切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

愚庵終焉地~願行寺 京都市伏見区~宇治市・・・

2020-10-15 23:19:25 | 撮影

愚庵終焉地



『天田愚庵草庵址
 天田愚庵和尚は、俗名を天田五郎といい、福島県平市(現いわき市)の武士の家に生まれた。
 戊辰戦争で行方不明となった両親と妹を求めて多年諸国を遍歴した。その途中で山岡鉄舟と出会い、侠客清水次郎長を紹介されたことが縁で、一時は清水次郎長の養子にもなった。
 そのため、清水次郎長の名を広めた講談浪曲の底本ともなった「東海遊侠伝」を著したことでも知られる。中年に天龍寺の滴水禅師によって仏門に入り、鉄眼と号した。明治二十五年清水産寧坂に庵を結び、愚庵と称した。漢詩において異彩を放ったばかりでなく、万葉調歌人として優れ、正岡子規に大きな影響を与えた。明治三十三年桃山の風光に惹かれ、桃山城の南麓であって右に指月の杜があり、南は宇治川に対し、遠くは大和生駒の山などを望み、近くは巨椋池に臨み、すこぶる景勝の地である当地に草庵を結んだ。その後、明治三十七年に没した。享年五十一歳。数奇な運命の中に生き抜いた禅僧歌人天田愚庵の静かな示寂であった。なお当地にあった草庵は昭和四十一年に有志によりいわき市に移築復元されている。
 京都市』  (駒札より)


 愚庵終焉地の碑は宇治川沿いの小山の途中にあり、周囲は斜面に沿った住宅地。少し北側に乃木神社があり、JR奈良線の桃山駅がある。
 山本愚庵については駒札に簡単な略歴が書かれている。出身は東北の平であり、幕末から明治維新の激動期を生きた波乱万丈の生涯を送っている。戊辰戦争をきっかけに行方不明になった親族を探し各地を回るが、この地にて禅僧となる。彼が各地を放浪する中で出会った偉人は多く、中でも山岡鉄舟との出会いは彼の人生をある意味変えたと言われる。
 後に京都清水に庵を構えてそれを愚庵と称した。漢詩などの作品を通して著名人との交流が深まり、正岡子規とも交流があったと言う。最後に宇治川から巨椋池、さらに遠くの生駒の山なみが眺望できるこの地に庵を構えて、50代の若さで亡くなる。
 現在では極めて小さなな碑が残るだけだが、彼の庵の建物は出生地である現在のいわき市に戻されたとのことだ。
 明治維新そのものの中で、彼が果たした役割については詳しくは知らないが、直接尊王攘夷や維新の運動に関わったわけではなさそうだ。
 


願行寺



『宇治市指定文化財
願行寺の仏像

 平成元年三月三一日指定

 願行寺はもと慈心院尊勝寺と称し、木幡の関守清水勝宗が一門の菩提寺として、歴仁元年(一二三八) 慈心上人を開基として建立した寺で、以後、木幡流専修念仏の拠点として重きをなした。 その後、延慶二年 (一三〇九) の火災や応仁の乱などで焼亡し、荒廃したが、天正四年(一五七六)に寺名を願行寺と改めて再興され、現在に至る。寺宝として付近の廃寺の遺仏とおもわれる古仏が伝えられており、左の二体が宇治市指定文化財に指定されている。

 木造阿弥陀如来坐像 平安時代後期
  一木造 古色 彫眼 像高三四・二センチメートル
 木造阿弥陀如来立像 鎌倉時代
  寄木造 漆箔 彫眼 像高九七・三センチメートル

 木造阿弥陀如来坐像は、小像ながらどっしりとして安定感があり、太くたくましい耳輪、やや厳しさのある表情、大ぶりでゆったりと流れる衣文など、 十世紀の作風を示している。現在は内仏として安置されているが、近くにあった廃善願寺の仏像と伝える。

 木造阿弥陀如来像は、来迎印を結ぶ半等身の立像で、繊細な感覚のいきわ たった美作である。両類の張った面相は優しく穏やかで、奥行きの浅い体軀はよく均衡がとれ、衣文の数は少なめで軽やかに流れている。平安時代後期の作風を強くとどめる鎌倉時代十三世紀の作と考えられる。
 平成三年三月 宇治市教育委員会』  (説明書きより)


 願行寺は宇治市の木幡にある。JR奈良線及び京阪宇治線の木幡駅はお互いにすぐ近くだ。がその間の脇道を入ったところにお寺がある。ここは抜け道としてよく使っているが、脇道の方は入ったことがなく、このようなお寺があることはつい最近まで知らなかった。
 宇治市の指定文化財もあるということで、行ってみることにした。車で脇道に入りすぐに山門前に出る。駐車場がないので少し広くなった場所に置いて撮影に向かう。
 門の横に説明板があって指定文化財の仏像の写真が印刷されている。かなり雨風に打たれてしまってかなり擦れつつある。内容は上記の通り。
 創建は鎌倉時代となっているが、一応これが正式な願行寺の創建となっているようだ。もうひとつの説があって、奈良時代以前の飛鳥時代に僧の定恵が勅命を受けて創建し、観音寺といったと言うものだ。どういうものがその根拠になってるのかはわからない。おそらく何らかの古文書に出てくるのではないだろうかと思う。
 境内はきれいに整備されていて本堂の他に地蔵堂などもある。全体的に緑が豊かで非常に落ち着いた雰囲気だ。お寺のすぐ裏側を京阪電車が走っているのでそのぶんの騒音は致し方ないだろう。ただ駅に到着したり出発したりするという場所なので、音はさほど気にするほどのものではないかもしれない。
 できれば2体の仏像を拝見したいところだが、公開日でもなく説明板のもので我慢しておく。お寺によってはこういった場合、本堂の扉の一部が透明ガラスになっていて本尊が見える状態になっているところもあるが、ここは完全に閉ざされていてどうしようもなかった。地蔵堂らしき建物の中には石地蔵のようなものがほんのりと見えたが、写真撮っても極めて暗いので手ブレしまくりで、まともな写真は撮れなかった。いずれにしろ平安時代から鎌倉時代にかけての作ということで是非とも見たいものだと思う。
    
コメント (1)
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