試験がほぼ一段落して暇になるかと思っていたが、来週のマレーシア旅行の計画が予想以上に難儀していることもあり、なんだか忙しいままである。更新が滞るのもよくないので、以前新聞に投稿してボツになった記事を若干整えて掲載します(笑)。なかなか採用されないものなんだよね…。
もうタイムリーでなくなっている感があるが、橋本大阪府知事率いる「大阪維新の会」の大阪義団が制定した、教員に君が代の起立斉唱を義務付ける条例が議論を呼んだ。大学で履修している教職科目でも取り上げられ、公務員なら国歌斉唱和当たり前か、それとも思想強制や職権濫用かという点が議論の中心だが、自分は別の点でこの条例に違和感を覚える。
知事は起立斉唱を「思想良心の自由でなく組織マネジメントの問題」と主張するが、これは国歌である君が代を会社の社歌や学校の校歌と同じ位置づけにおくことになる。教員が「歌いたくないけど、ルールらしいし仕方ないか」という心理で国歌を受け止めるような状況を知事らが望んでいるのか。知事の狙いが、単なる規律の厳格化にあるのならまだいいとして、安倍元首相らが意図したような愛国心の復活にあるのだとすれば、これは逆効果な気がしてならない。
正直なところ、若い世代には、自分を含め、君が代を耳にしても、愛国心がわく、あるいは国家主義的な違和感を受ける、といった感情を特に抱かない人も多い気がする。この状況は問題があると思っているし、関心を持たずに生きてきた自分にも落ち度はあると思う。愛国心がどうあるべきか、戦争や天皇賛美といった危険とどう向き合うかを考える上で、君が代の議論も重要だ。その過程で、「公務員が国に敬意を表するのは憲法の条文からしても当然であり、それを軍国主義だといって拒むような人間は教員になるべきではない」という意見が出ること自体には反対しない。
彼らの議論に見られるような、戦後日本国民の「自虐史観」と言われるものは、全くなかったとは否定できない。秋田喜代美・佐藤学『新しい時代の教職入門』(有斐閣アルマ)という本に書かれた、日本の教師像の変化がよい示唆を与えてくれる。明治時代に森有礼が中心となって定めた教育制度により、教師は聖職者のようなイメージを与えられ、天皇の意思を媒介し子どもたちに伝えるという役割を担い、加えてのちに、国民教育の理想を実現するという側面も持つようになったとされる。さらに戦時中、丸山眞男「日本ファシズムの思想と運動」(『現代政治の思想と行動 上巻』(未来社)の一編)が指摘するように、教師は小地主・工場長・僧侶などとともに、日本ファシズムの発展に大きく寄与した「疑似インテリ層」の一部となって、天皇を頂点とする家族国家観と臣民教育を浸透させていったといわれる。朝ドラの「おひさま」でも、学校に奉安殿があったり、兵隊をたたえる歌を低学年から歌ったりと、当時の学校の風景が学べた。
これが敗戦によって転換し、GHQによる教育民主化の方針もあって、戦後の教師は皇国の道を探求する聖職者としての側面を弱めた一方、民主主義の実現を目指すという新たな使命感を抱くようになったとされる。それが(少なくとも一部の人びとにとっては)過剰な権力中立主義や、天皇制への忌避感につながっているといってよいだろう。一方で教師の専門家としての側面をみると、専門家共同体には行政権からの中立が認められる、という基本的な性質がある。公務員としての側面と専門家としての側面どちらを重視するかによってこの問題への見方は変わる。自分でもはっきりした答えが出せていないのが苦しい。
今回大阪で出た条例は、こうした国のあり方全体に関わる君が代を、組織の単なる一規律に矮小化するものである。君が代をコメディ映画「川の底からこんにちは」の木村水産の社歌と同じレベルにされてはさすがに困る(ものすごく極端な言い方だけど)。自分自身、そこまで確固たる愛国心を持っていると胸を張っては言えない身だが、この条例は、思想強制以前に、端的に言えば国歌への無礼である気がする。
今までこういう安易に触れづらい問題は避けてきましたが、やはり一度は自分の立場(と呼べるようなものでもないが)を言うべきだとも思い、取りあげました。強く憤りを感じられる方も多いと思いますが、ご批判はできれば建設的にお願いします。なるべく炎上しないように…。
