12月8日

2020-12-08 09:22:57 | 日記
 今日は日米開戦79年にあたる日。日本軍部は米国という巨大な大国と思いつつ戦争をする気になって戦いを挑んでしまった。資源を求めて中国大陸に攻め込んで行くが中国を甘く見ていた為やってはみたが思いのほか抵抗が強く当初の目論見が外れてしまい活路を盗難アジアに向ける。ここで米国の権益とぶっつかり経済封鎖を受け結果ハワイ奇襲攻撃となるのである。奇襲攻撃だから仕掛けたほうが有利で一応は成功の形だったが、米国の体制を整えた反撃には歯が立たなかった。ミッドウエー海戦やガダルカナルの海戦など一方的な日本軍の負けの連続だった。日米の太平洋戦争というものは”戦争”と言えるものではなかったと司馬遼太郎さんの「昭和を語る」で仰っている。それは戦争とはやられるとやっつけるがあるものだが、日本はやられっぱなしで勝負ではなかったのではなかったかというのもだ。
 1945年9月2日の東京湾上の戦艦ミズーリー号上での降伏文書調印式の当日、東京湾には米国の戦艦や軍用艦が多数集結し、上空には軍用航空機がまるで空を覆わんばかりの大編隊が飛行する姿を当時の東条英樹ほかの指導者たちはいかにみたのか。戦後やってきた米軍は戦車と装甲車とジープで装備された近代的な軍隊だったが、日本は自転車と馬と歩く旧式の銃の歩兵の集団でどう見ても勝負にはならない。
 日露戦争には一応勝ったことになっている。日本が太平洋戦争に向かった原因のひとつがこの日露戦争の勝利だったのではないか。戦争に勝った時良い方向に向かうの良いが日本は不幸にも悪い方向に向かってしまった。
 物事は始める時よりも止める時の方が難しいといわれる。企業の立ち上げつまり会社を始めようとする時、結婚をする時、そして戦争を仕掛ける時だ。景気よく真珠湾攻撃大成功と喜んだが次第に戦局不利となると本土決戦と叫び国民を盾に自滅の道を歩みかけた。原子爆弾投下という究極の被害を被って負けを受け入れた。戦争を止めようとする時の難しさである。
 今日の新聞には真珠湾攻撃に空母から発信して爆弾投下の実績を持つ吉岡政光さん(102歳)の経験談が載っている。102歳での戦死者の為に記憶を残すという吉岡さんの意気込みに敬意を持つものである。