法雲寺(西念寺)
『西念寺
西念寺と十一面観音立像 京田辺市宮津白山五番地
本寺は江戸時代の普賢寺郷十ヶ村の一つ「宮ノ口村」の 檀家寺で、高野山真言宗に属し、江戸時代の不動明王坐像を本尊とする。明治初年の神仏分離により、村の氏神「白山神社」の神宫寺(法雲寺)の請仏がここに移されたが、この中に等身の木造十一面観音立像があったと言い伝えられてきた。この像は平安時代後期 (十一世紀後半)の優れた作で京都府指定文化財に指定されている。 (現在は京都国立博物館に寄託)
昭和五十五年(一九八〇)の修理により像の構造も判明 し、台座の蓮弁五枚には六種類の戯画も発見されて注目され、仏師定朝の後を継いだ弟子たちによる師の作風を正統的に受け継いだ量感のある遺作とみなされた。
なお白洲正子が随筆『十一面観音巡礼 』の中で白山神社の十一面観音について記述しているのは本像にあたると想われ、明治初年の廃仏毀釈の際に普賢寺郷の牛頭天王社(朱智神社) の観音堂から極秘に移されたのではと推考される。
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会』 (駒札より)
法雲寺は近鉄京都線宮津駅と狛田駅の間にある。平地より少し高めのところに位置しており、到着すると石段がある。途中に上記の駒札があった。お寺の紹介というよりは十一面観音立像の紹介となっている。京都府の指定文化財で残念ながらここにはなく、京都国立博物館に寄託されているとのこと。お寺そのものは無住であり地域の人々によって支えられている。
このお寺の資料を探していると、ネット上に禁教令との関係で説明されたものがあってそれを参考にさせていただいた。
元々は戦国時代、豊臣秀吉がキリシタン禁教令を出し、徳川幕府成立とともに江戸時代においても禁教令はそのままずっと継続されることになる。そういった意味ではキリスト教の広がりを防ぐ役割を担ってこの地に建てられたのが、この西念寺だという。本堂はあっさりした建物で、どうにも本堂らしさが見られない。境内全体もやはりあっさりしていてこれもまた寂しい感じだ。本堂そのものは数年近く前に建て替えられたと言う。そういった点から見逃されやすいお寺なのかもしれない。門のところにある石柱には法雲寺とあり、別の場所に西念寺とあった。本堂の建て替えと共に改名されたとのことだ。
芝山神社
芝山神社は近鉄京都線の宮津駅東側にある。目印は三山木小学校で比較的わかりやすい。すぐ近くには本殿が国の重要文化財に指定されている式内社の佐牙神社もある。
神社の由緒は全くわからない。説明書きも何もなくネット上その他を調べてもこれといった情報はなかった。芝山という名前も特に神社の成り立ちには関係ないようだ。
祭神は「大山津見神」とされている。これは結構有名な神話上の神であり、古事記や日本書紀にも登場する。両書物にはそれぞれ別の漢字表記が当てられているが、大元は同じであり意味としては、「大いなる山の神」であり、多くの山を統治することによって山の神を鎮めるといった話のようだ。
後年にはその意味が拡大解釈されて行き、庶民の農業や漁業商工業など様々な産業活動に御利益をもたらすものと解釈されるようになり、多くの人々から崇敬を集めた。なおこの神を祭神とする神社は全国各地にあり、比較的一般的な祭神と言える。
神社そのものは比較的小規模なものだった。
いぼ観音念仏寺
念仏寺は近鉄京都線及びJR学研都市線の三山木駅、南の方にある。
名称の「いぼ観音念仏寺」というのは通称であり、正式には「浄土宗 西山深草派 踊躍山歓喜院念仏寺」と言う。このお寺も各地に多く存在する浄土宗のお寺で、西山派に属する。由緒などについてはわからないが、少なくとも言えることは画像のとおり、境内・本堂などほとんどが真新しいということだ。ごく一部江戸時代かそこら辺の小さな石仏が置かれたりしているが、古くからあったお寺が全面的に再整備されたのか、それともこの地に何かの理由で全く新たに建てられたのか、その辺りは分からない。
今の時代にお寺新整備というのはあまり考えられないので、おそらく再整備されたものだと思われる。人がいる気配はなかったので、無住のお寺かどうかは分からない。南山城観音三十三箇所に指定されており、ここには置かれていなかったが、該当するお寺にはその三十三箇所のお寺の数や一覧表が置かれている。そういったところから考えるとやはりずっと以前からあるお寺だったんだろう。本堂の扉に描かれたマークについてはどういう意味があるのかはわからなかった。
「いぼ観音」というのは全国各地にあり、そのお寺で観音さんに触れたりあるいは流れる水に触れたりすることによって、イボが治ると言うご利益があるそうだ。今ではイボというのは一種の皮膚病であり、あまり心配する必要のないものかもしれないが、昔は顔にできた大小のイボは見た目にも不快感があり、自分の身に何か良くないことが起こるのではないかと恐れられた面もあったのではないかと思う。確かにイボの中には悪性腫瘍に転化していくものもあると言われており、その意味では死に直結する場合もある。したがって当時の人々ができたイボを気味悪がって、何とか治したいとの思いで観音さんにお願いをしたというのはよく理解できる。