もうタイムリーでなくなっている感があるが、橋本大阪府知事率いる「大阪維新の会」の大阪義団が制定した、教員に君が代の起立斉唱を義務付ける条例が議論を呼んだ。大学で履修している教職科目でも取り上げられ、公務員なら国歌斉唱和当たり前か、それとも思想強制や職権濫用かという点が議論の中心だが、自分は別の点でこの条例に違和感を覚える。
知事は起立斉唱を「思想良心の自由でなく組織マネジメントの問題」と主張するが、これは国歌である君が代を会社の社歌や学校の校歌と同じ位置づけにおくことになる。教員が「歌いたくないけど、ルールらしいし仕方ないか」という心理で国歌を受け止めるような状況を知事らが望んでいるのか。知事の狙いが、単なる規律の厳格化にあるのならまだいいとして、安倍元首相らが意図したような愛国心の復活にあるのだとすれば、これは逆効果な気がしてならない。
正直なところ、若い世代には、自分を含め、君が代を耳にしても、愛国心がわく、あるいは国家主義的な違和感を受ける、といった感情を特に抱かない人も多い気がする。この状況は問題があると思っているし、関心を持たずに生きてきた自分にも落ち度はあると思う。愛国心がどうあるべきか、戦争や天皇賛美といった危険とどう向き合うかを考える上で、君が代の議論も重要だ。その過程で、「公務員が国に敬意を表するのは憲法の条文からしても当然であり、それを軍国主義だといって拒むような人間は教員になるべきではない」という意見が出ること自体には反対しない。
彼らの議論に見られるような、戦後日本国民の「自虐史観」と言われるものは、全くなかったとは否定できない。秋田喜代美・佐藤学『新しい時代の教職入門』(有斐閣アルマ)という本に書かれた、日本の教師像の変化がよい示唆を与えてくれる。明治時代に森有礼が中心となって定めた教育制度により、教師は聖職者のようなイメージを与えられ、天皇の意思を媒介し子どもたちに伝えるという役割を担い、加えてのちに、国民教育の理想を実現するという側面も持つようになったとされる。さらに戦時中、丸山眞男「日本ファシズムの思想と運動」(『現代政治の思想と行動 上巻』(未来社)の一編)が指摘するように、教師は小地主・工場長・僧侶などとともに、日本ファシズムの発展に大きく寄与した「疑似インテリ層」の一部となって、天皇を頂点とする家族国家観と臣民教育を浸透させていったといわれる。朝ドラの「おひさま」でも、学校に奉安殿があったり、兵隊をたたえる歌を低学年から歌ったりと、当時の学校の風景が学べた。
これが敗戦によって転換し、GHQによる教育民主化の方針もあって、戦後の教師は皇国の道を探求する聖職者としての側面を弱めた一方、民主主義の実現を目指すという新たな使命感を抱くようになったとされる。それが(少なくとも一部の人びとにとっては)過剰な権力中立主義や、天皇制への忌避感につながっているといってよいだろう。一方で教師の専門家としての側面をみると、専門家共同体には行政権からの中立が認められる、という基本的な性質がある。公務員としての側面と専門家としての側面どちらを重視するかによってこの問題への見方は変わる。自分でもはっきりした答えが出せていないのが苦しい。
今回大阪で出た条例は、こうした国のあり方全体に関わる君が代を、組織の単なる一規律に矮小化するものである。君が代をコメディ映画「川の底からこんにちは」の木村水産の社歌と同じレベルにされてはさすがに困る(ものすごく極端な言い方だけど)。自分自身、そこまで確固たる愛国心を持っていると胸を張っては言えない身だが、この条例は、思想強制以前に、端的に言えば国歌への無礼である気がする。
今までこういう安易に触れづらい問題は避けてきましたが、やはり一度は自分の立場(と呼べるようなものでもないが)を言うべきだとも思い、取りあげました。強く憤りを感じられる方も多いと思いますが、ご批判はできれば建設的にお願いします。なるべく炎上しないように…。
あと、国歌について関心を持たないことについて問題があるとおっしゃってしましたが、それはなぜでしょうか。勝手に右翼左翼といった旧世代の枠組みに準拠しておいて、その討議のアリーナに上がろうとしない人間を非難するというのはどうなのかなぁ、と思ってしまいます。
コメントありがとうございます。
