切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

城興寺・薬院社~西福寺綜芸種智院跡 京都市南区・・・共に「大宝律令」関係だ

2020-10-04 22:39:14 | 撮影
城興寺・薬院社



『城興寺

 瑞宝山と号する真言宗泉涌寺派の寺院で、洛陽三十三所観音めぐりの第二十二番札所となっている。この地は、太政大臣藤原信長の邸宅であった が、知足院関白藤原忠実が伝領して、永久元年(一一一三)に寺に改めたといわれる。
 創建当初の規模は明らかではないが、寺宝に有する境內伽藍図には現在の烏丸町全域にわたって寺域としていた様が描かれている。
 当初は、四宗(顕・密・禅・律)兼学の道場で親王の没後、その弟子の以仁王が当寺を領した。 その後、治承三年(一一七九)、平氏によって寺領を奪われ、このことが、平氏討伐の挙兵の一因になったと考えられている。中世を通じて、延暦寺の管理に属したが、応仁の乱後、衰微し、現在は円仁の作と伝えられる本尊千手観音像を安置する本堂のみが残っている。
 京都市』  (駒札より)
  

『薬院社

病気平癒と夫婦円満のお稲荷さん

薬院社の由来

薬院さんの名で親しまれている当「薬院社」は元の名を施薬院稲荷といいます。
 平安の昔、当地の西北二〇〇m(東九条中殿田町)の地に施藥院がまた北一〇〇m(上殿田町)には施薬院御倉がありました。

 施薬院は奈良時代、聖武天皇と光明皇后が創始された医療と施薬の役所で、今日の病院と福祉施設を合せた施設でした。平安初期左大臣藤原冬嗣が私財を投じて彼の地に施薬院を開設し以摂関家藤康氏の支援に依って維持運営されました。しかし鎌倉初期これらの施設は他処へ移転し、御倉跡の「薬院の森」には施菓院稲荷の祠が残り、以来地元・束九条の人々が村の鎮守さまとしてあがめ親しみました。
 明治になって廃仏毀釈運動に続いて辻堂廃止令が発布され明治十一年(一八七七)、施薬院稲荷も廃止の憂き目を見るところでしたが、地元農民の熱意により当、城興寺の陀柷尼天堂に合祀されました。

陀枳尼天はもともとヒンズー教の性愛の神でしたがインド仏教にとり込まれ、中国、日木と伝来するうちに天部の一人とされ俗に
 女稲荷とあがめられる仏様になられました。

施薬院稲荷が陀枳尼天に、いわば婿入りされたわけで、以来二躰のお稲荷さんは仲睦じく鎮座して夫婦円満を示現され、医療・施薬をとおして、私たちの健康で稔り豊かな明日を、願いつつ見守っておられます。
 夫婦は仲良くして下さい。
  それが幸福の根本であります。(当山住職)

◎摂社次郎吉稲荷 大銀杏の元に鎮座するお稲荷さんで、 あなたの唯一の「願」だけ叶えて頂ける神さまです。

 (城興寺境内) 施薬院稲荷・薬院社 奉賛会』



 城興寺・薬院社は地下鉄九条烏丸駅を降りたところにある。実際に境内に入ってみると城興寺の境内の土地に薬院社があって、何も事情を知らずにその様子を見ているとこれは神仏習合の証なのかと思ってしまうが、実際にはそうではない。薬院社に赤い鳥居があるのでどうしてもそのように見えてしまうだけだ。
 城興寺及び薬院社についてはともに駒札や説明書きがあったので、それをそのまま書き写して掲載しておく。由緒については書かれている通りだ。
 城興寺は平安末期に藤原氏の邸宅が寺院として確立されたものだが、かなり大きな規模であったと伝えられていると言うか、当時の様子を示す絵図が残されている。後に平氏がここを占領することによって藤原氏の怒りを買い、源氏による平氏討伐の一因となったというのは興味深いところだ。さらに後年になってお寺を巡る権力争いの中で、比叡山延暦寺の支配下に入ることになる。しかし応仁の乱によってお寺は衰退し、以後本堂を残したまま現在に至るという状況になってしまった。本堂には文化財指定を受けていないものの平安時代作と言われる貴重な千手観音像などを安置している。
   (他HPより)

