札幌での最近の事件・・・二歳女児虐待死
またかぁー・・・と怒りがとまらない
は児相が駄目だと主張するが
私はどっちもどっち
家庭訪問した時に無理しゃりにでも児相の職員を連れて行くべきだった。
対応が甘い。
母親のいいなりになり、足の裏のバンソウコをはがさず
何事もなく引き下がったとは・・・
二歳児なのに半分の体重しかなかったとは・・・専門家が見れば
虐待と分かるはず。
それに冬なのに、おむつとTシャツ一枚しか着ていなかったという
一時預かりの保育園24時間なのに、三日も引き取りに来なかった・・・という証言
この時に何故警察なり市に電話しなかったのか
結局は近所のかたが何度も電話した。
昼夜泣き声が絶えず
ネコが鳴いているような声だったとか
切ないねぇー
児相は腰が重すぎて、すぐには動かない
子供を大事にしない国は亡びるネ
義務教育までは無償にするべき
格差社会がますます広がる。
人が足りない・・・なんて児相は言っているが
命を何だと思っているのか
そんなに足りなければ国が調査して何とかするべき。
警察は通報があれば動いていると思うが
今は児相と警察の責任のなすりあい・・・。
こんなことを言い合っている間にも次の虐待されている子がいるはず
早急に国の抜本的な対策が必要と二人で
怒りまくった。
児相の呑気なことは現役時代から分かっていた。
退職一年前の学校で
刑務所から出てきたばかりの父親に、母親と娘が虐待されているという
娘が転校してきた。
中二で私も同じ学年だったが、そのクラスに授業に行っていなかったが
図書室の係りだったので昼休みに居場所のない彼女は毎日
来ていた。
それを知った校長に彼女の面倒を見てと頼まれた。
なんでもいじめがあり転校してきたという。
放課後も彼女の帰る時間まで図書室を開け
なんとか彼女と交換日記をするようになり
校長と担任に経過を報告していた。
字も文章もしっかりしていて
本も好きな子だったので、いろいろと本の紹介もした。
そのうち心も開いて
前の学校のいじめのこととか父親の暴力のことも書くようになった。
前任校では校長が呼び出され
父親に刀を振り回されたという・・・こわもての父親だった。
さて
私の勤務していたY校長はそれはそれは生徒のことを真っ先に考える
尊敬できる心ある人だった。
父親に呼び出されたときは警察に立ち会ってもらっていた。
母子の身の危険を感じた校長は即児相と相談した。
その頃母子の駆け込み寺という施設があり、そこにしばらくしてから入居することができた。
普通の校長がやらないことをこの校長はやり遂げた。
そして彼女は三年に進級するときに施設に入ることができ、転校していくことになった。
毎日危険な状態だったのに一年もかかった。
それでもこの校長のおかげで安住の世界に身を置くことができた彼女は幸せだったと思う。
人と人の出会いは本当に大切だ。
10数年前の話である。
彼女の行く先も決まり私も安心して退職することができた。
幸せに暮らしているといいなぁー・・・と時々思い出す。
T校長は私の退職後を心配してくださり
国語で新採用が一人いるのでその教育係として私を推薦してくださった
がその採用された貴重な人材は直前になってマスコミに就職した。
支援学級でも一人新採用があったとのことで
免許があった私は、そちらのほうに一年間勤務した。
その後も校長は一年早く辞めたわたしをきずかい
講師を斡旋してくれたが
との再会もあり
伊達に移住した。
その彼女を一年間担任した当時学年主任だったT先生が
転勤して40代の若さで急逝した。
素晴らしい教師だったのに・・・私は伊達でそのことを知り
愕然とした。
虐待に関しては書きたいことがたくさんあり
舌足らずだが長くなるのでこれで終わる。
最後に教師のことをとやかくいう人がいるが
日夜生徒のために心をくだいていた教師が殆どであったと
37年間教師をしていた私は声を大にして訴える。
T先生も力があったせいで
なんでも抱え込み
学年主任、校務主任 部活 と・・・
教科指導よりもそちらの方が多忙で倒れたのではないか
と懸念する。
特に中学は雑用が多すぎて疲労過多の教師が多すぎる。
私もそれで一年早く辞めた口である。
まともに年金が貰えたのはその三年後デスがネ
娘は
お金の問題ではない
あれ以上続けていたら、お母さんは倒れていたょー