「無礼」という言い方には確かに問題がありました。自分が意図していたのは、「軽く扱っていいものではない」というニュアンスだったのですが、これでは道徳的なお墨付きを与えているように聞こえてしまいますね。
「なぜ国歌が大切か」という素朴な疑問は、まさに自分が常々抱いてきたものです。成長するにつれて、君が代問題にかかわる訴訟件数の多さに驚き、またつい最近になって、NHKの放送終了時刻に君が代が流される、ということを知りました。それまで大した思い入れも違和感も抱かずに付き合ってきた君が代が、自分の知らないところで実は大きく動いている、ということに気づき、君が代にはただの歌とは違う国歌としての重み(必ずしも良い意味での重みではなく、危うさをも含む重みです)があるのだな、と感じたのです。
そうした現実を知らないでいること、Unknownさんの言葉を借りれば「アリーナに上がらない」ことには、日頃君が代問題に関心を抱かないでいることで、いざ目の前に君が代が大きな問題として迫ってきたとき(例えば、将来教師になり、大阪のように起立斉唱を厳格に義務付けられた時)に、なされるがままに流されてしまう危険を伴うのではないか。君が代賛美の動きに対してであれ、アンチ君が代の動きに対してであれ、自分なりの意見を持っていない状態でスタンスを保てるのだろうか、という懸念を抱いています。それまでアリーナに上がろうとしていなくても、上げられざるを得ないことがありうるのです。歴史的にも、気付いたら止めようのない動きに流されてしまっていた、ということの怖さはわかるはずです。
「大切にする」ということの意味は、繰り返しになってしまいますが、倫理的に手厚く遇するというよりも、国家の持ちうる潜在的影響力の大きさを知り、自分なりの立場を持っておく、ということです。また、右翼左翼の枠組みは旧世代の枠組みと言い切ってしまえるものではないと思います。現代ではグローバル化と市民社会化が進み、国家の影響力が低下していることも確かですが、先日ノルウェーで起きた事件や、日本における戦争責任・領土の問題をめぐっても、右派・左派といった対立軸は依然重要ではないでしょうか。
わたしが旧世代の枠組みと否定したのは、ドグマ化している保守革新の対立のことです。実際の利益などとは無関係にただ繰り広げられる無意味な言論の応酬を見たくないのです。その一例が国歌問題だと思います。
そもそもアリーナに上がらせられるリスクのためにアリーナに上がるべきというのは、甚だ根拠薄弱の嫌いがあると思います。インターネット然り、様々な問題には固有のリスクがあるわけで、そのリスクの引き受け方は人それぞれの自由だと思います。
国家の危険性と対峙するために、問題意識の共有を図りたいと願う気持ちは理解できますが、問題関心を持たないという政治技法を否定できるほどの説得力はないと思います。
なんだか大変失礼な議論をふっかけているようですが、お許し下さい。
ご返事、ありがとうございます。
自分が教職科目で聞いた話や友人の話によれば、君が代問題で対立している人々がそれほど極端な保守と革新に限られているわけでもないと思います。斉唱の拒否まで行かなくとも、授業中に「自分は信条としては君が代斉唱に反対だけれども、公務員の規律があるから斉唱します」と意見を述べるだけで行動は起こさない教師もいるそうですし、またそうした意見を述べただけでも東京や大阪では注意を受けたりするそうです。Unknownさんのおっしゃる「ドグマ化している保守革新の対立」というほど、ラディカルな人々の間の問題に過ぎないとは言い切れません。国歌の重要性という前提も、それ自体を否定するというほどちっぽけなものではないと(あくまで自分個人の意見としては)思います。
ただ、Unknownさんがおっしゃるように、関心を持たないという政治技法も、確かに否定することはできません。バーリンが唱えた消極的自由と積極的自由の思想のように、自己の理性によって何をすべきか決断を下すことをよしとする考えは抑圧につながる可能性もあります。個人的には積極的自由を推す立場にいるので、こういう言説になることがしばしばです。
Unknownさんのご指摘はいつも的確で、こちらも勉強になります。こうした議論ができることはこちらとしても有意義ですので、これからもよろしくお願いします。