『西念寺
西念寺と十一面観音立像 京田辺市宮津白山五番地
本寺は江戸時代の普賢寺郷十ヶ村の一つ「宮ノ口村」の 檀家寺で、高野山真言宗に属し、江戸時代の不動明王坐像を本尊とする。明治初年の神仏分離により、村の氏神「白山神社」の神宫寺(法雲寺)の請仏がここに移されたが、この中に等身の木造十一面観音立像があったと言い伝えられてきた。この像は平安時代後期 (十一世紀後半)の優れた作で京都府指定文化財に指定されている。 (現在は京都国立博物館に寄託)
昭和五十五年(一九八〇)の修理により像の構造も判明 し、台座の蓮弁五枚には六種類の戯画も発見されて注目され、仏師定朝の後を継いだ弟子たちによる師の作風を正統的に受け継いだ量感のある遺作とみなされた。
なお白洲正子が随筆『十一面観音巡礼 』の中で白山神社の十一面観音について記述しているのは本像にあたると想われ、明治初年の廃仏毀釈の際に普賢寺郷の牛頭天王社(朱智神社) の観音堂から極秘に移されたのではと推考される。
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会』 (駒札より)
法雲寺は近鉄京都線宮津駅と狛田駅の間にある。平地より少し高めのところに位置しており、到着すると石段がある。途中に上記の駒札があった。お寺の紹介というよりは十一面観音立像の紹介となっている。京都府の指定文化財で残念ながらここにはなく、京都国立博物館に寄託されているとのこと。お寺そのものは無住であり地域の人々によって支えられている。
このお寺の資料を探していると、ネット上に禁教令との関係で説明されたものがあってそれを参考にさせていただいた。
元々は戦国時代、豊臣秀吉がキリシタン禁教令を出し、徳川幕府成立とともに江戸時代においても禁教令はそのままずっと継続されることになる。そういった意味ではキリスト教の広がりを防ぐ役割を担ってこの地に建てられたのが、この西念寺だという。本堂はあっさりした建物で、どうにも本堂らしさが見られない。境内全体もやはりあっさりしていてこれもまた寂しい感じだ。本堂そのものは数年近く前に建て替えられたと言う。そういった点から見逃されやすいお寺なのかもしれない。門のところにある石柱には法雲寺とあり、別の場所に西念寺とあった。本堂の建て替えと共に改名されたとのことだ。
芝山神社
芝山神社は近鉄京都線の宮津駅東側にある。目印は三山木小学校で比較的わかりやすい。すぐ近くには本殿が国の重要文化財に指定されている式内社の佐牙神社もある。
神社の由緒は全くわからない。説明書きも何もなくネット上その他を調べてもこれといった情報はなかった。芝山という名前も特に神社の成り立ちには関係ないようだ。
祭神は「大山津見神」とされている。これは結構有名な神話上の神であり、古事記や日本書紀にも登場する。両書物にはそれぞれ別の漢字表記が当てられているが、大元は同じであり意味としては、「大いなる山の神」であり、多くの山を統治することによって山の神を鎮めるといった話のようだ。
後年にはその意味が拡大解釈されて行き、庶民の農業や漁業商工業など様々な産業活動に御利益をもたらすものと解釈されるようになり、多くの人々から崇敬を集めた。なおこの神を祭神とする神社は全国各地にあり、比較的一般的な祭神と言える。
神社そのものは比較的小規模なものだった。
いぼ観音念仏寺
念仏寺は近鉄京都線及びJR学研都市線の三山木駅、南の方にある。
名称の「いぼ観音念仏寺」というのは通称であり、正式には「浄土宗 西山深草派 踊躍山歓喜院念仏寺」と言う。このお寺も各地に多く存在する浄土宗のお寺で、西山派に属する。由緒などについてはわからないが、少なくとも言えることは画像のとおり、境内・本堂などほとんどが真新しいということだ。ごく一部江戸時代かそこら辺の小さな石仏が置かれたりしているが、古くからあったお寺が全面的に再整備されたのか、それともこの地に何かの理由で全く新たに建てられたのか、その辺りは分からない。
今の時代にお寺新整備というのはあまり考えられないので、おそらく再整備されたものだと思われる。人がいる気配はなかったので、無住のお寺かどうかは分からない。南山城観音三十三箇所に指定されており、ここには置かれていなかったが、該当するお寺にはその三十三箇所のお寺の数や一覧表が置かれている。そういったところから考えるとやはりずっと以前からあるお寺だったんだろう。本堂の扉に描かれたマークについてはどういう意味があるのかはわからなかった。
「いぼ観音」というのは全国各地にあり、そのお寺で観音さんに触れたりあるいは流れる水に触れたりすることによって、イボが治ると言うご利益があるそうだ。今ではイボというのは一種の皮膚病であり、あまり心配する必要のないものかもしれないが、昔は顔にできた大小のイボは見た目にも不快感があり、自分の身に何か良くないことが起こるのではないかと恐れられた面もあったのではないかと思う。確かにイボの中には悪性腫瘍に転化していくものもあると言われており、その意味では死に直結する場合もある。したがって当時の人々ができたイボを気味悪がって、何とか治したいとの思いで観音さんにお願いをしたというのはよく理解できる。