だって。
そーだね
またかぁー・・・と怒りがとまらない
は児相が駄目だと主張するが
私はどっちもどっち
家庭訪問した時に無理しゃりにでも児相の職員を連れて行くべきだった。
対応が甘い。
母親のいいなりになり、足の裏のバンソウコをはがさず
何事もなく引き下がったとは・・・
二歳児なのに半分の体重しかなかったとは・・・専門家が見れば
虐待と分かるはず。
それに冬なのに、おむつとTシャツ一枚しか着ていなかったという
一時預かりの保育園24時間なのに、三日も引き取りに来なかった・・・という証言
この時に何故警察なり市に電話しなかったのか
結局は近所のかたが何度も電話した。
昼夜泣き声が絶えず
ネコが鳴いているような声だったとか
切ないねぇー
児相は腰が重すぎて、すぐには動かない
子供を大事にしない国は亡びるネ
義務教育までは無償にするべき
格差社会がますます広がる。
人が足りない・・・なんて児相は言っているが
命を何だと思っているのか
そんなに足りなければ国が調査して何とかするべき。
警察は通報があれば動いていると思うが
今は児相と警察の責任のなすりあい・・・。
こんなことを言い合っている間にも次の虐待されている子がいるはず
早急に国の抜本的な対策が必要と二人で
怒りまくった。
児相の呑気なことは現役時代から分かっていた。
退職一年前の学校で
刑務所から出てきたばかりの父親に、母親と娘が虐待されているという
娘が転校してきた。
中二で私も同じ学年だったが、そのクラスに授業に行っていなかったが
図書室の係りだったので昼休みに居場所のない彼女は毎日
来ていた。
それを知った校長に彼女の面倒を見てと頼まれた。
なんでもいじめがあり転校してきたという。
放課後も彼女の帰る時間まで図書室を開け
なんとか彼女と交換日記をするようになり
校長と担任に経過を報告していた。
字も文章もしっかりしていて
本も好きな子だったので、いろいろと本の紹介もした。
そのうち心も開いて
前の学校のいじめのこととか父親の暴力のことも書くようになった。
前任校では校長が呼び出され
父親に刀を振り回されたという・・・こわもての父親だった。
さて
私の勤務していたY校長はそれはそれは生徒のことを真っ先に考える
尊敬できる心ある人だった。
父親に呼び出されたときは警察に立ち会ってもらっていた。
母子の身の危険を感じた校長は即児相と相談した。
その頃母子の駆け込み寺という施設があり、そこにしばらくしてから入居することができた。
普通の校長がやらないことをこの校長はやり遂げた。
そして彼女は三年に進級するときに施設に入ることができ、転校していくことになった。
毎日危険な状態だったのに一年もかかった。
それでもこの校長のおかげで安住の世界に身を置くことができた彼女は幸せだったと思う。
人と人の出会いは本当に大切だ。
10数年前の話である。
彼女の行く先も決まり私も安心して退職することができた。
幸せに暮らしているといいなぁー・・・と時々思い出す。
T校長は私の退職後を心配してくださり
国語で新採用が一人いるのでその教育係として私を推薦してくださった
がその採用された貴重な人材は直前になってマスコミに就職した。
支援学級でも一人新採用があったとのことで
免許があった私は、そちらのほうに一年間勤務した。
その後も校長は一年早く辞めたわたしをきずかい
講師を斡旋してくれたが
との再会もあり
伊達に移住した。
その彼女を一年間担任した当時学年主任だったT先生が
転勤して40代の若さで急逝した。
素晴らしい教師だったのに・・・私は伊達でそのことを知り
愕然とした。
虐待に関しては書きたいことがたくさんあり
舌足らずだが長くなるのでこれで終わる。
最後に教師のことをとやかくいう人がいるが
日夜生徒のために心をくだいていた教師が殆どであったと
37年間教師をしていた私は声を大にして訴える。
T先生も力があったせいで
なんでも抱え込み
学年主任、校務主任 部活 と・・・
教科指導よりもそちらの方が多忙で倒れたのではないか
と懸念する。
特に中学は雑用が多すぎて疲労過多の教師が多すぎる。
私もそれで一年早く辞めた口である。
まともに年金が貰えたのはその三年後デスがネ
娘は
お金の問題ではない
あれ以上続けていたら、お母さんは倒れていたょー
だって。
そーだね