 境内にある薬院社はその名称から容易に想像がつくように、今で言う病院としての役割を果たしていた建物だ。日本における医療の歴史は、中国から伝わった灸に始まると言われている。本格的な病院としての役割を持たせたものは、厩戸王が建立した四天王寺に施薬院や悲田院などが設置され、おそらくこれが本格的な医療施設ではないかと考えられている。以降中央集権化が進む中で、大宝律令などにもこのような施設の設置が条文の中に取り込まれており、日本各地に同様のものが建てられたようだ。ここの薬院社はそのうちの一つであろうと思われる。元はこの場所ではなく、少し離れたところにあって薬などを貯蔵しておく倉庫や実際の診療を行う建物が別々に設けられて活動していたようだ。これらが奈良から平安時代にかけて設けられたというのは非常に意義深いことだと言える。
 しかし鎌倉時代になると、これらの施設は他の場所へ移転し城興寺の境内には鎮守の社だけが残されて今に至る形になった。こういうわけで「病気平癒と夫婦円満のお稲荷さん」として地域の人々に愛され信仰を集め今に至る。
 当時及び今現在の人々からすれば、荒廃してしまったお寺よりも社だけ残されたとはいえ、薬院社の方がご利益があるとのことで重宝されたのではないかと考えられる。
 


西福寺綜芸種智院跡



『綜芸種智院跡

 綜芸種智院は、「 空海 (弘法大師)」が天長五年(八ニ八) に創設したもので、 平安初期の私立学校として注目される。
 当時の大学・国学(国立学校)への入学については厳格な身分制限があり、一般民衆が学問を志すことは非情に困難であったが、同院はこういった人々のために設置されたものである。
 用地は、藤原三守が九条邸を提供し、これを充てた。
 同院では、内典(仏書) ・外典(儒書)の講義を行い、種智 (物道・真理を究めようとする心) への到達を図った。その制規は、空海自筆の「綜芸種智院式」で知られる。
 このように、当時としては画期的な理想の下に創建された同院であったが、承和二年(八三五) に空海が六十二歲で没Lて以後、後継者を得ず、廃絶した。
 なお、現在の私立種智院大学(京都市伏見区) は、同院の伝統を継いで設立されたものといわれている。   京都市』
  (駒札より)

 西福寺綜芸種智院跡は京都駅のすぐ近く。近鉄京都線沿いにある。現地に着いてみると道路に面していて建物が敷地いっぱいに建っている。門は閉じられていて奥の方は見えないが、どうやら境内らしきものはないようだ。つまり建物だけがあるという。これは西福寺だ。
 駒札に由緒が書かれていて、これでほぼ内容が分かると思う。空海によって平安時代に創建されたものであり、元々は今で言う私立学校ということになる。当時学問をするということは基本的にはまず、文字の読み書きが中心となる。朝廷においては朝廷を支える身分の高い人々が、朝廷が作った学校で学ぶことができるが、身分の低い人々も学べる場が必要だということで設けられたものだ。
 日本で最初の学校のような役割を果たした施設というのは、朝廷によって設けられたものがあるが、やはりこれも大宝律令によって教育制度が条文として載せられ、その中に官立の学校が儲けられるべきであることが記述されている。これに基づいて朝廷が中心となり官立学校が創設されるものの、当時すでに各地に建てられた寺院の中には、教育の場を提供するようなケースも見られ、必ずしも確立された教育制度とまではなっていなかった。
 このような中で綜芸種智院が教育施設として開かれる。そういった意味では日本教育史における貴重なものとも言える。しかし空海が亡くなった後は衰退し、結局は廃止することになった。綜芸種智院跡とあるが、もちろんこれは建物のことではなく、場所のことである。その場所に西福寺が建ったのだ。
 伏見区に種智院大学と言うおそらく日本一小さな大学があるが、近鉄京都線の車窓からよく見えるので、私も何度も何度も見ている。向かい側に京都府立の高校があり、敷地は高校の方が断然広い。この種智院大学はあくまでも空海の綜芸種智院の志を継いで建学されたものだということだ。

  
コメント
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