ぐらいなもんだろう。食材買い出しの日ならば目的を持って買い物をするのだが、買うとさっさと帰ってしまう。買い物がなければ少しぶらぶらしたり、書店に入って立ち読みしたり、必要な本を探したりすることもある。大概は何も買わずに帰る。

 帰ってきたら3時位だ。すぐに出納帳をつける。そしてβビデオテープのダビング。パソコン開いて新たなニュース情報の確認。これはそんなに時間かからない。終われば学習時間。今は日本史の勉強を改めて行っている。何のためにそんなことをするのか、と問われても日本史の勉強をしたいからだとしか言えない。もともとは日本人の精神文化形成史の勉強をするつもりでいたが、今からではとても間に合わない。そこでその土台となる日本の歴史をもう一度勉強し直すことにしたと言うわけだ。学生時代は日本史の専攻ではなかったので、中学校で歴史の授業を担当するにあたってはかなり勉強して、指導案作って授業に臨まなければならなかった。だからその時には歴史というのがどんなに大切なものであるかと言う事は、頭ではわかっていても心底理解できていたかどうかは疑問だった。

 退職してから時間的な余裕ができると、社会で起こっている様々な問題に対して黙ってはいられない心境と言うものが出てくる。そういったことが自分自身のブログにおいて訴えていこうと言うきっかけになったのだと思う。同時に神社仏閣巡りをすることになって、これは半分趣味ではあるが、ブログで発表するからには対象の神社仏閣のことをある程度調べなければならない。そこからも日本の歴史にまつわる内容が深く関わってくるので、いやがおうにも歴史の勉強が必要となってくる。そういうわけで学習というか、勉強をしているわけだ。でも勉強といっても、ただ読むだけ。本当ならば大切なところをメモにしてチャート化して、自分なりにまとめながら感想や意見を列記する必要があるとは思うが、それはまたある程度勉強が進んだ段階での話にする。今のところは様々な観点から書かれている日本史を、まず読み通していくのが先決だと考えて読んでいるわけだ。歴史と言うのは様々な観点から様々な見方があって捉え方があって、結論の出し方がある。したがって著者によっては歴史的な事実を分析する際にかなり違ったものが出てくるケースはよくある。特に詳細な資料が残っている近現代史においては、そういったケースが非常に多く見られる。そしてそこに著者の思想性がそのまま反映されるケースが多い。極端な話、右翼の立場から書かれたもの、左翼の立場から書かれたものと言うように、物の見方は完全に違ってくる。日本の主張と韓国の主張と中国の主張がそれぞれ異なるように、日本国内においてもずいぶん異なるケースが多いのだ。自分の都合に合わせた主張だけを選んでいるだけでは済まない。右翼的な立場から書かれたものもやはり見てみる必要がある。まぁこういうことを言い出すとキリがないが、こうして学習することにある程度没頭していると、その世界にのめり込んで時を忘れ、自分自身が能動的な活動をしている実感が持てる。



 こうして夕方になって学習時間は終了。シェーバーでヒゲ剃って、夕飯の用意。これまた惨めな夕飯。ほとんどが出来合いのものを買ってきてそれを温めたり炒めたり電子レンジに入れたりしたものを、ただ1枚のお皿に並べるだけ。中身は玉ねぎやレタスなどの野菜と、しめじとえのきといったキノコを炒めたもの。そこにソーセージ1本。白菜のお浸しもの、惣菜。メインはご飯100グラム。または冷凍チャーハン少々。時々出来合いのスパゲティー、カップ麺。後はヤクルト、お茶。飲料を除いて後のものはお皿1枚に収まる。たったそれだけ。見れば見るほど情けないというか、惨めな夕飯。かつて手術する前に食べていたものに比べると、分量的には半分以下。時々これでも食べきれずに残すことも多い。この時だけテレビつけて大概NHK見てる。民放の番組はどのチャンネルも全部同じにしか見えない。見る価値全くなし。15分もすれば食べ終える。

 すぐに片付けて部屋に戻り、その日撮った写真をブルーレイディスクに保存。雨の日でもコンパクトデジタルカメラで行き先などを撮っている。いわば日記みたいなものだ。もちろん撮影目的で本格的に撮った日は、一眼カメラで撮るのでディスクに保存するのも時間がかかる。しかし雨の日はあっという間に終わる。続いて入浴。少しゆっくりめにして約30分。入浴終えて大体9時ごろだ。ここで初めて本格的にテレビをつける。

 NHKのニュース、報道ステーション、ニュース23。この間ニュースを見続けるのではなく、パソコンでいろいろ調べ物をしながらニュースを見ている、と言うよりは聞いている。そしてブログもこの時間帯に書いてしまう。ブログの関係もあって就寝は大体12時ごろになってしまう。

 雨の日はざっと以上のような感じだ。何も考えずぼーっとしてる時間があれば、庭でも眺めて体も脳みそも休養できて良いとは思うが、そんな立派な家ではない。雨が降ってなければ午後には2階からすぐ目の前に児童公園が見えて、小さな子たちがキャーキャー言いながら遊びまわっている様子が見られる。メガネかけてもはっきりとは見えないがその賑やかな声や遊んでる様子、交わしてる言葉などを聞いていると気持ちがほっこりする。この町内会にも独居老人はかなり多いが、こうした小さな子たちもそこそこいる。そういった意味では気持ちの上でちょっとした救いになる。

 しかしやはり雨となるとそうはいかない。児童公園も誰もいないし時々傘をさした大人が歩いてるのが見えるだけ。だからむしろ何かに集中していた方がかえって気が楽と言うことになる。

 最後寝る前にジュースをコップ1杯分飲む。そうしたときにはふとあれこれ考えてしまうこともある。やはり歳が歳だけに、まもなくやってくる「死」と言うものがいつの間にか頭にもたげてくる。そんなことをあれこれ巡らせながらいつの間にか眠ってしまっている。1日終わるとその分あの世へ行く日が近づいてくる。こんなことを思わなくてもいいように、古い友人やいろんな人との日常的な付き合いがあれば良いのだが、今はコロナで毎月のカラオケも休止中。他県の学生時代の友人たちとの年1回の同窓会も今年は中止。他に行く場は無いのかと言われればある事はある。本来ならば退職教職員互助組合の各支部があって、自分自身も1つの支部に所属しているし、そこで様々な取り組みがなされている。今まで1度も参加した事は無い。そこに行けばまた心境の変化があるかもしれない。その辺はまた改めて考えてみようと思っている。

 とまぁこんな雨の日の心境だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする