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障がいのある子も、ない子も、共に学ぶ教育

2018-09-16 07:21:25 | 教え子・学校
 12日は長生大学の日だった。

 午前の講義は飯塚氏の

 「障がいのある子も、ない子も、共に学ぶ教育」


 

 講義の時H君のことを思い出していたら

 その夜彼の夢を見た。

 30代後半障がいのあるH君を担任した。

 小学校も普通学級だったので中学校も普通学級で・・・という

 ご両親の希望で。

 
 H君は暗気力抜群 記憶力があったが集中力が無く

 気に入らないとパニクルことがあり授業も一時中断の時もあった。

 が

 先生方は理解してくださった。


 H君の担任は養護学校の免許がある私にということで

 快く承諾した。

 そして二年三年と学級が替わっても

 私が担任した。

 ご両親も私も思春期の彼の変化が心配だったが

 なんとか

 切りぬけた。

 一年生の時国語の授業時間H君の傍を通るといきなりポチッと

 乳房を触られクラス中爆笑した時もあった。


 やっぱり一番辛かったのが三年生で学級減になりクラス替えがあり

 学級の環境が大きく変化した時だった。

 休み時間は毎日職員室の私の傍にいた。

 昼休みは図書室の係りだった私の横で大好きな辞典を読んで

 過していた。

 だから

 私は少々のことでは学校を休めなかった。

 H君はちよっかいをかけなければ自分の世界に入り

 静かなものだった

 ときどき奇声をあげトラブル以外は・・・。


 だが

 三年生になって事件が起きた。


 実習生が授業をしていたある実技教科で


 これは先生方の目が行き届かなかったためである。


 H君にはとても辛い思いをさせてしまった。


 いろいろと三年間トラブルことがあったが

 忘れられないのは


 一年生の時

 廊下でH君が奇声を上げていた時一級上のお兄さんが

 駆けつけてなだめていたことである。

 二人で同時に駆けつけて笑い合ったこともあった。

 お兄さんも図書室の常連で秀才だったので

 教えていなかったが知っていた。

 ご家族が一体になりH君を見守っていた温かいご家庭だった。


 H君

 ひょっとししたらこのブログ見ているかもネ

 年賀状の交換をしているものネ

 ホノルルマラソン頑張っていたよネ


 H君と過ごした三年間は

 私にとってもとっても貴重な時間だった。

 そうだ

 思い出した。

 彼は鉄道マニアだった

 胆振線が廃止になった時記念にキップか何かを買ってプレゼントしたことがあったっけ

 まだ持っているかなぁー


 これからもマイペースで亡くなったお兄ちゃんの分まで長生きしてほしい。


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