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帰宅難民

2016年03月12日 | ただの日記
あれから5年、私は東京の浜松町で仕事をしていました。
14:46分、揺れを感じて、その揺れの長さから、ただごとではない。初めての長周期震動です。
幸い、地震の直接的な影響はありませんでしたが、その後の余震など、携帯で、テレビの情報を得ながらの、今後の対応を考えました。
15:30の時点で、JR他交通機関はマヒ、自動車他の交通マヒ、この時点で、帰宅困難者を自覚しました。
会社から自宅まで、約75kmです。
17:00の時点で、やっと家族の安否確認ができました。
自宅周辺は、震度5強、妻M子は、自宅の近くで、たまたま車を運転し、信号待ちの状態で、揺れの恐怖はあまり感じなかったそうです。ちなみに、中越地震の際は、自宅に居て、かなりの揺れを感じたと言ってました。
18:00に会社の数名と夜食の買い出し、19:00には、一部、自力帰宅が可能な者が帰宅しましたが、よくTVに映されていた、あの混雑の中、なんとか帰宅したそうです。
ともかく、ひたすら時間の経過を待って、一夜を過ごしました。
長野でも震度6、たび重なる余震、熟睡はできませんでした。
翌12日、6時には、目が覚め、NHKのニュースなど、交通事情を確認し、朝は、昨夜の残り物を食べて、10:00にJR(京浜東北、山手線)が動き出し、同一方向に向かう6名で、集団帰宅することを選択しました。
会社を出発して、まずは、浜松町へ、ホームの状況を観て、早速、浜松町をあきらめて、新橋に移動、銀座線で、上野を目指しました。銀座線の新橋は、混雑はしていましたが、日々の通勤ラッシュほどではなく、上野駅に到着、そしてJRの上野駅へ、改札は人盛り、きちんと整列するための最後尾に向ったら、その列の最後尾は、御徒町駅でした。
念のためにJR御徒町駅のホームにいったら、ホームは人でいっぱいでした。
この段階で、12:00、同一方向に向かう6名で協議し、1名が離脱(一旦、会社に戻るとのこと)、5名で、ともかく、目指す方向は、「北」であることから、徒歩で、北上することにしました。途中、昼食をとって、上野を過ぎて、鴬谷まで歩きました。
5名は、鴬谷で、JRのホームを見たら、こちらは、人が殆どいません。
そのまま鴬谷からJRに乗ることにしました。
約10分後、山の手線の電車がきました。我々は、一つでも北に向かう、この思いで、田端まで移動、この時点で、1名が、更に池袋まで、移動する道を選んで、4名で移動することにしました。
田端で更に10分後、京浜東北線の大宮行きが到着、4名で、乗車、混雑はそれほどでもなく、それなりに大宮駅に到着しました。問題は、大宮駅からその先です。この時点で、14:00(4時間を経過)
上野駅同様に人が溢れた状態で、宇都宮線、高崎線、新幹線は、動いていません。
帰る手段を4名で協議、1名は、ここで、離脱、我々3名は、埼玉新交通を選択、同時に、妻M子に連絡して、埼玉新都市交通の終点で、拾ってもうらうよう、車の出動を依頼しました。
埼玉新都市交通で、終着駅には、我々は早く到着しましたが、妻M子も30分後に、混雑の中、上手く農道を利用して、約35kmの道のりを運転し、15:00妻M子と合流、私が運転を変わり、4名で、北上、妻M子の来た道の状況を考慮し、2名の同乗者を最寄り駅で降ろし、最後に妻M子と昨日、今日の状況を話しながら、16:30に我が家に無事、到着しました。
10:00に出発して、16:30に到着、通常は、door to doorで、1時間40分、長い長い道のりでした。

大規模地震が首都圏を襲えば、帰宅困難者になることは、理論的に解っていましたが、一生の中で経験するとは思ってもいませんでした。まさか、3.11で経験するとは、ただ、今回の経験は、幸い、なんとかして、1日で、帰宅できましたが、次のときは、本当に無事に帰れるかわかりません。
常日頃から、対策を考えておく必要があると思います。
妻M子とも、そのことはよく話し合っています。

備えあれば憂いなし

地震以外にも自然災害のリスクが高まっている昨今、「自分の身は自分で守る」ことの大切さを思い知らさせられます。
(意見には個人差があります。)
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